夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

  • みすず書房
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  • / ISBN・EAN: 9784622006015

感想・レビュー・書評

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  • この本は、戦争の悲劇や悲惨さだけではなく、著者自身のアウシュヴィッツでの過酷な体験について、精神医学の観点から描かれた本であり、とても貴重な本です。
    悲劇的な状況下においても、最後まで人間の尊厳を失わず、生きることが出来た人がいたという事実。
    何故、出来たのか?
    「苦しみの中を、生きる術」が書かれています。
    ぜひぜひ読んでみてください

  • ・ドイツの強制収容所(ユダヤへのホロコースト)での心理学者の体験記→自分では絶対に体験しない環境を追体験
    ・地獄のような環境での人間の心理状況
    ・いまの自分の環境と照らし合わせると雲泥の差
    ・自分がどれだけ幸せに恵まれているかを認識
    ・究極の状況に陥った場合の人間の心理を実体験をもとに書かれている。
    ・収容所に入った時期、生活中、解放と3つの時期での心理状況
    ・早朝目覚めるのが一番つらい。現実に引き戻される。どんな悪夢にうなされていても、現実の方がつらいので起こさないようにした。
    ・そのつらさを紛らわすため前日のパンをとっておき早朝に食べる。
    ・愛する人との精神的会話で内面を保つ。
    ・解放の瞬間は現実を受け入れづらい。何度も夢で先取りしていた事が現実に引き戻されていたため。
    ・こういう地獄があったという事実と、プロの心理学者の視点で実体験に基づく心理状況を描写。

  • ユダヤ人としてアウシュヴィッツに囚われて
    奇跡的に生還した著者の 体験談です。

    前半の解説は(とても長い) 実際の話。
    どこの収容所で どのような人が どんな事をしたのかと淡々とつづられていました。

    それだけでも かなり ヘビーな内容です。

    後半の心理学者である著者の体験談も またかなりヘビーです。
    いつ解放されるか わからない収容所で いかにして生き残れたか。
    人はパンのみで生きるわけじゃないと しみじみ思いました。
    生きるには 希望が必要であるということ。

    この本を読んでしみじみ、
    戦争ではありませんが
    東北や福島の被災して、仮設住宅などで暮らしている方々の事が頭によぎりました。
    住宅の再建にしても、今までの場所には住めないとか
    ローンもあるし、仕事だって、と色々大きな壁が立ちはだかって・・・
    アウシュビッツのように いつ殺されるかわからないで
    ドキドキするような事はないけど、
    心がなえてしまったら 生きていけないですよね。

    戦争は二度と起こしてはいけないし、
    このような収容所も二度と作ってはいけないし、
    そして、
    人々が希望を見出せないような世の中にはしては いけませんよね。

    みんなが 希望に溢れる 良い世の中になる事をしみじみ祈りました。
    (戦争の内容の本でしたが 心についての記述があったのでこのような感想になりました。)

  • この本を読んだきっかけは天啓を感じたからです。
    作品を受け取るタイミングというのは人それぞれ最適な時があると私は考えています。
    広く親しまれ、評価が高い作品(本でも漫画でも映画でも)であっても、自分に経験が足りないことで物語を理解できず作品の良さがわからないということが起きると思います。せっかく作品に触れる機会なのに、享受できなかったらもったいないと思うのでその機会のタイミングに慎重になります。
    なんとなく「呼ばれてる」と感じたり、巡りあわせで手に取るようにしています。

    で、この本を手に取ったきっかけというのは。
    大変有名な本ですから、今までも存在はちらほら見聞きしていました。ただ重そうな内容だったため敬遠していたのが、日野原重明先生の『いのちの使い方』を読んだ時に出てきて印象だったこと、さらに最近読んだ漫画『チ。』があまりに面白くて『BRUTUS 2021年 5月1日号 No.937[やっぱりマンガが好きで好きで好きでたまらない]』のチ。に関するページを読んだところ、この本が引き合いに出されていたことで、もうこれは今が読むタイミングだ、と思いました。

