- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622020097
感想・レビュー・書評
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ユダヤ人絶滅を目的としたナチスによるホロコーストの主担い手と目され、潜伏していたアルゼンチンよりイスラエルによって誘拐され裁判にかけられたオットー・アードルフ・アイヒマン元SS中佐に対する、あまりにも有名なハンナ・アーレントの公判レポートである。
最初は極悪人、人非人な悪魔とみられたアイヒマンであったが、被告席に立った彼は、虚言癖があり、話しも下手で、SS(親衛隊)で出世を願いながら挫折し、逃亡先で哀れな生活を送ってきた小人物に過ぎなかった!
ホロコーストにおける彼の立場も、決して指導的な役割ではなく、ユダヤ人大量移送を行う部署の課長に過ぎず、本人は自分では一人もユダヤ人を殺したことはないと言い、移送されたユダヤ人たちの結末は知っていたが、上からの命令に従い移送しただけだと主張するのである。
当初はユダヤ人問題(!)の専門家として、ユダヤ人自身による移住組織を編成させ、彼らとともに強制移住(=追放)そして強制収容にかかわってきたアイヒマンであったが、ヒトラーがユダヤ人問題の「最終解決」(=殺戮)を指示するや、ユダヤ人問題専門家である自分とは関係なく大量虐殺が始まった。本人も「最終解決」には当初は抵抗感を感じたというが、「忠誠こそわが名誉」という親衛隊にあっては悪を識別する能力(=良心)をいとも簡単に放棄させてしまうことになる。しかも、ガス殺は総統の慈悲であるという論理に転化して・・・。
正当な法律に従って選ばれた国家の指導者が、ユダヤ人絶滅を国家の方針とし、これに逆らえないような法律を定めた時、これに反することは可能なのか?犯罪国家のもとでは、命令に反して軍事裁判にて処刑されるか、敗戦の場合は戦犯として処刑されるか、という選択肢しか残されていない中で人はどう行動できるのか?まさにアイヒマンの状況がこれにあたるというのである。
だが、裁判過程で明らかになる数々の聞くもおぞましい状況が確認された上でアーレントはいう。例え戦勝国による裁きやイスラエルによる裁きに正当性や公正さに疑問符が付けられようと、これは「平和に対する罪」や「人道に対する罪」ではなく、「人類に対する罪」であり、いかに酌量の余地があろうとも、人類が今後ともに彼と生きることを許さないだけの行為であったことは明らかであるが故に、これは極刑が相応しいと。そしてそれが、取るに足らない小人物によって成された主体性のない「陳腐な悪」であったとしても。
また、アーレントの冷徹な眼差しは、アイヒマンの裁判を通じて得られたホロコーストに関与したあらゆる人間・組織の様々なレベルの行為にも向けられている。
追放→強制収容→大量虐殺といった段階過程やナチスドイツ帝国の国内事情、さらにはヨーロッパ国々での関与の仕方を曝け出し、そこから彼らの成した罪状の数々をきわめて論理的・網羅的に暴きだしていくのである。
ユダヤ人虐殺に加担したユダヤ人組織、ナチスドイツ下でむしろ積極的に相争うように「最終解決」を推進した各庁の官僚たち、大量虐殺を推進した前線の指揮官たち、ルーマニアなどナチスドイツ以上に積極的だった国、戦争終盤には自らの政治的保身のためヒトラーに逆らい虐殺中止命令を出していたヒムラーSS長官、そして、なおドイツ国内で軽微な刑罰しか受けずにのうのうと公的役職に就いている者などなど・・・。
ユダヤ人追放も含めて、その関与の広さから「ユダヤ人問題」がこれほどヨーロッパに根深いものであったとは驚きであるが、惨たらしさと嫌悪感が充満するこの著述の中で、デンマークやブルガリア、イタリアなど、ナチスの「最終解決」圧力を無視あるいは抵抗した国があったのはわずかな救いと言うほかはない。
さらに本著作で大きな議論となった一つとして、ユダヤ人自身の行動が挙げられる。ユダヤ人自身の支援組織(追放から虐殺まで)、収容施設内での自治管理組織および虐殺およびその隠ぺい工作の担い手として、そして集団移送から収容施設にいたるまで圧倒的大多数はむしろユダヤ人側だったにもかかわらず大きな抵抗が無かったこと(ゲットー心理とか自治組織の存在、ナチスの巧みな隠ぺいや甘言などによるものか)など、本書は不都合な事実も数多く含まれていたため、裁判後のユダヤ社会においても批判の対象になったとのことである。
この著作はアイヒマン裁判のレポートということにしてあるが、あの当時を生きた同じユダヤ人として(最終的にアメリカへ亡命した)、また真実を探求する哲学者として、この裁判の行く末を見届けることで、あの惨禍を単なる過去としてではなく人類への警句として残そうとするアーレントの強い情熱と冷徹な洞察や分析が入り混じった、気迫のこもった著述であったといえるだろう。
