夜と霧 新版

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制作 : 池田 香代子 
  • みすず書房 (2002年11月6日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (184ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622039709

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有効な左矢印 無効な左矢印
村上 春樹
遠藤 周作
坂口 安吾
有効な右矢印 無効な右矢印

夜と霧 新版の感想・レビュー・書評

  • もう8年ほど前の話になるが、アウシュビッツ強制収容所に行ったことがある。
    アンネの日記をはじめとする本や映画やさまざまなメディアなどでホロコーストやナチスに触れる機会はあっても、その現場に立っても、現実に起こったことを受け入れ想像することは難しかった。

    アウシュビッツは、ポーランドのクラクフというかわいらしい街からバスで1時間半ほどのだだっ広い草原の中にある。
    アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所としてユネスコの世界遺産にも登録されていて、展示物などもあり一般に公開されている。

    鉄条網で囲まれた敷地内に引き込まれた鉄道線路。
    板敷のベッド、番号のついたぼろぼろの服。
    シャワーのついているガス室。
    大量の遺体を焼いたという大きな窪み。

    震えて泣いている年輩の方や、
    涙をこらえながら真剣にメモを取るドイツ人らしい学生さん、
    イスラエル国旗を掲げて歩くユダヤ人と思われる方たち。

    その日は、とってもいいお天気で清々しく、緑の自然に囲まれた景色は美しかった。
    が、目の前に広がるものはなんだったんだろう。


    本の感想ではなくなってしまったけど、残酷さを強調したり悲劇的感情的にならない淡々とした文章が、私の中のリアルな記憶を刺激した感じです。
    心が折れそうとか簡単に言うもんじゃないよね。
    アウシュビッツに行った感想、未だにうまく言葉にできない。

  • 原題を直訳すると『ある心理学者、強制収容所を体験する』。
    本書について、著者であるフランクル氏は、自身が強制収容所で体験した「おびただしい小さな苦しみ」を綴った記録だと冒頭で述べています。
    しかし、その「小さな苦しみ」のなんと残酷なことか。
    第二次世界大戦やユダヤ人迫害の歴史があったことを知っていても、本書に描かれたようなことがここ100年以内に現実にあったことであると受け入れるのには時間がかかりました。

    どんな環境にあっても「最期の瞬間までだれも奪うことのできない精神的自由」を保ち続けることで、生きる意味を見失わずにいることができる。
    たとえ人間の尊厳を踏みにじられ、家畜同然の扱いをされても。
    「苦しむことはなにかをなしとげること」であるという言葉に胸がふるえました。

    人間が忘れてはいけないこと、生きていく上で忘れたくないことを文字に残してくださった作品だと感じました。
    一息に読んでしまったあと、もう一度パラパラと気になったところを拾い読みしていますが、消化しきれていない部分もあり。
    本棚に置いて、折にふれ読み返したいと思います。