    『夜と霧』を手に取るにあたり霜山徳爾さん訳と池田香代子さん訳の二種類あることでどちらが自分が読みたいものかリサーチしました。
    読みやすいよりも、難しくても宗教哲学・心理学専攻の経歴があり、心理学者である原作者の意図を丁寧に訳している霜山版を手に取ることにしました。せっかくなら原作者の伝えたいことをしっかりと受け取りたいので。

    どんなに難しく読みづらいのかと読む前は身構えましたが読んでみたら思ったよりも難しくなかったです。最近の本ばかり読んでいる方はとっつきにくいかもしれませんが日本の近現代文学を読んだことがあるのならば大丈夫だと思います。
    送り仮名、漢字など現在と異なるものもありますが、概ね文脈から推測も可能です。

    最近は新書で現在の社会的な問題についての本を読むことが多かったですが、それは「今」のタイミングで読むことが必要だと感じていたからです。それらは数年時間が経てば古いものとなるでしょう。
    でもこの本は違うと思います。
    この先もずっと読む価値があり、中に書かれていることは普遍のものであると感じました。収容所での体験記録であり、二度と同じ過ちは起きないよう世界が努めているので全く同じことは起きないかもしれないけれど、ここで描かれている人間という生き物の心理学的見地からの興味深い考察は、人間が複数集まり集団となり、そこに権力が加わり社会、コミュニティとなった場合人々の中にも共通するのではないかと思えるものでした。

    人が自発的にそうなっていくのではなく、環境や周りの人間の影響を受けて思考が歪み行動となり、人はいくらでも残虐になれ、いくらでも脆くなれる。でも、知っていることで信じられないくらいに強く心を持つこともできる。
    だからこそこの本を読み、知るべきなのだと思う。

    また、翻訳・出版にあたり翻訳者、出版社が書いた文章の一節に、彼らがこの本を世に送り出すことに強く使命感を抱いているように思えましたし、それに応えたいと思いました。
    「この本は冷静な心理学者の眼でみられた限界状況における人間の姿の記録である。そしてそこには人間の精神の高さと人間の善意への限りない信仰があふれている。だがまたそれはまだ生々しい現代史の断面であり、政治や戦争の病誌である。そしてこの病誌はまた別な形で繰り返されないと誰が言えよう。もしわれわれが蛇と闘わないならば……」(P207 L13~)
    「我々がこの編集に当って痛切だったのは、かかる悲惨を知る必要があるのだろうか? という問いである。しかし事態の客観的理解への要請が、これに答えた。自己反省を持つ人にあっては「知ることは超えることである」ということを信じたい。そしてふたたびかかる悲劇への道を、我々の日常の政治的決意の表現**によって、閉ざさねばならないと思う。」(P2 L13~)
    **「一九四五年原爆の広島・長崎投下に始まる原水爆時代の相貌は新たな悲劇の可能性の展開を感じさせるに充分である。四五年の事件さえ、その目的は戦争終結よりも、むしろ大国間の冷戦の一作戦であったと理解されている。新しい機械時代における技術と政治との相関は大きいので、ここに政治装置に反映する人間の意志と努力の重大な責任を思わなければならぬ。」(P4)

    2021年の長崎市長による長崎平和宣言において、ハッと気づかされた箇所がありました。一部引用します。
    「「長崎を最後の被爆地に」
     この言葉を、長崎から世界中の皆さんに届けます。広島が「最初の被爆地」という事実によって永遠に歴史に記されるとすれば、長崎が「最後の被爆地」として歴史に刻まれ続けるかどうかは、私たちがつくっていく未来によって決まります。」
    https://www.city.nagasaki.lg.jp/heiwa/3070000/307100/p036984.html

    言われて初めて気づき、危機感と使命を感じました。
    過去から学び、同じ過ちを繰り返さないようにしたい、という意思を持って生きています。この本を訳し、出版し、印刷し続けてくれていることに感謝です(私が手に取ったものは2020年9月25日 新装版第53刷発行でした)。

