- Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
- / ISBN・EAN: 9784620320731
作品紹介・あらすじ
海・死・宇宙をつなぐ、目くるめく原光景の巡覧。伝えられた風景はすべて偽造。これが地獄めぐりの美しき真景である。稀代の詩的確信犯による言葉の繚乱と官能的狼籍…驚倒の書き下ろし詩篇「フィズィマリウラ」を併録。
感想・レビュー・書評
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詩を綴る言葉は
一枚扉の向こう側にある。
その取っ手を見つけ、
尚且つ開閉が可能な扉であった場合のみ、
立ち入る事が許される。
『眼の海』の取っ手には
馬鹿でかい南京錠がぶら下がっているように見えた。
本のページを捲る、
という反則技で扉を開けてみたけれど、
案の定
ここがどこなのか?
私にはわからなかった。
ただ、
ひどく寂しい場所であり
吹き続ける暗い風が
生者の体温を欲っしている。
長い事、居る場所ではないなぁと
感じた私は
早々に大きな川岸に佇み、
向こう岸をじっ、と見ている著者を捜し、
ぶつぶつと何かつぶやいているその口元を見て
読唇術を試みた。
おそらく
(メメント・モリ)
そう言っている様な気がしたのだが…。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
SLBA選定図書 2012年度 第1期 Bセットから
あの大いなる日にはじまった海・死・宇宙をつなぐ、目くるめく原光景の巡覧!
驚倒の書き下ろし詩篇「フィズィマリウラ」を併録。
分類 911/ヘ
☆2013.2.21 水曜日
ここしばらく時間を見つけて少しずつ作成していた、ちぎり絵ならぬ、切り絵が完成しました。
ひな祭りを題材にした切り絵。
折り紙を切って貼りつけただけなのですが、トレーシングペーパーを使っての作業は思っていたより手間取りました。
けれど、時々手の空いた生徒が手伝ってくれたりと楽しく作ることができました(*^_^*)
見て下さった先生が、「綺麗にできたな。来年も使いや」とおっしゃって下さり、悦にいってます。
で、ラミネートしたかったのですが、図書室にはA4のラミネーターしかなく、そのまま掲示してあります。
3年前にA4のラミネーターを購入したのですが、けちらずA3までラミネートできるのを購入すればよかった。
昔の人はうまいこと言いました。
「大は小を兼ねる」その通りです。 -
震災後5月から10月のわずか半年の間に集中して書かれた詩編51編が収められている。言葉を絞り出さなくては、生きていけないという切迫感から、これらの詩編が生まれたことが伝わってくる。深い所から発せられる重くて暗い言葉の海に浸っていると、読む者も溺れそうになる。
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ
死者の唇ひとつひとつに
他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを
百年かけて
海とその影から掬え
砂いっぱいの死者にどうかことばをあてがえ
水いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
石いっぱいの死者はそれまでどうか語れ
夜ふけの浜辺にあおむいて
わたしの死者よ
どうかひとりでうたえ
浜菊はまだ咲くな
畔唐菜はまだ悼むな
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけのふさわしいことばが
あてがわれるまで
「死者にことばをあてがえ」(全文)
著者は、「ものを書くということは、俳句であれ詩であれ散文であれ、受傷が前提にあるのだと思います。傷を受けて、ものを書く-そのこと自体が希望なのではないか」(『明日なき今日』)と語っている。51編の詩は、著者の傷口から溢れる出た血の結晶だ。その味は、生臭く濃厚だ。読み進むうちに、戦後間もなく自らの言葉を求めて詩を書き始めた田村隆一や吉本隆明といった詩人のリズムが想起されてくる。
わたしの屍體に手を觸れるな
おまえたちの手は
「死」に觸れることができない
わたしの屍體は
群衆のなかにまじえて
雨にうたせよ
われわれには手がない
われわれには死に觸れるべき手がない
「立棺」(田村隆一)の冒頭
ユウジン きみはこたえよ
こう廃した土地で悲惨な死をうけとるまへにきみはこたへよ
世界はやがておろかな賭けごとのおわった賭博場のように
焼けただれてしずかになる
きみはおろかであると信じたことのために死ぬであろう
きみの眼はちいさないばらにひっかかってかわく
きみの眼は太陽とその光を拒否しつづける
きみの眼はけっして眠らない
ユウジン これはわたしの火の秋の物語である
「火の秋の物語」(吉本隆明)の最終連
戦争で傷を受けて、自らの言葉を求めて詩を書くしかなかった敗戦直後の詩人と、震災を目の当たりにして、詩を書かずにはいられなかった辺見。現在は、実は第二の戦後なのかもしれないという思いがしてくる。荒川洋治は、『詩とことば』の中で、「震災後、大量のたれながしの詩や歌が書かれ誰も何も言えないことをいいことに増長し、人々の求める方向に流されて行き、翼賛的な空気もあって、<詩が被災>した」と記しているが、実は震災以前から、言葉は荒んでいたのではないのか。薄っぺらな言葉が氾濫し、ぺらぺらした言葉が巷に溢れていた。震災によって、そのことが露呈され顕在化しただけではないのか。田村隆一や吉本隆明が言葉で世界と向き合い格闘したように、「傷を受けて、ものを書く-そのこと自体が希望」と語った辺見も荒んだ海を泳ぎながら言葉を紡ぎ続ける。だから、この詩集の最後の詩編「フィズィマリウラ」は、次のように結ばれる。
ヒトはまだある
現存するヒトとは
疫病の諸現象の謂いである
終宿主もヒトである
ヒトという現象は だが
もうすこしで終わる
痕跡はのこらない
フィズィマリウラが
赦しの秘跡を
しきるかもしれない
アマンのコビトの預言者たちは
いま預言している
ー アマンに雪がふる と
(*アマン=エチオピアのとても小さな村) -
『生首』ほどの鮮烈な印象がなくて,いささか興ざめの感が漂います。