  •  
     この本の存在を、わたしはずいぶん幼いころから知っていた。けれど、読めずにいた。というのも、一本の映像作品がトラウマのような記憶となって、わたしを同書からながらく遠ざけていたからだった。その映像というのは、『映像の世紀』というドキュメンタリー作品で、わたしがみた一本は、アウシュビッツ収容所がソ連軍によって解放された直後の様子を映していた。小さな部屋に隙間なく重なりあう、人のかたちをしたようなモノの山。わたしは最初、それらがマネキンだと思った。いや、そう思いたかった。けれど、それらはたしかに人間だった。しかし他方では、その人間が生前いったいどんな様子で笑うのか、話すのか、まったくわからないほど痛めつけられた、やはりモノのようでもあった。それほどまでに、映し出される屍には「人間らしさ」が奪われていた。次のとき、その屍の山をブルドーザーで(!)かき集める(!)映像をみたとき、私の心はからっぽになった。
     わたしは、この映像作品でみた屍のかっと見開いた眼をもう一度思い出すのが怖かった。「人間に尊厳などない」と思い知るのが怖くて、ホロコーストを扱った著作をながらく遠ざけつづけていた。しかしある機会を得て、「人間の尊厳」を問い直すため、本書を手にとることとなった。
     筆者が度々挙げる「羊群衆」と「囚人番号」は、未来の目的を失った囚人たちに「自己」を奪っていった。「生きる屍」―尊厳を奪われたモノ―となるのである。しかし囚人が、強制収容所という単なる社会環境の産物とみなす構造主義的な見方に筆者は疑問を投げかける。人はこの極限の状態においてもなお、「ほかのようにもでき得る」という精神的自由、「すなわち環境への自我の自由な態度は、外的にも内的にも在り続け」、「苦難と死とが人間の実存をはじめて一つの全体にする」と筆者はいう。戦時下の人々を支えたこの実存主義的人生観は、かくも勇ましき「人間の尊厳」のひとつのかたちだと思った。
     この本を読むなかでわたしが涙を禁じ得なかったのは、「愛」について語られるときだった。無関心、無感動の「生きる屍」を「生きる人間」へと変える「愛」は、「結局人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものであるという真理」だと筆者は語る。筆者が仲間の囚人に伝言としての遺言を何度も語るとき、そこに無関心も無感動もない。彼は大切ななにかを思うとき、「人間」になるのである。
     また筆者は、その極限の状態のなかにあっても学問への「愛」を捨てなかった。彼のこの「愛」は、「人間の尊厳」の宿らぬ屍たちにそれを取り戻すひとつの力となる書物―『夜と霧』―を生んだ。
     しかしそれでも、それでも、わたしが『映像の世紀』でみたあの屍はやはり屍であって、元にはもうどうやっても戻らない。「人間の尊厳」を奪い去った権力がいつ我々を支配し、ふたたび屍の山を生むともしれない。筆者の心理学的な視点に隠された「生と死への勇ましさ」や「愛」を少なからずであっても知った今、わたしは恐れずにあの眼と向き合おうと思う。

  • 再読です。
    といっても、以前読んだのは旧版。大学生の頃でした。
    強制収容所における人間の在り方について精神科医であり、心理学者でもあるE.フランクルが書いた本書は、あまりにも有名ですが、私の人生における読めてよかった本ベスト10に間違いなく入る1冊です。

    貪るように、読みました。
    初めて読んだときは、強制収容所の凄まじい境遇にショックを受けて、背筋が凍る思いでした。
    今でも、あってはならないことだったと思っています。
    それでも今回は、そんな中においても人間として最後まで良心を保った人がいたということの、人間の尊さと強さにこそ、むしろ目がいきました。

    人間というのは環境に左右される生きものだけど、圧倒的不利な境遇を乗り越えて前に進んできた前人の存在から、環境が100%その人のあり方を決めるのではないことを私は知っています。
    本書でも、読み進めていくと「人間の魂は結局、環境によっていやおうなく規定される」と一見思えるかもしれないけれど、実際のところ語られているのは、「たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという人間としての最後の自由だけは奪えない」ということです。
    これは、ものすごいことです。
    なにせ、これだけ劣悪な環境においても魂の自由を守り抜いた人たちがいたのです。

    注目すべきは、私たちの心の内面です。
    一体、絶望の中で生きることを投げ出してしまった人たちと、最後まで生き抜いた人たちの心のあり方はどんな風に違ったのでしょうか。
    ここでは、人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的を持つこと、すなわち、未来を信じられることが必要と述べています。自分のためでも、誰かのためでも、何かのためでも、未来に目的がある人間は「なぜ」生きるのかがわかっている。だからこそ、どんな境遇でも心を強く持てるのだと。
    何もそれがあれば無敵というわけではないけれど、暗闇の中の一筋の光となって、前に進む力をくれるのでしょうね。