    本の構成は、①出版社の序 ②解説 ③フランクルの記述 ④訳者あとがき ⑤写真と図版となっています。
    私は、③④⑤①②の順で読みました。
    ②の解説は二段組でボリュームが凄く、ここから入ったら途中で心がくじけてしまうかもしれないとなぜか思いました。
    ③が想像以上に読みやすく、また興趣が尽きないのでどんどん読み進めることができました。
    フランクルが酷い描写を避けて、できる限り人間の心理的変化の描写に努めてくれたからだろうかと考えています。

    なので、この本を読んだことで収容所の歴史、体験記録として様子を事細かに知れるなど期待すると少し違うかもしれません。
    ③の冒頭P75にある「事実の報告というよりもむしろ一つの体験描写に重きがおかれている」という文章の通り、フランクルの視点による収容所における記録の一例といったスタンスであり、本文中でも何度か、これがすべてに通じることではないと念押ししているように思われました。
    このスタンスは、読む側・情報を受け取る側が常に持つべきものと思います。
    全てを網羅する情報や本や意見、はたまた真実といったものはなく、様々な視点からの事実、考えが存在しているということを念頭に置かなければ、フェイクニュースに踊らされたり騙されたり盲信してしまったりして冷静な判断ができなくなってしまうと考えています。

    このように、この本からは「収容所の体験」の情報を知る以上に恒久的に人が忘れてはいけないことも学ぶことができます。

    「「苦悩という情緒はわれわれがそれに関して明晰判明な表象をつくるや否や消失してしまうのである。」(エチカ、五ノ三、「精神の力あるいは人間の自由について」)」(P179 L1~)
    「ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。」(P183 L1~)

    前後の文脈なしに引用してここだけを読んだら感じ方が変わってくると思うのであまりよくないとは思うけれど備忘録としての意味も込めて引用しました。
    この箇所には大変感動し、涙しました。
    極限状態においてこんなに素晴らしい思考転換を人は出来るものなのか。なんということか。彼がこうして伝え後世に残した功績の大きさに感謝せずにいられない。
    (ただ、念のためにも書いておきたいのが、そういった使命があるから生き延びられた運命だった、過酷な状況でされも糧にしてむしろあってよかったと病気や事故などで言うものを見かけることがあるが、この収容所に関してはそれはあり得ないと私は強く思います。生きるも死ぬも明日は我が身の極限状態であり、道理はなく矛盾だらけの地獄だったと。)

    極限状態の中でも、考え続けこの域に達するという人間の可能性の希望。
    でも悟りとは違う、自分を過剰に持ち上げることも根拠のない自信や希望にすがることなく、冷静に客観的につとめ運命に翻弄されながら目撃、記し続けた様子は感嘆の気持ちが抑えられません。
    このことを知ったことで、いかに心を保ち続けることが大事か、生きていく上で学べたことは価値のあることと感じます。

    ただ読んでいる中でつらかったのは、解放までのところです。
    もうこれ以上の絶望はないだろう、早く解放させてほしいと思うのにさらにとどめともいえるような追い討ちみたいな出来事があり読んでいるだけで心が折れそうになりました。
    文章でこれだけショックを受けるので、実際にその場にいたとしたらたとえ心を強くもって収容所生活を生き抜いても解放のところで緊張感がとけ、力が抜け絶望と共に生きる気力を失いそうだと思ってしまいました。
    読む前は、収容所生活がピークのつらさと思っていたので、思いもがけないつらさというものが実際は存在しており、やはり本当のつらさは実際に体験した人しかわかり得ないのだと痛感した。

    情報量が凄まじく、③を読み終わった後の、⑤の写真のショックが大きすぎるままに②の解説で事細かに酷い収容所の様子は悪行が語られ、理解が追いつかないのを感じました。これ以上は危険、と脳が判断したのかもしれません。