やたら挿入文が多いのと、2重否定以上の文章の多用、それにシニカルな表現も多いためか、日本語訳としてはひどく読みずらかったが、アーレントの思考のほとばしりを感じることができて、これはこれで良かったかもしれない。 -
<真に怖ろしいのは、強固で邪な悪ではなく、「陳腐な」悪である >
原題:Eichmann in Jerusalem A Report on the Banality of Evil
著者・ハンナ・アーレントは、ユダヤ系ドイツ人の思想家・哲学者・活動家である。1906年、ハノーヴァーで生まれた彼女は、マールブルグ大学・ハイデルベルグ大学・フライブルグ大学で学び、「アウグスティヌスにおける愛の概念」というテーマで学位を得ている。1933年にパリに亡命。1940年まで、ユダヤ人少年少女のパレスティナ移住を助ける運動に従事し、1941年、さらにアメリカに亡命。1951年にアメリカ市民権を得て、その後、いくつかの大学の教授を歴任した。1975年、69歳で死去。
本書は、アーレントが1963年にイェルサレムで行われたアイヒマン裁判を取材した報告である。この中で、アーレントは、裁判自体の記録だけでなく、アイヒマンがユダヤ人問題においてどのような役割を果たしたか、さらには、各地のユダヤ人がどのような運命を辿ったかを(アイヒマンの役割に限定せずに)詳細に綿密に記載・考察している。元々はThe New Yorker誌に連載されたもので、加筆・改訂して出版されたのが本書となる。
副題が示唆するように、アイヒマンが小市民的で職務に忠実であっただけだとする論点がよく知られる。アイヒマンは粛々とユダヤ人移送に関わっただけだ。彼は別に極端に残酷だったわけでも愚かであったわけでもない。ただ優秀な官僚として、役目を遂行したに過ぎない。
そうした点ももちろん詳細に述べられているのだが、ホロコーストにおいて、ユダヤ人自身が果たした(あるいは果たしてしまった)役割、またイェルサレムの法廷にアイヒマンを立たせることの「正しさ」にかなりのページが割かれている。
ユダヤ人が仲間の名簿を作り、また実際に手を下す際に協力することなくして、この大規模な殺戮は本当に可能だったのか。
潜伏先のアイヒマンを誘拐してまでイェルサレムに連れてきた行為は許されるのか。
人類が予想だにしていなかったほどの、人道に対する大きな罪を裁ける法廷はいったいどこなのか。
判決が下りてから処刑までが極端に早かったことに、正当な理由はあるのか。
そういった論点を見ていくと、アーレントはアイヒマン自体を糾弾したかったのではなく、もっと広く、悪を止めることのできる正義について考察しているようにも思えてくる。
発表時に非常に物議を醸したという。
1つは、アイヒマンが人を殺したいともユダヤ人が憎いとも思っていなかったという主張から、アイヒマンの罪を軽んじているのではないかという非難。
1つは、ユダヤ人の協力に触れた点。
だが、彼女がここでしようとしているのは、いずれかの立場に寄り掛かり、別の立場にあるものを指して声高に非難することではないように思える。
彼女がユダヤ系でなければこの本は生まれなかったのだろうが、しかし、この本の論点には、もはや出自も関係ないのではないか。
邪悪で強大な悪ならば、糾弾し、闘うことも可能だ(そう、困難ではあるとしても、それに対して拳を振り上げることは可能だ)。
だが、悪が「陳腐」であるならば、「使い古されて」「ありふれた」「月並みな」ものであるならば、どこに対して、何に対して、拳を上げて闘えばよいのか。
忍び寄ってくる悪に呑み込まれない術はあるのか。
エピローグの最後の段落に、震撼し、そして背筋を正す。
アイヒマンがなぜ死刑に処されねばならないのか。架空の判事の口を借り、アーレントは述べる。
ユダヤ民族および他のいくつかの国の国民たちとともにこの地球上に生きることを拒む(中略)政治を君(*引用者注:アイヒマン)が支持し実行したからこそ、何人からも、すなわち人類に属する何者からも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないとわれわれは思う。これが君が絞首されねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である。
この本を十全に理解し、咀嚼できたかと問われればいささか心許ないが、1つ一里塚を置き、また戻ってくるしるべとしたい。
*さほど厚い本ではないが、二段組で活字も細かく、ページ数を聞いて思い浮かべるより二倍以上のボリュームがある。引用部分から知れるように、訳も読みやすいという部類ではない。
個人的に、ハンナ・アーレントにはいずれ挑戦しようかと思っていたが、今回、本書を手にしたのは、映画(「ハンナ・アーレント」)が話題になっていたため(映画は未見であるし、見に行くかどうかは決めていないのだが)。