    再読にもかかわらず、すべてを消化できていません。
    苦しいときにこそ、再び読みたい。
    フランクル医師が理性と医師としての使命感でもってこの苦しみを乗り越えたように、私もここに綴られた貴重なエッセンスを余すことなく心に染み込ませ、公私ともに活かしていきたいと思いました。

  • 今まで読んでこなかったのを悔やむくらい感銘を受けた。
    難しそう、というイメージをぬぐって思い切って読んでよかった。

    アウシュビッツなどの収容所で行われていたこと、それを知るということそのものも必要かもしれないが、この本はもっと深いところ、人間や心について書かれている。

    人間とは何なのか、生きるとは、苦しむことの意味は…。
    さまざまなことを考えさせられる。

    ハッキリ言って簡単な本ではないと思う。
    前半部分は収容所内の出来事が描かれているので、具体的で読みやすいと思うが、後半になってくると、精神論、哲学、生きること、苦しむことといった、内面の話が多くなってくる。
    何度も何度も繰り返して読み取りたい内容だった。

    どのような環境にいるかよりも、その環境でどのような覚悟をするか、そういったことの重要性を教えてくれる。
    生きる、ということの中には様々なものが含まれている。
    苦しむばかりの人生を送っている人であっても、その苦しみを受け止めることそのものが生きること、こういう考えはとても大切だと思う。
    今の世の中、ストレスをいかに軽減するか、いかに平和な心でいるかが重要視されている。
    でも、苦しみしかなくて、生きる意味を考えずにはおけないような状況の人たちもいると思う。

    どのような状況にあっても人の生に意味はある。
    苦境を苦しみぬくだけの人生でも。

    極限の状況で、人間としての扱いを受けなかった経験が、筆者の意見に説得性を持たせているし、その中で目にした人間の姿、心の動きは、日常を悠々自適に暮らす我々では感じにくい、本質的な人の姿が垣間見える。

    状況的には私達とは遠いところにあるけれど、こういった本質的なことを思考することで、生きる上での基盤は築かれると思う。
    仕事や恋愛、家庭といった、ごく一般の生活の中でも、生きる意味を見失う人にも、この本に示されていることをよく理解することで、なにか生きるヒントは生まれると思う。
    人に求められるから、希望があるから生きるのではなく、目の前のものがどんなものでも、それを受け止めていくことそのものが生きること。

    ほんとうに貴重な体験から生まれた本。
    そして、生きる人すべてに通じる普遍性がある本だと思う。

  • たった今読み終えた。人間の非道に私は最初絶望しおののいた。恐ろしいだけの本だと思った。しかし、最後に、著者がその極悪非道な人間に勝る瞬間がやって来る。
    強制労働と偶然の翻弄に耐え抜いた、その精神が、人の命に尊厳を見出だす時が、まるで彼の見上げた夕日の美しさのように、突然やってくる。
    この史上ない体験をした、彼だからこそ知り得た境地が分かりやすく惜しみ無く語られる。

    私は日々不毛な思いを抱いて過ごしているかもしれない。愛もなく、熱意も夢もないかもしれない。それは何よりも空しいことかもしれない。
    人は平生でも、他人を無感動な目で見ることが出来るのかもしれない。

    一般的な幸せ、行動から得られる幸せが得られなくとも、私が私として悩み、かけがえのない苦悩と向き合うそれも、また、人として尊厳を持ち生きた証だと言う著者の言葉に、私は心慰められる。

    乾いた私の心に、このようなこのうえない潤いをもたらしてくれるその事実が、既にわたしをも救ってくれている。

    賢明な班長の元で暗がりのなか言葉を紡いだ彼の惜しみ無く与える勇気を私も持ちたい。

    私は苦しいときにこそなぜか、風景や自然はことさら美しく感じる。彼もそう感じたのだと思うと、私は切ない。

    本の末尾を締めくくる言葉が私は、大変好きである。何人の努力をも誇りに思わせてくれる言葉である。

    どうか、どうか、二度と人がもう、行方も知れず音もなく、歴史のなかに消えぬよう。

  • もうずいぶんと前に読んだのは旧版の霜山訳のもので、おそらくは20年以上前のことだ。新訳は読んでおらず、Amazonでも安くなっていたので、改めて読んでみることにした。そのふたつの読書体験の間には、実際にアウシュビッツ・ビルケナウ収容所にも行き、とても長い映画『SHOAH』も見て(同名の本も読み)、最近もプリーモ・レーヴィ『アウシュビッツは終わらない』も読んだこともあり、また前回とは違った認識を持つことができたように思う。そもそも自分も20年の間に考え方も知識も立場も変わっている。

