夜と霧 新版

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制作 : 池田 香代子 
  • みすず書房 (2002年11月6日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (184ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622039709

夜と霧 新版の感想・レビュー・書評

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  • もう8年ほど前の話になるが、アウシュビッツ強制収容所に行ったことがある。
    アンネの日記をはじめとする本や映画やさまざまなメディアなどでホロコーストやナチスに触れる機会はあっても、その現場に立っても、現実に起こったことを受け入れ想像することは難しかった。

    アウシュビッツは、ポーランドのクラクフというかわいらしい街からバスで1時間半ほどのだだっ広い草原の中にある。
    アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所としてユネスコの世界遺産にも登録されていて、展示物などもあり一般に公開されている。

    鉄条網で囲まれた敷地内に引き込まれた鉄道線路。
    板敷のベッド、番号のついたぼろぼろの服。
    シャワーのついているガス室。
    大量の遺体を焼いたという大きな窪み。

    震えて泣いている年輩の方や、
    涙をこらえながら真剣にメモを取るドイツ人らしい学生さん、
    イスラエル国旗を掲げて歩くユダヤ人と思われる方たち。

    その日は、とってもいいお天気で清々しく、緑の自然に囲まれた景色は美しかった。
    が、目の前に広がるものはなんだったんだろう。


    本の感想ではなくなってしまったけど、残酷さを強調したり悲劇的感情的にならない淡々とした文章が、私の中のリアルな記憶を刺激した感じです。
    心が折れそうとか簡単に言うもんじゃないよね。
    アウシュビッツに行った感想、未だにうまく言葉にできない。

  • 原題を直訳すると『ある心理学者、強制収容所を体験する』。
    本書について、著者であるフランクル氏は、自身が強制収容所で体験した「おびただしい小さな苦しみ」を綴った記録だと冒頭で述べています。
    しかし、その「小さな苦しみ」のなんと残酷なことか。
    第二次世界大戦やユダヤ人迫害の歴史があったことを知っていても、本書に描かれたようなことがここ100年以内に現実にあったことであると受け入れるのには時間がかかりました。

    どんな環境にあっても「最期の瞬間までだれも奪うことのできない精神的自由」を保ち続けることで、生きる意味を見失わずにいることができる。
    たとえ人間の尊厳を踏みにじられ、家畜同然の扱いをされても。
    「苦しむことはなにかをなしとげること」であるという言葉に胸がふるえました。

    人間が忘れてはいけないこと、生きていく上で忘れたくないことを文字に残してくださった作品だと感じました。
    一息に読んでしまったあと、もう一度パラパラと気になったところを拾い読みしていますが、消化しきれていない部分もあり。
    本棚に置いて、折にふれ読み返したいと思います。

  • 1946年に出版された、ナチスによる強制収容所での壮絶な経験をつづった本作。
    1940年代に到来したナチス・ドイツによるホロコーストの実態が、フランクルの見聞きしたこと体験したことを通して淡々と、生々しく記録として描かれています。この起伏ない文章がむしろ恐怖を越えたさきにある絶望を表しているようでヒヤリとします。

    この本の存在を前々から知りながらもなかなか手に取れませんでした。その後何度か手にはしたものの冒頭数ページで挫折したり。それくらい読み切るには覚悟が必要な一冊でした。

    フランクルが語ったのはおびただしい大衆の「小さな」犠牲や「小さな」死。ホロコーストでの犠牲は今なお正確には分かっておらず、とてつもなく大きな被害の数字に、実感すら薄れてきます。しかし現実にあった“事実”であること。そして、その1つ1つに人生があり、その1つ1つが残酷な運命を辿ったこと。それらを刻むようにフランクルはこの本をかたちにしたように思います。

    読んでいる先から正直気が滅入ります。人はここまで残忍になれるのかと目を覆いたくなるような所業の数々。負の歴史の詳細を知るのにもとても有効な資料ですが、それと同等に人間がしたこと・人間がされたことを想像し「人間とはどうゆう存在か」「生きるとはどうゆうことか」という問いを読み手に強く訴えてきます。