    収容所で尊厳を踏みにじられ、命を奪われた方々が安らかに眠ることを願ってやみません。同じ過ちを二度とおかしてはならないと強く感じます。

    解説では詳しく、収容所で囚人に暴力の限りを尽くした人々の名前とその残虐な行為について細かに書かれています。
    その人たちの処刑について文句はないですが、対岸の火事というのか、自分と性質の違う人間と判断してその人たちがいなくなれば大丈夫だ、といったような安直な考えには至りません。
    その当時の正義感があり、誰かを従え自分の命令で思うままに操れる快感、優越感にどんどんエスカレートして人格が変わった可能性もある、すなわち誰がそのように変貌するかわからないと思います。「そういった人たち」で片づけるのではなく、そこに至った状況、精神の変化を知ることも大事なのでしょう。
    加害者にも被害者にもさせない、です。

    この本を読むことができた本当に良かったです。
    稚拙な感想でしたがここまで読んでくれた方がいたらありがとうございます。

  • 新訳版を読みました。文から伝わってくるものがあり、自分に知識があったなら原文で直接にふれてみたかった気もしました。

    以前、北⚪︎⚪︎の収容所のお話だと思うのですが、外国のアニメ映画の予告がふとインターネット上で流れてきて、その映像が胸にひどく残った日がありました。
    絶望感、無力感、未来も夢もない、生命の裂け目がのぞいているような生活、その中で、人間らしく生きようとすること‥

    その繋がりで手に取りました。
    前半はとてもつらく、皆さまの感想をたよりに、後半や最後を中心に読みました。

    以下引用です。

    「現場監督(つまり被収容者ではない)がある日、小さなパンをそっとくれたのだ。わたしはそれが、監督が自分の朝食から取りおいたものだということを知っていた。あのとき、わたしに涙をぼろぼろこぼさせたのは、パンという物ではなかった。それは、あのときこの男がわたしにしめした人間らしさだった。そして、パンを差し出しながらわたしにかけた人間らしい言葉、そして人間らしいまなざしだった‥。」p144より

    「あなたは雲雀があがり、空高く飛びながら歌う讃歌が、歓喜の歌が空いちめんに響きわたるのを聞く。〜あなたを取り巻くのは、広大な天と地と雲雀の歓喜の鳴き声だけ、自由な空間だけだ」p151より

    旧版訳者さんのあとがきでは、著書とのやりとりや、とても簡素、質素な部屋に住われていたこと(何もかもなくしてしまったので)など、当時の様子も伝わってきました。

    また本当に個人的な感想なのですが、
    今まで、生活で見かけるとつらくなる場面がありました。満たされたようにみえる親子連れや、家庭の映像などです。自分にはなかったと、どうしても気持ちが沈んでいく事がありました。
    この本の中で、本当に大勢の方の命がなくなった様子を読み、せめて生まれ変わりがあるなら、幸せに、ただただ幸せに人生を生きてほしい。素直にそう思いました。そのことで、上にあげたつらさが消えていったように思いました。

  • 苦しい時は、自分を客観視して、第三者として目の前の現象を分析する。

  • 続けて2度読みしました。
    ついつい自分中心になってしまいやすい私たちの思考、コペルニクス的転換があるということを知っていることで、つらいことも耐えうる力が湧いてくる…、自分の境遇なんてと思いつつ、比べるものではないと一方で浮かびつつ…どうしようもなくしんどい時に、誰かのために私はここにいるべきだと思って耐え忍ぶことができたのは、根っこは通じているのかなと思いました。

  • 「美術を学ぶ意味とは何か」
    中学最初の美術の授業のことだった。

    もちろんその時には真面目に考えなどしなかった。

    「どんな極限状態であっても、夕陽が美しいと思う心があれば人間らしく居ることができる。美しいと思う心は人間を人間たらしめる。美術の授業はその力を養う。」
    はっきりとは思い出せないその言葉は、何故かずっと心に残っていた。美術の成績は3だったが。

    あれから20年ばかしが経った。あの先生が言っていたのはこの本のことだったのだ。
    強制収容所での極限の生活の中で、夕日を見るために死にかけの身体を引き摺って外に出る。その感性が生と死の境界になる。生きるということのおよそ全て。
    むしろなぜ今まで読んでいなかったのか。
    読書後、生への解像度がぐっと上がる。
    人間なら読むべき作品。