門外漢としては、入門書を先に手にするのが妥当だったかもしれないが、そこはページ数で少々軽く見てしまった、というところだ。
*まったくの余談だが、図書館で借りた本は寄贈本で、寄贈者による多くの書き込み・傍線が記されていた。アーレント、訳者、寄贈者のそれぞれの声を聞きながら読んでいるような、いささか不思議な読書体験だった。
*それにしてもつくづく、この問題は大きい。自分は本当に碌に知らないんだなぁと思わされもする。-
私も映画は未見です。見に行った人に感想をきいてみましたが、なかなかに複雑な思いだったようです。タブーに正面から立ち向かうのは本当に難しいので...私も映画は未見です。見に行った人に感想をきいてみましたが、なかなかに複雑な思いだったようです。タブーに正面から立ち向かうのは本当に難しいのですね2014/01/11
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usalexさん
そうですね。
さまざまな批判は、主張に対する反論というよりも曲解だったような印象を受けます。やはりデリケートな問題...usalexさん
そうですね。
さまざまな批判は、主張に対する反論というよりも曲解だったような印象を受けます。やはりデリケートな問題であったということでしょうね。
いずれにしろ、非難の中で、流されず自分の主張を貫くというのは並大抵のことではなかっただろうと思います。2014/01/11
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「それはあたかも、この最後の数分間のあいだに、人間の邪悪さについてのこの長い講義がわれわれに与えてきた教訓 - 恐るべき、言葉に言いあらわすことも考えてみることもできない悪の陳腐さという教訓を要約しているかのようだった」ー 絞首台の前で、最後の言葉として世話になった国への「感謝を忘れない」という自らの弔辞には似つかわしくない紋切り型の言葉を述べるアイヒマンを評して、裁判の報告の最後にアーレントはこう書いた。
本書の副題にもなり、また有名にもなったこの「悪の陳腐さ」ー the Banality of Evil - は激しい論争を引き起こした。なぜなら、アイヒマンは陳腐な人間どころか誰もが文句なく死刑台送りにするような<怪物>でなくてはならなかったからだ。さらに、本書の中でアーレントがユダヤ人名士や一般ドイツ人に対しても最終解決に対する共犯性を強く指摘したため、これらいわば同胞からも強い批判を浴びることになった。
ちなみに”Banality”という英単語はほぼ初めて見た単語だ。Cambridge Dictionaryを引いてみると、”the quality of being boring, ordinary, and not original"となっている。退屈なほどありふれた、という意味があるとすれば、Banalityはアイヒマンその人にだけ向けられるべきものではなく、それよりもいっそう<悪>がありふれたものであるということを示していると考えてよいだろう。狂っていなくても、悪意がなくとも、いわば簡単に<悪>はなされてしまうということだ。アイヒマンは、あなたであったかもしれないし、あなたがそうならないことを保証するものは何もないのだ。
【裁判の背景】
アイヒマンは、逃亡先のアルゼンチンでイスラエルの諜報機関に捉えられ、イスラエルの法廷に引き立てられた。ナチス最後の大物と言われたアイヒマンの裁判には当初よりいくつかの前提が存在していた。ユダヤ人にとっては、多くの同胞の敵討ちであるとともに、ユダヤ民族に起こった理不尽な悲劇を世界に改めて知らしめる場であり、イスラエル建国の正当性をさらに確かにするためのものでもあった。だからこそ、アイヒマンはドイツではなくユダヤ人の法廷で裁かれるべきだった(これに対してはアーレントも賛同している。ただし異なる理由で)。一方、ドイツ人にとっては、自らの身を批判しつつ、かつての彼らの政府の犯罪的行為が、ナチスの特定の高官たちの暴走によるものであることが証明されることを望んでいた。アーレントは最後までドイツ政府が正当な権利である引き渡し要求を行使しなかったことを指摘しているが、それはドイツ政府ひいてはドイツ国民が望むところではなかった。仮にドイツにおいて裁判を行った場合、アイヒマンに対して他のナチス関与者の戦後の裁判でそうであったように無罪や極刑以外の判決が出る可能性があり、ドイツ政府にとってもドイツ人にとっても、それは大きなリスクでしかなかった。そういった状況からして、アイヒマン裁判は、結論がそのはじめから求められたショーでもあった。実際、アメリカではこの裁判がショーとして放送されていたのである。