    本書は、「これは事実の報告ではない。体験記だ」から始まる。ここに書かれているのは、ナチスがホロコーストをどのように実行したのかではなく、強制収容所における収容者としての日常の体験、つまり「おびただしい小さな苦しみ」を描写し、心理学者としての観点から分析したものである。その描写の中では、ナチスの影は薄く消されている。その代わりに収容者同志の争いや、収容者の中でも管理する側として選定されたカポーの優越感と横暴が目立つ。本書の中でも有名な文句「いい人は帰ってこなかった」は、次の文章の中にあらわれる。

    「収容所暮らしが何年も続き、あちこちたらい回しにされたあげく一ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者はおおむね、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく帰ってきたわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と」

    収容生活の中では、「内面がじわじわと死んで」いき、他人の死に対しても無感動になるという。そして、そうなるまでにはそれほど長くかからず、著者によると収容所生活数日で感情が消失していったという。

    「人間はなにごとにも慣れることができるというが、それはほんとうか、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。だが、どのように、とは問わないでほしい......。」

    その苦しみは圧倒的だ。ただ、その中でも家族への愛やユーモアはある種の支えになった、とも書かれる。

    収容所生活の描写が中心であるため、詳しくは書かれていないが、解放された後も収容所にいた人びとを苦しめ続けていたことが示唆される。解放された後も収容者を苦しめたであろうことこそが伝えられるべきことなのかもしれない。
    いくつか印象に残った言葉をここに書き写しておきたい。

    「およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ」

    「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない」

    「わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ」

    「収容所にいたすべての人びとは、わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にはないことを知っていたし、またそんなことをこもごもに言いあっ... 続きを読む

  • この本を読んだ人の中にもまともではない人はいるし、読んでいない人の中にもまともな人はいる。
    でも、読んでいたら取るべき行動に変化が生まれる余地がある可能性があるから、もちろん読むに越したことはない。

  • 旧版を読んだのはもう三十年以上も前、学生の頃だった。「読んでいなければならない本」の一つだったと思う(かつては確かにそういうものがあったのだ。「読んでいないとは言えない本」という方が正確かもしれない)。とても重いものを受け取ったような読後感が忘れられない。だが、間違いなく今の方が、この本のメッセージをより深いところで理解できたと思う。若い頃の自分と二人で読んでいるような気持ちだった。

    あとがきで、旧版には「ユダヤ」という語がただの一度も使われていないと知り、驚くとともに、なるほどと腑に落ちる思いだった。フランクルは徹頭徹尾、「人間」について書いていたのだ。「ナチス」を裁いて事足れりとするのではない、人間性への透徹したまなざしが全編を貫いている。

    「人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ」

    「人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない」

    「生きるということとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない」



    旧版訳者の霜山徳爾氏が寄せている一文が感動的だ。
    「新訳者の平和な時代に生きてきた優しい心は、流麗な文章になるであろう。いわゆる"anstandig"(これは色々なニュアンスがあって訳しにくいが「育ちのよい」とでもいうべきか)文字というものは良いものである」
    こういうことを言える旧世代の方というのはなかなかいないと思う。

  • 壮絶かつ残忍な歴史に触れる題材に対して、私的なエピソードを交えた感想を述べるのは、なんだか場違いな気がするが、著者フランクルは収容所での経験を基に普遍的な心理学的理解目指したということなので、それに乗じてしまおう。