    ここに書かれた全てを汲むことは出来ません。そして一冊を読み通したところで完結できる話でもありません。うまく言葉に表せない気持ちは、今後この本を開くたびに少しずつ整理できたらと思います。

  • 今まで読んでこなかったのを悔やむくらい感銘を受けた。
    難しそう、というイメージをぬぐって思い切って読んでよかった。

    アウシュビッツなどの収容所で行われていたこと、それを知るということそのものも必要かもしれないが、この本はもっと深いところ、人間や心について書かれている。

    人間とは何なのか、生きるとは、苦しむことの意味は…。
    さまざまなことを考えさせられる。

    ハッキリ言って簡単な本ではないと思う。
    前半部分は収容所内の出来事が描かれているので、具体的で読みやすいと思うが、後半になってくると、精神論、哲学、生きること、苦しむことといった、内面の話が多くなってくる。
    何度も何度も繰り返して読み取りたい内容だった。

    どのような環境にいるかよりも、その環境でどのような覚悟をするか、そういったことの重要性を教えてくれる。
    生きる、ということの中には様々なものが含まれている。
    苦しむばかりの人生を送っている人であっても、その苦しみを受け止めることそのものが生きること、こういう考えはとても大切だと思う。
    今の世の中、ストレスをいかに軽減するか、いかに平和な心でいるかが重要視されている。
    でも、苦しみしかなくて、生きる意味を考えずにはおけないような状況の人たちもいると思う。

    どのような状況にあっても人の生に意味はある。
    苦境を苦しみぬくだけの人生でも。

    極限の状況で、人間としての扱いを受けなかった経験が、筆者の意見に説得性を持たせているし、その中で目にした人間の姿、心の動きは、日常を悠々自適に暮らす我々では感じにくい、本質的な人の姿が垣間見える。

    状況的には私達とは遠いところにあるけれど、こういった本質的なことを思考することで、生きる上での基盤は築かれると思う。
    仕事や恋愛、家庭といった、ごく一般の生活の中でも、生きる意味を見失う人にも、この本に示されていることをよく理解することで、なにか生きるヒントは生まれると思う。
    人に求められるから、希望があるから生きるのではなく、目の前のものがどんなものでも、それを受け止めていくことそのものが生きること。