そういった背景があるがゆえに、アイヒマン裁判を傍聴して書かれた「悪の陳腐さ」という副題を持つこの本は、ユダヤ人とドイツ人の両方の側から撃たれることとなった。特に彼女自身がユダヤ人であることから、飼い犬に手を噛まれるような心情となったユダヤ人社会からの非難は特に厳しかったという。その指摘は、ユダヤ人にとっても、ドイツ人にとっても素直に受け入れることは難しかった。待ちわびたショーの幕を降ろすにあたって、それは相応しい言葉ではなかったのだのだ。
アーレントは、最初からこの裁判のショー的要素に対しては嫌悪感を覚えている。検察側がショーのように自らの「正義」を振りかざすして振る舞うとき、彼女は次のように記す。「正義はこのようなことは全然許さない。正義は孤高を持することを要求する。正義は脚光を浴びるという快感を厳しく避けることを命ずる」
アーレントにとって、この裁判は「正義」の問題でもあった。だからこそ、最後にこう付け加えるのである。
「私のこの報告は、どの程度までエルサレムの法廷が正義の要求を満たすのに成功したのかということ以外には何も語っていないのである」
【アイヒマンの良心】
裁判の結論は彼女の下した結論と同じ(被告であるアイヒマンの絞首刑)であったが、その過程においてはその要求を完全に満たすものではなかった。また、アイヒマンは何度か精神鑑定も受けたが、彼はいたって正常な人間であり、狂信的な反ユダヤ主義者でもなかった。それでは、アイヒマンについては「正義」ならびに「良心」はどのように働くものであったのか。
アイヒマンに良心はあったのかという問いに対して、アーレントは、列車の目的地をユダヤ人の命を救うように書き換えた例をもって、アイヒマンにもはじめは良心はあったとする。しかし彼の良心がその他の世界の社会通念に沿って機能したのはおよそ四週間ばかりであった。ヴァンゼ―会議において、ナチスの高官が最終的解決について判断をした後においては、アイヒマンはもはや良心に悩まされる必要はなく思う存分強制移動の専門家として活躍することとなった。アイヒマンは、自分よりも上位の立場の人が判断した場合、それについてほぼ何の疑義を呈することなく、彼の「良心」と呼ぶべきものは彼の心に留まるすべを持たなかったのだ。
「どこの<上流社会>も彼と同じ反応を熱烈に真剣に示しているのを見ては、事実彼の良心はもはや悩む必要がなかった。判決で言われているように「良心の声に耳を塞ぐ」必要は彼にはなかった。彼に良心がなかったからではなく、彼の良心は<尊敬すべき声>で、彼の周囲の尊敬すべき上流社会の声で語っていたからである」
次の言葉がアーレントの典型的なアイヒマン評であり、まさに裁判の鍵ともなる彼の性質であった。
「彼の語るのを聞いていればいるほど、この話す能力の不足が思考する能力 ― つまり誰か他の立場に立って考える能力 ― の不足と密接に結びついていることがますます明白になってくる。アイヒマンとはコミュニケーションが不可能だった。それは彼が嘘をつくからではない。言葉と他人の存在に対する、したがて現実そのものに対する最も確実な防壁、すなわち想像力の完全な欠如という防壁、で取り囲まれていたからである」
もはや、アイヒマンは多くのものの期待に背く存在となった。多くのものがそれを否定したがったのだが、アーレントが言うように、「検事のあらゆる努力にかかわらず、この男が<怪物>でないことは誰の目にも明らかだった」。アイヒマンには強い悪意も強烈な意志も持ち合わせておらず、また期待された<怪物=特別さ>を持ち合わせていなかった。
「悪の陳腐さ」と表現するとき、この前代未聞の「罪」において、アイヒマンならずとも多くの人がその立場に立つ場合に同じように行動したのではないかという思いこそが、受け止めなくてはならない教訓なのである。
「アイヒマンという人物の厄介なところはまさに、実に多くの人々が彼に似ていたし、しかもその多くの者が倒錯してもいずサディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだったし、今でもノーマルであるということなのだ。われわれの法制度とわれわれの道徳的判断基準から見れば、この正常性はすべての残虐行為を一緒にしたよりもわれわれをはるかに慄然とさせる。(略) 事実上人類の敵であるこの新しい型の犯罪者は、自分が悪いことをしていると知る、もしくは感じることをほとんど不可能とするような状況のもとで、その罪を犯していることを意味しているからだ」
アイヒマンならずとも「良心」はおそらくは容易に抑制される。とすると「良心」とは何であるのか。その問いとアイヒマンの存在は、ヒューマニズムを危うくする。それを認めることから始めなくてはならない。
【ドイツ人の良心とその批判】
アイヒマンのドイツ人に対する批判は苛烈で厳しい。アイヒマンならずとも「良心」が奪われて、その時代と多くの人間が、何もしないということも含めて、知りながらあえて何もせず害をなしていたのである。