    この本を読むきっかけになったのは、“精神的に追い詰められていたある個人的な事象について、自分の人生に於ける黒歴史に感じて忌々しい”と、前職で世話になった心理士にチラッと話したところ、この本を勧められたからだった。

    惨たらしい歴史とはまた違った状況なので、単純に例えること出来ないことは承知の上ということは前置きさせていただこう。
    この本に記されていることは、ブラック企業でのパワハラや、学校におけるいじめやスクールカーストなどを代表とした歪んだ組織内の関係性を理解し対応し、その抑圧に巻き込まれた人間が再び自分の力で歩んでいくことを目指す上で、現代社会においても十二分に通ずる心理学理論である。フランクルの功績の大きさに、ただただ感銘を受けるばかり。

  • 夜と霧

    アウシュビッツを経験した心理学者フランクルによる収容所体験の心理学的分析。序盤は体験の叙述であり、後半から「人生とは何か」「どう苦しみを乗り越えたか」ということについて印象的な考察や、文章が書き連ねられる。この本については考察したりレビューをしたりするより、印象的な文章を引用する方が良いと思うので以下、引用とする。

    人は強制収容所に人間をぶち込んですべてを奪うことが出来るが、たった一つ、与えられた環境でいかにふるまうかという、人間として最後の自由だけは奪えない。110

    およそ生きる事そのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在は完全なものになるのだ。113

    人間は(収容所にとどまらず)どこにいても運命と対峙させられ、ただもう苦しいという状況から何かを成し遂げるかどうか、という決断を迫られるのだ。114

    脆弱な人間とは内的なよりどころを持たない人間だ。119

    収容所生活の外面的困難を内面にとって試練とする代わりに、目下の自分のありよう真摯に受け止めず、これは非本来的な何かだと高をくくり、こういうことの前では過去の生活にしがみついて心を閉ざしていた方が得策だと考えるのだ。このような人間に成長は望めない。122

    「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、私の真価を発揮できる時が来る、と信じていた」 けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。122

    人は未来を見据えて初めて、いうならば永遠の相の下にのみ存在しうる。123

    存在が困難を極める現在にあって、人は何度ともなく未来を見据えることに逃げ込んだ。123

    突然、私は皓々と明かりがともり、暖房のきいた豪華な大ホールの演壇に立っていた。(中略)私は語るのだ。講演のテーマは、なんと、強制収容所の心理学。今わたしをこれほどくるしめうちひしいでいるすべては客観化され、学問という一段高いところから観察され、描写される・・・このトリックのお蔭で、私はこの状況に、現在とその苦しみにどこか超然としていられ、それをまるで過去のもののように見なすことができ、わたしを、私の苦しみともども、私自身が行う興味深い心理学研究の対象とすることが出来たのだ。124

    この文章は受験期に英語の問題として英文で読み、自分を支えた言葉だった。過酷極まる受験直前の冬は、自分が合格者として部活の後輩の勉強法を説いていたり、予備校の合格体験記にのっていることを夢想することで、自己の苦しみを乗り越えた。そして、それは現実のものになったということをこの文章を読み、思い出した。


    わたしたちは生きることから何かを期待するかではなく、むしろひたすら、生きる事が私たちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない。129

    生きるとは、つまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きる事が各人にかつ課題を果たす義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることに他ならない。130

    生きる事が私たちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、一人一人たった一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。130

    自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きる事から降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。134

  • 『夜と霧』を読みました。高校倫理で習った(ような気がする)フランクルの著書で、ユダヤ強制収容所での人間の様子が綴られています。「人間とは 、ガス室を発明した存在だ 。しかし同時に 、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ 。」という一節が有名。思い出せました?