    ほんとうに貴重な体験から生まれた本。
    そして、生きる人すべてに通じる普遍性がある本だと思う。

  •  
     この本の存在を、わたしはずいぶん幼いころから知っていた。けれど、読めずにいた。というのも、一本の映像作品がトラウマのような記憶となって、わたしを同書からながらく遠ざけていたからだった。その映像というのは、『映像の世紀』というドキュメンタリー作品で、わたしがみた一本は、アウシュビッツ収容所がソ連軍によって解放された直後の様子を映していた。小さな部屋に隙間なく重なりあう、人のかたちをしたようなモノの山。わたしは最初、それらがマネキンだと思った。いや、そう思いたかった。けれど、それらはたしかに人間だった。しかし他方では、その人間が生前いったいどんな様子で笑うのか、話すのか、まったくわからないほど痛めつけられた、やはりモノのようでもあった。それほどまでに、映し出される屍には「人間らしさ」が奪われていた。次のとき、その屍の山をブルドーザーで(!)かき集める(!)映像をみたとき、私の心はからっぽになった。
     わたしは、この映像作品でみた屍のかっと見開いた眼をもう一度思い出すのが怖かった。「人間に尊厳などない」と思い知るのが怖くて、ホロコーストを扱った著作をながらく遠ざけつづけていた。しかしある機会を得て、「人間の尊厳」を問い直すため、本書を手にとることとなった。
     筆者が度々挙げる「羊群衆」と「囚人番号」は、未来の目的を失った囚人たちに「自己」を奪っていった。「生きる屍」―尊厳を奪われたモノ―となるのである。しかし囚人が、強制収容所という単なる社会環境の産物とみなす構造主義的な見方に筆者は疑問を投げかける。人はこの極限の状態においてもなお、「ほかのようにもでき得る」という精神的自由、「すなわち環境への自我の自由な態度は、外的にも内的にも在り続け」、「苦難と死とが人間の実存をはじめて一つの全体にする」と筆者はいう。戦時下の人々を支えたこの実存主義的人生観は、かくも勇ましき「人間の尊厳」のひとつのかたちだと思った。
     この本を読むなかでわたしが涙を禁じ得なかったのは、「愛」について語られるときだった。無関心、無感動の「生きる屍」を「生きる人間」へと変える「愛」は、「結局人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものであるという真理」だと筆者は語る。筆者が仲間の囚人に伝言としての遺言を何度も語るとき、そこに無関心も無感動もない。彼は大切ななにかを思うとき、「人間」になるのである。
     また筆者は、その極限の状態のなかにあっても学問への「愛」を捨てなかった。彼のこの「愛」は、「人間の尊厳」の宿らぬ屍たちにそれを取り戻すひとつの力となる書物―『夜と霧』―を生んだ。
     しかしそれでも、それでも、わたしが『映像の世紀』でみたあの屍はやはり屍であって、元にはもうどうやっても戻らない。「人間の尊厳」を奪い去った権力がいつ我々を支配し、ふたたび屍の山を生むともしれない。筆者の心理学的な視点に隠された「生と死への勇ましさ」や「愛」を少なからずであっても知った今、わたしは恐れずにあの眼と向き合おうと思う。

  • 再読です。
    といっても、以前読んだのは旧版。大学生の頃でした。
    強制収容所における人間の在り方について精神科医であり、心理学者でもあるE.フランクルが書いた本書は、あまりにも有名ですが、私の人生における読めてよかった本ベスト10に間違いなく入る1冊です。

    貪るように、読みました。
    初めて読んだときは、強制収容所の凄まじい境遇にショックを受けて、背筋が凍る思いでした。
    今でも、あってはならないことだったと思っています。
    それでも今回は、そんな中においても人間として最後まで良心を保った人がいたということの、人間の尊さと強さにこそ、むしろ目がいきました。

    人間というのは環境に左右される生きものだけど、圧倒的不利な境遇を乗り越えて前に進んできた前人の存在から、環境が100%その人のあり方を決めるのではないことを私は知っています。
    本書でも、読み進めていくと「人間の魂は結局、環境によっていやおうなく規定される」と一見思えるかもしれないけれど、実際のところ語られているのは、「たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという人間としての最後の自由だけは奪えない」ということです。
    これは、ものすごいことです。
    なにせ、これだけ劣悪な環境においても魂の自由を守り抜いた人たちがいたのです。

    注目すべきは、私たちの心の内面です。
    一体、絶望の中で生きることを投げ出してしまった人たちと、最後まで生き抜いた人たちの心のあり方はどんな風に違ったのでしょうか。
    ここでは、人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的を持つこと、すなわち、未来を信じられることが必要と述べています。自分のためでも、誰かのためでも、何かのためでも、未来に目的がある人間は「なぜ」生きるのかがわかっている。だからこそ、どんな境遇でも心を強く持てるのだと。
    何もそれがあれば無敵というわけではないけれど、暗闇の中の一筋の光となって、前に進む力をくれるのでしょうね。

    再読にもかかわらず、すべてを消化できていません。
    苦しいときにこそ、再び読みたい。
    フランクル医師が理性と医師としての使命感でもってこの苦しみを乗り越えたように、私もここに綴られた貴重なエッセンスを余すことなく心に染み込ませ、公私ともに活かしていきたいと思いました。