「数々の証拠からして、良心と言えるような良心は、一見したところドイツから消滅したと結論するほかはない。しかもそのため、国民が良心というものの存在をほとんど忘れ、外の世界が驚くべき<ドイツの新しい価値体系>に賛同しないでいることがわからなくなってしまったほどなのだ」
そしてドイツの中において、「最終的解決に実際に反対する人にはひとりも ー まったくひとりも ー 会わなかった」ためにアイヒマンは良心に苦しむことなく、またそれについて考えることもなく任務の実行に勤しむことができたのである。
次のように語るアーレントは容赦がない。ドイツ人ならば、そこまで言われるのであれば、何をか言わざるを得ないと思う人も出てくるだろう。
「自己欺瞞の習慣はきわめて一般的なものになり、ほとんど生き延びるための前提条件にすらなってしまっていた。そのため、ナチ崩壊後十八年を経、そうした嘘の一々の内容が忘れさられた今もなお、嘘をつくことがドイツ人の国民性の一部であると信じないわけにはいかないことが間々あるほどなのである」
一方でアーレントは、ドイツ人の謝罪、特に当事者でなかった若者の謝罪の所作についても強烈に皮肉な言葉を投げかける。日本においても「自虐」という文脈で出てくる謝罪と同じ反応であるのかもしれない。
「われわれにヒステリックな罪悪感の爆発を見せてくれるドイツのあの若い男女たちは、過去の重荷、父親たちの罪のもとによろめいているのではない。むしろ彼らは現在の実際の問題の圧力から安っぽい感傷性(センチメンタル)へ逃れようとしているのである」
彼らにとって、アイヒマンの死は、ある種の祝福ですらあるのだ。意識をした上でかどうかは別として、彼らの罪をいくぶんか軽くしてくれることに役立つのかもしれない。そうであってはならないのだが。
多くのドイツ人が良心の呵責に耐えているのかもしれないが、それは贖罪にはならないし、そうすべきでもないのである。「彼らが勝ったとすれば、彼らのうちひとりでも良心の疚しさに悩んだだろうか?」とアーレントが問うとき、静かな強い怒りを感じることができる。
【ユダヤ人社会自身の共犯性】
ドイツ人と並んで批判の対象となったのはユダヤ人評議会である。裁判がイスラエルで行われたことから、ドイツ人に関して不利な証言が多く並べられたかもしれないことには不思議はない。一方で、アイヒマンの行動を証明するために必要であったとはいえ、ユダヤ人評議会の行動を公に持ち出すことになり、アーレントに厳しく批判されるようになったのは、特に彼らにとっては誤算であったとも言えるし、いまだ有力者の中で生存者が多くいる状況において、あってはならないことであったのかもしれない。
ユダヤ人評議会はアイヒマンの要請に応じて、その結果起きることを明らかに知りつつ、列車の移送容量に沿ったユダヤ人のリストを作成して渡したのである。また、帝国内の各所において、ユダヤ人は従順にその命令に従ったのである。さらに言うと、ユダヤ人は従順以上、つまり、協力的であったというのだ。「死にいたるまでの全道程でポーランド・ユダヤ人が見かけたのは、ほんのわずかのドイツ人でしかなかったのだ」
「自分の民族の滅亡に手を貸したユダヤ人指導者たちのこの役割は、ユダヤ人にとっては疑いもなくこの暗澹たる物語全体の中でも最も暗澹とした一章である」という指摘は、当事者にとってはそこにいなかったお前が言うなと言いたくなるものであるにせよ、ある種の真実を示しているからこそ激烈な拒絶反応を引き起こした。
「ユダヤ人役員は名簿と財産目録を作成し、移送と絶滅の費用を移送させる者から徴収し、空屋となった住居を見張り、ユダヤ人を捉えて列車に乗せるのを手伝う警察力を提供するという仕事を任されており、そうして一番最後に、最終的な没収のためにユダヤ人共同体の財産をきちんと引き渡したのだ」。なぜか。彼らは、そのリストから彼らの選定した者を外すことにより、「「百人を犠牲にして千人を救い、千人を犠牲にして一万人を救った」救い主たちのように彼らは感じた」からだ。
また、すでにそのころには明らかになっていた強制収容所でのユダヤ人協力者 ― カポや特別班 ― 存在についても指摘する。「絶滅収容所で犠牲者の殺害に直接手を下したのは普通ユダヤ人特別班であったという周知の事実は、検察証人によっていさぎよくはっきりと確認された」
「ユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ<特例>を是認する者が自分の行っている無意識の共犯に気づかなかったとしても、実際に殺害に関係している連中の目には、すべての非特例に死を宣告するこの原則を相手が暗黙に承認していることはまことに明白だったはずである」ー アイヒマンの目にとっても。アイヒマンの良心にとっても。
【アイヒマンの引き受けるべき罪】
法律に照らして、アイヒマンは有罪とできるのか、アーレントは次のように述べる。
「彼のすることはすべて、彼自身の判断するかぎりでは、法を守る市民として行っていることだった。彼自身警察でも法廷でもくり返し言っているように、彼は自分の義務を行った。命令に従っただけではなく、法律にも従ったのだ」
