- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622020097
感想・レビュー・書評
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ハンナアーレント「イェルサレムのアイヒマン」
著者が 裁判から得た教訓は 副題の通り「悪は陳腐なものであり、誰でも起こしうる」
ナチスの下級幹部 アイヒマンを被告としたユダヤ人虐殺の裁判録。なぜ 非軍人であり、非ユダヤ主義者でもない アイヒマンが 大量のユダヤ人虐殺を行えたのか が目付けポイント
アイヒマンの言葉から 服従の本質を見た。アイヒマンは恐怖や良心を一切考えることなく、権威に服従し、ヒトラーの言葉を法律として、自分の義務を果たしていたことが わかる
「政治とは子供の遊び場ではない。政治において服従と支持は同じものなのだ」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
現代人はみんな一度、読んだほうが良いと思う。
責任が己に帰結しない(と脳が判断できるような)状態に陥った時、人間は、何処まで自分の良心的判断に従うことが出来るのか。大きな流れに逆らって、良心的判断に行動指針を委ねるのは本当に難しいことが分かる。薬物中毒等と同じで、一度でも手を染めたら最後、後は決壊したダムのように『どんな行為にでも』手を染めてしまうかも知れない。
人間は思っているよりも惰弱で、決して過信してはいけないということを思い知らされると共に、もし自分が同じ立場にいたらどうするのだろうかと考えさせられる。 -
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ユダヤ人撲滅(巨悪)を指揮したアイヒマンは極悪非道な人間というより凡庸な人物。狂人のような残忍さもなく、ユダヤ人への異常な憎悪もない。与えられた仕事を法に従って忠実にこなした平凡な官僚。罪の意識もない。命令に服従しただけ。ただ政治においては服従は支持と同じ。彼の絞首刑は妥当。▼アイヒマンは特殊な人ではなく、平凡な人。誰でも彼のようになる可能性がある。そうならないために、他人の立場を常に想像すること。上の命令に無批判に従うのではなく、自分の頭で考えること。ハンナ・アーレントArendt『イェルサレムのアイヒマン』1963
人間は集団の圧力で自分の認識を歪めてしまう。ある線分は線分AからCのどれと長さが同じでしょうクイズ。複数人のサクラは正解ではない線分ではないかと言う。三分の一の被験者はそれに同調して、正解ではない線分を選んでしまう。多数派への同調。S.E.アッシュ1952
人間は権威ある人に命令を受けると、自分の道徳意識や価値観にそぐわないことでも遂行してしまう。人間は集団的圧力に晒されると、暴力的な傾向を持ってしまう。アイヒマン実験(服従の実験)。権威者から電圧ビリビリを命令される。アイヒマン「私は単なる歯車で、他者に替えることができるもの。私の地位にあればどんな人でも同じことをした」。▼自分は権威者の代理人に過ぎない。責任は権威者にあるとし、自分の行動を正当化する。スタンレー・ミルグラムMilgram『服従の心理:アイヒマン実験』1974
監獄実験。看守役は残忍に、囚人役は自尊心が低下していく。役割の内面化。フィリップ・ジンバルドZimbardo -
イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告
(和書)2012年09月14日 13:47
1994 みすず書房 ハンナ アーレント, Hannah Arendt, 大久保 和郎
今回再読してみました。アーレントさんの作品は図書館で借りられるものは、すべて読みました。初めの頃、アーレントさんについて思考できない状態でいました。だから読み直して吟味し直したいと前々から考えていて、今回思い立ちました。
この本は、アイヒマンに関するものでアーレントの他の著作を読んでいないと彼女の立ち位置に混乱を来すかも知れない。
この本を読んで思考自体がどのように可能になるか!他者の立場に立つという想像力とは何か!を考えさせられました。これはアーレントさんが他の著作でも指摘しているものでこの本も同様に読むことができます。
読み直して、気にかかっていたことが一つ理解できたように感じます。 -
正直本編の訳文は読みづらかった(´;ω;`)
だが、限られた休憩時間で可能な限り調べたり、あるいはわからないまま保留して読み進めるなどして兎にも角にもたどり着いた「エピローグ」、「あとがき」、そして「訳者解説」で僕は震えた -
哲学
これを読む -
タイトルとは違って、単なる裁判の傍聴記ではない。
そも「イェルサレム裁判が裁判として成立するのか」から問うている。
1:勝利者の裁判であり公正さに欠ける、2:人道に対する罪の明確な定義がない、3:この罪を犯す犯罪者に対する認識が不十分なこと、この3点をもって法廷として失敗していると断じている。特に動機がないままに行われた犯罪をどう裁くのかは、法治国家にとって最大のハードルだろう。ユダヤ人迫害は国家行為だったのだから。
それ故にアイヒマンをに対しての訴追理由を「政治においては服従と支持は同じものであり、ユダヤ人迫害を行う政治を支持し実行したからこそ何人も、ともに生きていくことはできない。これが絞首の唯一の理由である」とすべきだったとのアーレントには迫力がある。多様性を否定する事は赦されるべきではないのだから。 -
本書は久しく読みたかった本だが、『責任と判断』というアーレントの文集をハードカバーで買ったところいきなりちくま学芸文庫で刊行されて多大なショックを受け、この本もまた文庫化されるのでは?と猜疑心に悩まされ、様子を見ていたのである。
やっと買った。
ナチス・ドイツの敗戦後、アイヒマンは南米に逃れ身を潜めていたが、イスラエルの手の者に捕らえられ、エルサレムで裁判を受けることとなる。 在米のアーレントは『ニューヨーカー』から派遣されてこの裁判を取材しに行ったのだ。
アイヒマンはユダヤ人を大量にゲットーやら「絶滅所」に送り込んだ罪を問われるのだが、どうやら小心者の「凡庸な」人物であるようで、実際にユダヤ人が虐殺された場面を目撃するとかなり狼狽してしまうような男だ。
アーレントの言うこの「陳腐な悪」は、官僚制に組み込まれた「普通人」が、ミルグラムの実験で見られるようにしばしば「悪」の方におおきく踏み込んでしまうというようなことだろう。
判断は上層のだれかがくだしており、自分はそれに「従わざるをえない」ということになる。しかしするどく、アーレントはアイヒマンが「回避することは可能だった」ことを指摘している。
この官僚制がもたらす「悪」は、日本社会には実になじみ深いものであり、一般企業も官僚制システムで動いているこの国では、誰もがアイヒマンのようなものなのだ。
アーレントは自身ユダヤ人だが、あまたの資料を読んでみごとに「ユダヤ」を対象化しえた彼女は、本書でユダヤ人たちの側の「ただしいとは言い切れない行動」も客観的に描写したため、論争が起こったらしい。