    でもこの本のポイントはそこではなくて、祈りのことばを出せる人は、絶望的な状況でも希望を持ち続けられたということ。

    強制収容所のような極端な例でなくとも、何してるのかわからなくなるときはままあるわけで、それでも誰かが待っている、仕事を通して社会が待っている、と未来の目的を見つめることが、人間らしく良く生きることの原点なのだと思いました。

  • ユダヤ人強制収容の実態を垣間見ることの出来る実体験を語った書である。
    それとともに収容者が歩んだ状況の変化、収容所に関わる様々な立場にある人々(収容者に限らず)の心情を考察して心理学を通した哲学書とも言える。「生きる意味を問う」の項は、作者が他の収容者同様に収容所で生と死を常に感じ、考えた上でそれをある種の心理学的な目から客観的に捉えられたからこそ至った考えではないか。この項での言葉は特に心に響いた。 人の生き方を考える上で、後世にも受け継がれるべき書。

  • 15.10.24. フランクルが収容所体験を通じて積み上げた記録。同じ極限状態においても、それへの反応は人によって違う。ある人は死んだ仲間から靴を剥ぎ取り、またある人はなけなしのパンを分け与える。最期にどのような態度を取るかという精神的態度の自由は何者にも侵害されない。

  • 素晴らしかったの一言。

    ナチスの強制収容の話は個人的には怖くて今まであまり手にしていなかったのです。
    が、
    戦後70年の今年。
    あの戦争はなんだったのかと、改めて向き合うことが大切ではと思い、読み始めました。
    作者は心理学者で、強制収容所の有様、被収容者の心理的な葛藤をメタ視点で描いているので、恐がりの私も抵抗無く読む事ができました。
    そして、
    読み進むうちに、
    これは戦争告発の本でも歴史小説でもなく、
    哲学書なんだと思いました。

    生きる事、死ぬ事の意味。
    それは極限に追い込まれたいった人間だけが経験する者であると、同時に、人はいつだってそれぞれの人生で今、極限に生きているんだと、強く語りかけてきます。
    後半は目が離せませんでした。
    作者は私に畳み掛けてきます。
    私の過去に対しての自己評価はいかなるものか?
    私の今に対しての取り組みは甘くないだろうか?
    私の未来に対しての展望はそれでいいのだろうか?
    と。

    読んでいる私は一つ一つ、自己点検させられました。

    これは戦争犯罪告発の本であり、
    平和への希求の本であることは論を待たないのですが、
    生きる事への勇気を与えてくれる啓蒙書でもありました!!!

    本当に心が晴れやかになるステキな本でした♪

  • 生きる意味を問うのではなく、生きる意味にどう答える生き方をするのか。
    あるいは、人間は内面的な世界を失わない限り、どんな環境でも尊厳をもって生きていける…。
    極限状態にあっても人は人らしく生きていけるということに感動し、繰り返し読もうと思います。

  •  『夜と霧』は、原題「心理学者、強制収容所を体験する」の通りに、心理学者である著者フランクルが第二次世界大戦中に、ナチスにより強制収容所に入れられていた時の体験について書かれている。
     ナチス・ドイツの小規模強制収容所での過酷な経験について、フランクルは「心理学の立場から解明」しようとしている。
     重労働、貧しい食料、劣悪な環境、ナチス親衛隊員や収容所監視兵だけでなく被収容者間での酷い人間関係。そして、「ガス室送り」(処刑)の恐怖。いつまで続くかわからない収容所生活。このような状況の中で、人は何を心の支えに生きていけるのか、強い人間とはどうのような人間であるのか、という観点で読み進めた。
     一番の気づきは、精神の健康は身体の健康に先行するということ。つまり、身体がどれほど疲弊しきっていても、精神が満たされていれば人は活力に漲るものである。そのために必要なことは2つ。
    ①目的を持つこと。
    目的を持つことは過去ではなく未来に目を向けることである。前を向くことができる。だから、突然やってきたチャンスを無駄にすることもない。
    ②休むことの本質
    休むことは、ストレスを取り除くことである。アウシュビッツでは、芸術や自然、ユーモアに触れることで気を紛らわせたものが生き残り、小屋から動かなかったものは死んでいった。休むというと、身体を安静にするという印象を持つが、好きなことをして気持ちを入れ替えることの方が大切だと感じた。