さらに、アイヒマンが直接に殺人の罪に問えるのかについても問題となる。
「労働のための選別は現地のSS軍医によって行われるし、非移送者の名簿はそれぞれの国のユダヤ人評議会もしくは通常警察によって作られ、決してアイヒマンもしくは彼の部下の手によらない以上、誰が死に誰が死なないかを決定する権限はアイヒマンになかったというのが真相だった」
アイヒマン自身も「起訴状の述べている意味においては無罪」と陳述している。それでは、彼はどういう意味においては有罪であると考えていたのか。問われなかったこの問いの答えについて、弁護士は神の前で有罪と考えているのではとコメントした。それは本人に対して決して確認されたことではないが、正しいものでもなかったのではないか。アイヒマンは、当時の法においては違法な点はまったくないのであり、問われているのは国家としての行為であり、個人として罪に問われるものではないと言いたいのではないか。むしろ、心の中で反対をしながら良心に反してさせられていたのだと主張することを潔しとしなかった。「彼は、実はしろと命じられたことを甚だ熱心に果たしていたのに、今では「自分はいつも反対だった」と主張している人々の仲間に入りたくないのである」
しかしながら、アイヒマンが上位者に従うのみであり、そこに彼の意志や悪意がなかったのだとして、彼がそれにも関わらず死刑になるべきだと考える理由をアーレントは次のようにたたきつけるように吐き出す。それは、本書のひとつのハイライトでもある。
「ユダヤ民族および他のいくつかの国の民族たちとともにこの地球上に生きることを望まない ―― あたかも君と君の上司が、この世界に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利を持っているかのように ―― 政策を君が支持し実行したからこそ、何ぴとからも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないとわれわれは思う。これが君が絞首されねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である」
アーレントは、アイヒマンに法的な罪があるから死刑になるべきだと言っていない。起きた出来事に対してアイヒマンに責任があるとも言っていない。それが前代未聞の罪であり、「人類に対する罪」であることをこのように表現したのだ。
われわれはさらに続けなければならない。果たしてそのように断定することはいかにして可能なのか、と。
【人道に対する罪】
アーレントが、アイヒマンの負うべき罪と措定した<人類に対する罪>は、彼女の主張を正しく理解する必要がある概念だ。先に見たように、アイヒマンの行動を<人類に対する罪>であると措定したかったし、またそれのみが彼を極刑にする理由であるとするものなのだ。
「前者(追放)は隣国の国民に対する犯罪であるのに対して、後者(ジェノサイド)は人類の要請、すなわちそれなしには<人類>もしくは<人間性>という言葉そのものが意味を失うような<人間の地位>の特徴に対する攻撃なのだ」
「一度行われ、そして人類の歴史に記された行為はすべて、その事実が過去のことになってしまってからも長く可能性として人類のもとにとどまる。これが人間の行うことの性格なのである。かつていかなる罰も人間が罪を犯すのを妨げるに足る阻止力をもたなかった。反対に、どのような罰が行われたにせよ、これまでになかったある罪が一度行われてしまえば、それがふたたび行われる可能性は最初に行われる場合よりも大きいのだ」
これは恐るべき予言になったのだろうか。ジェノサイドは、その後の世界において行われただろうか。ナチスによるユダヤ人の最終解決にその規模や意図の観点で比肩できるものではなかったのだとしても、われわれは、旧ソ連の強制収容所、カンボジアのポル・ポト政権による大虐殺、ボスニア=ヘルツェゴビアにおける民族紛争、ルワンダにおけるフツ族によるツチ族の虐殺、などが起きたことを知っている。学ぶべき教訓を、われわれは十分に学んでいるのだろうか。今の時代においても、この本が読まれるべき理由があるとすれば、この教訓を学ぶことではないだろうか。
新版の解説者である山田正行の次の言葉が、頭に浮かんだことをうまく表現している。
「複数性を否定する行為は死刑が相当だとなぜいえるのか反問せよという「思考」をうながすアーレントの声が聞こえてくるのではあるまいか。思考するための条件が知らず知らずのうちに失われていく気配の漂うこんにち、アーレントをふまえて時にアーレントに反してもアーレントの先を思考するという読み方がもっとあってよいように思われる」
