- Amazon.co.jp ・本 (328ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622039662
作品紹介・あらすじ
現代思想の生成過程に数学を介して立ち入り、数学基礎論論争がいかに闘わされ、数学が現象学といかに交流し、コンピューター社会がいかにして誕生したか探る。
感想・レビュー・書評
-
詳細をみるコメント0件をすべて表示
-
20世紀初頭、数学が細分化しその分野を極めることさえ困難になっていた。
すべての分野を包括的に理解していた最後の数学者はD.Hilbertと言われている。
人間の歴史は文字の歴史である。翻って、その活動を文字に起こしそれらを伝えていくことが重要である。
が、しかし数学史なるものは誰が書けるというのだろうか?細分化し、抽象化の極限まで達している数学のオーバービューを書ける人間がいるだろうか?
本書の著者は、このような困難さを受け止めながらも、数学史を執筆することを決意した。
内容は19世紀初頭からの数学者とその活動を記している。哲学が数学に与えた影響(逆もしかり)を濃く描いているので、読み通すためには両方のリテラシーが必要である。
この一冊を読破できる力量があるのなら、数学分野の知識人を名乗っていいのではないだろうか。
初学者には、数学を切り開いた人々シリーズくらいを読んで挑戦すると良いと思う。
値段が高いので、タイトルが刺激的だからといって気安く買える書籍ではないが、そのタイトルに偽りなし。 -
数学も物理も成績は悪くなかったのですが、こんなものやったって一生なんの役にも立つものか、という思いが強くて、性格悪くてどうも好きになれないイケメン、みたいな感じで毛嫌いしていました。
ただ、かつても今も、関連する本を読み続けているのは、村上陽一郎と、この本の著者・佐々木力のおかげだと感謝しています。
村上陽一郎は『近代科学を越えて』と『ハイゼンベルク』によって、佐々木力は『近代学問理念の誕生』と『生きているトロツキイ』によって、役に立たないどころか、あるいはまったく無駄ではなく、論理的思考を我がものとするために必要だし、誤解を恐れずに言えばナショナリズムやイデオロギーを懐柔できるのはこの地上でロジックだけだなんてえことを、あれこれ教わりましたっけ。
特に村上陽一郎には、教養全般とりわけ科学思想の熟知がなければ、人間は現在時点の確認すらできない、ただの時間浮浪者、つまりただ偶然生まれてきて死ぬだけの享楽的な存在と化すと脅かされ、佐々木力からは、いま在るものを現象的にだけ捉えるのではなく人類の時間と空間の座標軸の中で多面的・構造的に見ることによってだけ本質が切り取れると喝破されて、あだやおろそかにはできないものなんだと思い知りました。
本書は、20世紀初めの数学基礎論論争と、ドイツの数学者=ヘルマン・クラウス・フーゴー・ワイルの伝記と、ハンガリーの数学者=ジョン・フォン・ノイマンの伝記という3つに構成されていますが、ええっと、しまったこんな風だとは思っていなくて、もっと概観する包括的なものだとばかり考えていたのですが、いきなり純粋数学的世界に突入するのでした。
出て来るわ出て来るわ、ヒルベルトにプラウワーにカルナップに・・・・・、いや、もう、チンプンカンプン、まだしもフッサールやウィットゲンシュタインやクワインの名前が出て来たときには、それほどよくも知らないくせに、ほっとするような安堵感を抱いたものです。
中でも強烈に印象的なのは、ジョン・フオン・ノイマンです。彼はたしか、例のスタンリー・キューブリックの映画『博士の異常な愛情』の登場人物のマッド・サイエンティストのモデルの一人とも言われていたはずですが、原水爆の開発に積極的にかかわり、のちに米国の軍産学複合体の成立に力を注いだ人物ですが、これに対して我が佐々木力は、数学者の社会的責任を厳しく問うているのです。
人類の殺戮・滅亡と地球の破壊という、とんでもない事態を現出させるものを作った、ノイマンをはじめとする真のマッド・サイエンティストたちは、今こそ糾弾されて当然で、即刻ロボトミー手術でもして人類に奉仕サ・セ・ナ・ケ・レ・バ・ナ・ラ・ナ・イ