  • 瞬時に二択を迫られる。そのどちらかには「ガス室」が待っている。生き延びることができたと思ったのもつかの間、またしても二択。とりあえずセーフ。ほっとするまもなく、また二択。究極の選択の連続が待ち受けるナチスの強制収容所内の生活を想像するにつけ、どれだけの人が自分を見失わずに先の見えない日々を過ごすことができるだろう。私にそれができる自信はない。この本の中で語られる、多くの被収容者と同じく心が鈍磨し、絶望と恐怖の生よりも安楽な死を選んでしまうかもしれない。

    強制収容所内での虫けらのように扱われる過酷な生活が描かれることはもちろんだが、筆者は心理学の臨床医だ。自身が入所することになった強制収容所の日々を、できる限り客観的に、自分を実験台にして、心の移りゆく過程を描くこの作品を読んだ後は言葉が出ない。

    どんなに過酷な人生であろうと、その生に意味があり、人は成長していくことができると著者は説く。

    「(収容所で死んでいった)人びとは、わたしはわたしの『苦悩に値する』人間だ、と言うことができただろう。彼らは、まっとうに苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ、ということを証していた。最後の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。(中略)およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在は初めて完全なものになるのだ」

    苦悩にまみれた人生の連続だった、かのニーチェがツァラトゥストラの中で語った、「これが人生だったのか、よし、それならもう一度!」という台詞。
    あまりにも自分の境遇と隔たりがありすぎて、どういう意味かわからなかった。しかし、本書を読んだ今、その意味が輪郭をもって迫ってくる。

    この本の記憶は私の一生の宝物になるだろう。

  • すごい。五年前に買って積読になっていた本ですが、もっと早く読んでおけばよかった。

    大学生時代、ギリシャ悲劇を夢中で読みました。そこに描かれている英雄たちの途方もない悲劇、しかしその悲劇に対し、泣き叫びながらも己の足で立ち、まっすぐに運命に向かっていく彼らの魂の強さに、「人間は、死してもただ一つだけ残るものがある。それは『尊厳』だ」と震撼しながら思ったものです。

    「夜と霧」に描かれていることは本当の出来事、しかも(歴史的に考えれば)ごく最近に起こったことです。そして、規模の大小はともあれ現在も世界のどこかで行われていることです。
    にもかかわらず、この作品には、あのとき私がギリシャ古典に触れて漠然と感じたことが書かれていました。もちろん、実体験からくる、これ以上無いほど重みのある言葉で、深く、かつ高い観点から分析されていましたが。

    またフランクルは、作中でトルストイの作品やドストエフスキーの言葉を持ち出しています。これらのことは、偉大な文学は創作でありながら、現実に過酷な状況に陥った人々の心に訴える力を持っている、それを表しているようにも思えました。

    「人間の内面は外的な運命より強靱なのだ」

    この言葉を、これだけの極限状態を実際に経験した方が書いてくださったこと(あるいは、それだからこそ書けた言葉であるという事実に)に励まされました。

    一読ですべて理解できたとは思えないので、これから何度も繰り返し読もうと思います。

  • こちらも、「神様のカルテ3」で登場した本。「夜と霧」です。
    一止の細君ハルが、屋久杉君に読ませたあの本です。

    精神科医である著者、ヴィクトール・E・フランクルが第二次世界大戦中に、ユダヤ人であるがため強制収容所に入れられ、その中で精神科医として、淡々と、冷静に、その時の状況を記録した物です。

     小説では無いので、盛り上がりや、泣き所が意図されている訳ではありません。
    逆に、人としての尊厳(名前までも)を全て奪われ、ただ平坦に、目立たぬように、静かに、生き残るために感情さえも無くした生活を記す静かな物語。