この山田氏の解説は、本人が「旧版「解説」はあらためて読み返してみてもおよそ修正の余地のない実に要を得たものだが、ささやかな補足をほどこすことで読者の便宜に資するとすれば幸いである」と謙遜するが、この新版の解説こそ実に要を得たものであって、この新版を手に取る価値のあるものにしているとも言えるものである。
すでにして価値ある書として名声を得たものであり、あえて言う必要のないことではあるけれども、あれから七十有余年が過ぎ、関与者も生存者もすでに世を去った人がほとんどとなった今でこそ読まれるべき本のひとつ。 -
ブラジルでイェルサレム当局により強制逮捕されたアイヒマンの裁判をアレントが雑誌(ニューヨーカー)で連載した記事です。
アレントはアイヒマンを見て「根源的な悪という概念が打ち砕かれ、なおも残ったものは「凡庸な悪 banality of evil」」であると述べています。根源的な悪というのはアレントが「全体主義の起源」で想定していた絶対的な悪のことですね。
そして「凡庸な悪」というのは今後アレントの中で念頭に置かれることになります。
「凡庸な悪」というのは、端的に言うと、「知識や教養も備えているのだが、当の人間が判断能力を停止しているため何も考えずに行動に従事する」となります。アイヒマン自身は、カントの格律をもすらすら言えて行動出来ていたものの、繰り返し官僚言語で応答を繰り返すというえらく「凡庸な」態度を露呈しました。
アレントはその一連の過程を見て、このような分析結果を残しました。
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アイヒマン裁判を生で見たい方は映画「スペシャリスト」を御覧になるといいでしょう。この作品はアイヒマン裁判のみならず、その構成はアレントのこの書籍を元にされています。 -
やっと読んだ。映画「ハンナ・アーレント」を見て、読まねばと思ったが図書館に蔵書がない。リクエストを出し、購入されたは良いが途端に予約待ち。ご近所の皆さん、私に感謝するように。
アイヒマンについて知るほどに「面白い」、これも本当に「面白かった」。あの映画は一過性のレベルだが、この本は時代を超えて残る。「悪の陳腐さ」というフレーズが強烈過ぎて独り歩きしているが、通して読むと、悪についての哲学ではなく、アイヒマン裁判とナチス時代のユダヤ人に何が起きたかを客観的に捉えようとする記録だ。
バッシングを受けたのは、「アイヒマンは極悪人ではなく凡庸だ」と指摘したからではなく、ユダヤ人のリーダーはナチに協力した、多くのユダヤ人はナチスの命令に唯々諾々と従い収容所で同胞を殺す作業をしていた、ヴァルキューレ計画関係者もユダヤ人問題に関心があったわけではない、といった記述だったようだ。これは真実であるからこそ反感を買ったのだろうが、追及するのを恐れない筆者の知性と信念がこもる。
アイヒマンをイスラエルが拉致してきて裁くことに正義はあるのか、勝者が裁く戦争犯罪はフェアなのか、原爆やカティンの森という裁かれない罪にまで言及する。
アーレントはユダヤ人であり、傍観者ではない。信念も自分の意思もなく命令に従ったアイヒマンは、正義のもとに断罪されるべきであるとする。かくも凡庸な人間が民族殲滅というおぞましい悪に手を染めたことは、普遍的な「悪」についての問いかけとなる。今後無意識のうちに繰り返されないとも限らない巨悪への警鐘、と力を込めて訴える。他方、白バラ運動のショル兄弟のような、市井の名もなき反抗者たちへの敬意を示しているのも興味深い。映画のラストシーンがあのように感動的なスピーチだったのが分かる。
しかし訳の古臭さ読みにくさが致命的なので点数は-1ポイント。なぜこれで放置するかね。みすず書房の怠慢だ。 -
アイヒマンのエルサレムでの裁判でのアイヒマンの説明及びアイヒマンのユダヤ人の移送の役割について説明されている。悪の陳腐さということは最後に出てくるし、裁判の判決理由はあとがきのみで説明されている。
日本では、アイヒマンがユダヤ人差別をしてアウシュビッツにユダヤ人を送って大量殺りくをした、という単純な形で語られている。しかし、東ヨーロッパの国々が様々にユダヤ人の財産を奪い強制収用をおこなったり、財産と引き換えに自国からユダヤ人を排除した、ということは、この本以外にはあまり説明されてこなかった。
雑誌に掲載されたということで、ハンナ・アーレントの文章の中ではもっとも読みやすいものと考えられる。 -
金大生のための読書案内で展示していた図書です。
▼先生の推薦文はこちら
https://library.kanazawa-u.ac.jp/?page_id=31081
▼金沢大学附属図書館の所蔵情報
http://www1.lib.kanazawa-u.ac.jp/recordID/catalog.bib/BN01117676 -
この種の犯罪は犯罪的な法律のもとに犯罪的な国家によって行われたのであり、そしてこれ以外行われ得なかったという問題。(本質的な悪とはあり得るのか?)
