- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622018971
感想・レビュー・書評
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目の拡張が望遠鏡・顕微鏡。望遠鏡・顕微鏡はメディア。皮膚の拡張が衣服・家。衣服・家はメディア。足の拡張が車輪。車輪はメディア。爪と歯の拡張が兵器。兵器はメディア。人間と物理的対象の間にあるのがメディア。▼メディアはメッセ―ジを乗せて運ぶ乗り物で、メディアそれ自体がメッセージをもつ。メディア自体が人間の経験や相互行為を構造化する力をもつ。話し言葉(というメディア)は、同じ空間に居合わせなければならない、聞く人々の間に親密な関係を作る。一方、書物(というメディア)は、持ち運び可能で好きな時に好きな場所で読める個人的なもの。マクルーハン『メディア論』
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2013 8/15 第1部+第2部1・2までパワー・ブラウジング。司書課程資料室の本。
図書・図書館史授業用にマクルーハンをおさらい・・・と思い手にとったものの、やはり初回では使わないかなあ・・・。
各メディアの話部分を先々では取り上げる可能性あり。 -
数十ページ読んだあたりから私の鼻は嫌な臭いを嗅ぎとった。洗練された言葉の羅列はどれ一つ肚にズシリとこない。重量を失った思考は飛散する。しかし花火のような情緒はない。ただネオンサインのような刺激があるだけだ。
http://sessendo.blogspot.jp/2012/09/blog-post_1054.html -
副題が「人間の拡張の諸相」とあるように、身体能力、認知能力を拡張するものとしてメディアを捉えている。
全体としてサイバネティクス的な雰囲気が漂う。
半世紀も前にメディアにについこれだけの考察ができたとは。
ネットも携帯もないそんな時代のものとは思えないほど現代に通じる。
とはいえ、マクルーハンの議論はあまりに多岐に渡り体系化できていない。
学術的というには散文的。
その中の一部に現代に通じる内容が含まれていたとしても不思議はない。
マクルーハンが語っていないこと、マクルーハンの考察と現代とで異なることこそが問題なのだろう。 -
メディア論の古典的書物。
約20年ぶりに読み返しましたが、案の定内容の大半は失念していました。(覚えていたのは全ての技術は我々の身体の拡張である、という件だけ)その分、半世紀前に書かれたとは思えないほどの先見性に改めて驚いた次第です。
一方でこの非常に読みにくい書物から、その先見性とは何であったかを再考してみるに、ひとつはこの本が「メディア論」という形式を規定してしまった点にあるように思えます。
マクルーハンはメディアを論じるに当たって、彼がメディアと考えているもの(話しことば、書きことば、・・・ラジオ、テレビ等々)に対する評論の集積と、それらの相対によって描き出していますが、そのことはメディアの裾野の広がりと特性を過不足なく捉えています。逆に言えばそのような形でしかメディアは捉えきれないということなのでしょう。
もうひとつは、この論が膨大な書物・映画・論文などの参照によって作られている点です。現在であれば「サンプリング」という言葉を与えられるであろうこの手法は、メディアの特質のひとつである、「オリジナルの不在」を図らずも描き出していると見るのは見当違いでしょうか?
いずれにしてもこのマクルーハンの労作が、いまなお多くのメディア論に引用されている点から見ても、今なおその古典的原点としての輝きを失っていないと言えるのかも知れません。
ただし、読むのにはものすごく根気が必要。で、得られるものは???という正直な感想を最後に記しておきたいと思います。 -
「メディアはメッセージである」と始まるこの本。今は辞めてしまった会社の同期がマクルーハンについて熱く語っていたので借りてみたが、さっぱり分からず。もっと本腰を入れて読むべき本だと悟る。というわけで、詳細は語れず。