     静かすぎる文章になかには、これまで色々な所で語られてきた「収容所」の生活が、体験した著者だからこそ分かる生々しさを持って語られています。
     精神医学の見地から、生きることの意味を説き、多くの仲間が死んでいく中で、希望を失わずに、冷静に、ただ静かに、永遠とも思われる収容所生活を耐えた記録。

    読み始めは、まどろっこしい文章に嫌気がさしました。(訳者のせいかな?)
    グロテスクな描写は無いのに、本を閉じたくなるほど程の近くにある多くの死。
    しかし、静かな文章に中に、“生きる”ことばが紡がれ、読み返すほどに沁みて来ます。

    本書は、2002年に出版された新訳版。
    200ページに満たないので軽く読了した後に、ズシリと重さが残る一冊です。

  • この本を読み、まさに「言語を絶する感動」を味わうことが出来た。この本は収容所の体験だけではなく、「生きる意義」を知るための本である。
    自分の精神的な、内的な強さの重要性を思い知らされた。
    極限の状況のなかでも、自分を見失わず、死や苦悩そのものにも意味を見出すという筆者らの勇気に感動した。
    この本と出会った時、ちょうどつらい時期であったが、この時に本書を読んで本当に良かった。この本を読み続ければ、どんな辛いことが会っても、絶望に打ちひしがれることは、きっと無いだろう。
    座右の書として、一生読みたいと思う。

  • 再読。心理学者が強制収容所での極限体験から見出したものを綴ったこの作品に心乱されたなら、U2の"Walk On"という曲を聞いてほしい。元はアウンサン・スーチーに捧げられたこの曲はやがて911の悲しみを支え、そして今は震災の被害者に送られている。「歩くんだ、歩き続けるんだ/君が手に入れたものは奴らに否定なんかできないし、売ることも買うこともできやしない/歩くんだ、歩き続けるんだ/どうか、今夜は無事でいてほしい」深い霧に包まれた夜に襲われても、貴方が貴方でありますように、家に帰れますように。ウォーク・オン。

  • 高校時代に読んだ本です。
    この本を読んで、心理学科に進学しました。そういう意味では人生の転機を与えられた一冊かも。

  • 強制収容所に収監されていた心理学者の手記。なによりもはじめに「感情」がなくなる、ということ・・・虐待やこういった苦痛を受けた人によくある、苦痛を受けている自分を認められなくて傍観する側に立つように心が動く、という描写が印象的。
    「まるで自分の屍のあとから歩いている」ような気がした、という被収容者の言葉はその心理をまさしく示している。「生きる屍」。過酷な状況での労働、未来が見えない日々。理不尽な死。
    この非道のメカニズムについて、被収容者側だけでなく実際に看守であった側やナチス側の著書にもあたってもう一度考えたい。

  • 歴史的にも、文献としても、価値ある本だ。それは間違いないが、一方でぼく的には中途半端な読み物に感じた。
    心理学者が強制収容所に行く、ということで、被収容者の心理学的、科学的な分析を期待したが、それほど深い分析ではない。
    強制収容所の実態を克明に記しているかといえば、著者本人も言っている通り、それも他の書籍に勝るものではなく、あくまで主観的に、自分の周りで起きたことの描写に留めている。
    哲学的な観点からのアプローチも、それほど深いものではない。叙述としては、有名な「人間はガス室を発明した存在だ。だが…」のフレーズが頭に残るくらいか。

    とはいえやはり、読む価値はある。強制収容所の様子は、主観的な記述に抑えてあるからこそ、真に迫る迫力がある。心理学や哲学からのアプローチも、多大な期待を先に抱き過ぎさえしなければ、充分に人の心を揺さぶるものを持っている。
    教養として読んでおくべき本なのは間違いない。そういう意味で万人にお薦めする。

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夜と霧 新版の作品紹介

心理学者、強制収容所を体験する-飾りのないこの原題から、永遠のロングセラーは生まれた。"人間とは何か"を描いた静かな書を、新訳・新編集でおくる。

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