領土とは一定の土地というよりも、一つの集団に属する個々人の間の空間。そしてそれらの個人相互は、共通の言語、宗教、歴史、慣習、法律に基づく各種の関係によって結ばれていると同時に隔たれて、守られている。一つの集団に属する各個人がその中で互いに関係を結び交渉を持つ空間をそれらの関係自体が作り出す時には、それらの関係は空間的にも明確な形をとる。ユダヤ民族がその幾世紀にもわたる離散の歳月を通して、つまり彼らの古い国土を我がものとする以前から、彼ら自身の固有の羌族空間(in-between space)を生み出し、維持してこなかったとすれば、イスラエルなどは決して存在しなかっただろう。
どこの法律で裁くか?国際法?イスラエル法?イスラエルはイスラエル建国以前にはアインヒマンを裁く法や権威を持っていなかったのに。。犯罪が起こった後に出来上がった法律。そしてアインヒマンが事実上無国籍であったからこそ「解決」がなされた。
追放とジェノサイドは二つとも国際的罪ではあるが、区別されなければならない。前者が隣国の国民に対する罪であるのに対して、後者は人類の多様性、すなわちそれなしには<人類>もしくは<人間性>という言葉そのものが意味を失うような<人間の特徴の地位>に関する攻撃。
人種差別ー追放ージェノサイド、の間に明確な区別が必要。
イスラエルにとってこの裁判の持つ特徴は、ここにおいて初めてユダヤ人は自分の民族に対して行われる罪を裁くことができるようになったということ、ここにはじめてユダヤ人は保護や裁きを他者に求めたり、人権などというあてにならない美辞麗句に頼ったりしなくて済むようになった。
例えばイギリス人は自分がイギリス人だとしてその権利を守り、その法律を押し通すが、それだけの力のない民族のみがこの人権なるものを盾にとるのだ、ということをユダヤ人以上によく知っているものはいなかった。
ジェノサイドの特質は全く別の秩序を破壊し、全く別の共同社会を侵害することにある。
hostis generis humani : 新しい形の犯罪。事実上、悪いことをしていると知る、もしくは感じることをほとんど不可能とするような状況のもとで、その罪を犯していることを意味している。
アインヒマン裁判の最大の問題点:悪を行う意図が犯罪の遂行には必要であるという近代の法体系に共通する仮説。(悪意というものは実在するのか?)
ほとんどすべての人間が有罪である時に有罪なものは一人もいない。
どんな内外の事情に促されて君が犯罪者になってしまったとしても、君がしたことの現実性と他の人々がしたかもしれぬことの潜在性とのあいだには決定的な相違がある。内的動機や周囲ではなく、君がしたことに興味がある。
学生時代に丸山真男・愛の後輩がいて(笑)、自分の場合はその影響です。(笑)
自分もひさしぶり...
学生時代に丸山真男・愛の後輩がいて(笑)、自分の場合はその影響です。(笑)
自分もひさしぶりに丸山真男の著作を何か読んでみようかな。(笑)
ホント、何か「空気」が変わった感じはありますね。ネットの普及が「空気」の変化の加速化を促しているような気もします。不特定多数の匿名の、無責任な発言の横行が悪い方向への導いている状況もあるのではないでしょうか。
自分は韓国ドラマは観ませんし別に好きでも嫌いでもなく、逆に中国指圧マッサージは大好きですが(笑)特に中国も好きでも嫌いでもないのですが、本屋で平気で「嫌韓・嫌中」コーナーを見かけますと自分も暗い気分になります。どの本屋にもあるということは需要が大きいということですよね。
いまは当3国の政治的な思惑が強く出て感情論が先んじることになってしまっていますが、本来、政治や国家戦略等の国益と憎悪の感情とは別もののはずであり、ここに「嫌」という文字を使っていること自体に何か作為的なものを感じます。
憎しみの応酬から何か建設的なものが産まれてくるとは思えません。「嫌」のような煽動的なものは排除して、まずは感情論を鎮めることが必要かと思います。政治や国家戦略も冷静なもののはずですしね。
「嫌」を前面に出すなど愚かなことだと、みなさん早く気が付いてほしいですね。
コメントいただきありがとうございます!(^o^)/
丁寧にご教示いただき誠にありがとうございます。m(_ _...
コメントいただきありがとうございます!(^o^)/
丁寧にご教示いただき誠にありがとうございます。m(_ _)m
意外かもしれませんが、実は私もアーレントが「真理を追求する哲学者」であるとは思っておらず、仰る通り「政治思想家」あるいは「政治哲学者」であると思っていましたが、これを書いた時のことをつらつらと思い返してみますと、やはり一般的な意味でその立場上「真実は探求」していると考え、軽はずみにもこのような言葉を選んでしまっていました。
ご指摘いただいた上、懇切に説明いただき感謝いたします。
今後ともよろしくお願いいたします。(^o^)/