    新訳も目を通しましたが、圧倒的に旧訳がおすすめです。70ページにわたる収容所の詳細や、生々しい写真も込みでの体験です。文章の重厚さも比較になりません。読むなら旧訳です。

  • とてもよくない事が書かれているが、ところどころにあるフランクル医師の客観的な思考で救われる。
    心打たれたのは、「何人も不正をする権利がないという事、たとえ不正に苦しんだ人でも不正をする権利はないのだ」とアウシュビッツから数々の奇跡で生還した人が言うとは、頭が下がる想いです。
    世間では、「10倍返し」だともてはやされていますが、大事な事は、権利を行使することであって、その権利は、決して不正の上に成り立ってはいけないという事。なぜならそれを行うと、不正を働いている人と同じになってしまうから、正義を逸脱した権利を不正というのだから。
    身近なことで感じるのは、隣の人が道でつばをはいたからといって、自分もつばを吐いてもいいという事には、ならないはず。
    それが、正しいか、不正かは、隣の人がやっているから、多くの人がやっているから、あの人がやっているからといって、正当化されるものではないはず、正か不正かは、それぞれの人の心にあって、決してそれは他者には見せたり、さらしたりできないものである。

  • フランクルによる本文に先駆けて本書の解説がある。
    アウシュヴィッツをはじめとする収容所で繰り広げられた、人を人とも思わない悪逆非道の数々がかなり高いディテールで数え上げられている。生存者の証言や戦後裁判のデータ等に基づいて、いかなる悲惨をも見逃さないその徹底ぶりはさながら閻魔帳だ。フランクルも収容された施設の惨憺たる状況まで仔細に描かれるのを、吐き気をこらえつつ追っていると、ふいにこんな疑問がよぎる。
    「この解説をおいてほかに書くことなど、なにもないのではないか?」

    ドイツ人が生み出した地獄でユダヤ人が大いに苦しめられた。
    その図式を再確認するだけなら、なるほど解説を読めば事足りるだろう。
    心ない行為を受けた者もまた心を崩され壊されざるを得ず、悲惨は繰り返されるのだ…人間なんて脆弱で愚かだ…と短絡する悲観に、本書『夜と霧』は待ったをかける。なるほど収容所で人間には残酷な試練が課せられる。無感動や原始的衝動に追い込まれるうちに未来への希望を失って自棄に走る者もある。しかし、良心を保とうとすることもまた、辛うじてできる。状況ないし環境は必ずしも人間心理を決定しないのである。その証拠にフランクルは、いくぶんの思いやりを持って少ないパンを分け与えたドイツ看視兵の例や、他方で、苦境をともにする「仲間」でありながら残忍な振る舞いに及んだユダヤ人の例それぞれを挙げる。フランクル自身も、移送時から解放までのみずからの心理を冷徹に観察し、自暴自棄に陥る道をじゅうぶん理解しつつも、ほかの囚人を鼓舞するほどの高潔な良心を最後まで持ちつづけた。
    「いかようにもできる」とは決して言えないまでも「ほかのようにもできる」「ほかのようにする道も開けている」ことを、自由の対極の収容所を生き延びた人間の口から報告を受け、私は喜悦のうちに本書を閉じた。解説に先に取り組み、本文の意義を疑ってかかっていたあのときの黒々した胸中とは大違いである。

    思い出す本が一冊ある。尹雄大『聞くこと、話すこと。』だ。
    「感覚したことは私の外にある。『私の苦しみ』であっても『私が苦しみ』ではない。体験のもたらす苦しみが私を覆い尽くしそうに思えても、常にそれは私の一部でしかない。私は意識できたり感じたりできる範囲にはない。私の身体は常にそれらの外にある」(p.149)
    環境とせめぎあい、絶えず干渉を受ける身体の苦しみは、必ずしも私の心理を言い当てない。ひとえに現実感に乏しい悪夢とみるか、試練とか修行といった、未来を確かな範囲に含めたものとして捉えるか。それは、いつでもありえる選択肢だ。

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