  • たった今読み終えた。人間の非道に私は最初絶望しおののいた。恐ろしいだけの本だと思った。しかし、最後に、著者がその極悪非道な人間に勝る瞬間がやって来る。
    強制労働と偶然の翻弄に耐え抜いた、その精神が、人の命に尊厳を見出だす時が、まるで彼の見上げた夕日の美しさのように、突然やってくる。
    この史上ない体験をした、彼だからこそ知り得た境地が分かりやすく惜しみ無く語られる。

    私は日々不毛な思いを抱いて過ごしているかもしれない。愛もなく、熱意も夢もないかもしれない。それは何よりも空しいことかもしれない。
    人は平生でも、他人を無感動な目で見ることが出来るのかもしれない。

    一般的な幸せ、行動から得られる幸せが得られなくとも、私が私として悩み、かけがえのない苦悩と向き合うそれも、また、人として尊厳を持ち生きた証だと言う著者の言葉に、私は心慰められる。

    乾いた私の心に、このようなこのうえない潤いをもたらしてくれるその事実が、既にわたしをも救ってくれている。

    賢明な班長の元で暗がりのなか言葉を紡いだ彼の惜しみ無く与える勇気を私も持ちたい。

    私は苦しいときにこそなぜか、風景や自然はことさら美しく感じる。彼もそう感じたのだと思うと、私は切ない。

    本の末尾を締めくくる言葉が私は、大変好きである。何人の努力をも誇りに思わせてくれる言葉である。

    どうか、どうか、二度と人がもう、行方も知れず音もなく、歴史のなかに消えぬよう。

  • もうずいぶんと前に読んだのは旧版の霜山訳のもので、おそらくは20年以上前のことだ。新訳は読んでおらず、Amazonでも安くなっていたので、改めて読んでみることにした。そのふたつの読書体験の間には、実際にアウシュビッツ・ビルケナウ収容所にも行き、とても長い映画『SHOAH』も見て(同名の本も読み)、最近もプリーモ・レーヴィ『アウシュビッツは終わらない』も読んだこともあり、また前回とは違った認識を持つことができたように思う。そもそも自分も20年の間に考え方も知識も立場も変わっている。

    本書は、「これは事実の報告ではない。体験記だ」から始まる。ここに書かれているのは、ナチスがホロコーストをどのように実行したのかではなく、強制収容所における収容者としての日常の体験、つまり「おびただしい小さな苦しみ」を描写し、心理学者としての観点から分析したものである。その描写の中では、ナチスの影は薄く消されている。その代わりに収容者同志の争いや、収容者の中でも管理する側として選定されたカポーの優越感と横暴が目立つ。本書の中でも有名な文句「いい人は帰ってこなかった」は、次の文章の中にあらわれる。

    「収容所暮らしが何年も続き、あちこちたらい回しにされたあげく一ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者はおおむね、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく帰ってきたわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と」

    収容生活の中では、「内面がじわじわと死んで」いき、他人の死に対しても無感動になるという。そして、そうなるまでにはそれほど長くかからず、著者によると収容所生活数日で感情が消失していったという。

    「人間はなにごとにも慣れることができるというが、それはほんとうか、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。だが、どのように、とは問わないでほしい......。」

    その苦しみは圧倒的だ。ただ、その中でも家族への愛やユーモアはある種の支えになった、とも書かれる。

    収容所生活の描写が中心であるため、詳しくは書かれていないが、解放された後も収容所にいた人びとを苦しめ続けていたことが示唆される。解放された後も収容者を苦しめたであろうことこそが伝えられるべきことなのかもしれない。
    いくつか印象に残った言葉をここに書き写しておきたい。

    「およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ」

    「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない」

    「わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ」

    「収容所にいたすべての人びとは、わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にはないことを知っていたし、またそんなことをこもごもに言いあったものだ。わたしたちは、幸せなど意に介さなかった。わたしたちを支え、わたしたちの苦悩と犠牲と死に意味をあたえることができるのは、幸せではなかった。にもかかわらず、不幸せの心構えはほとんどできていなかった。少なからぬ数の解放された人びとが、新たに手に入れた自由のなかで運命から手渡された失意は、のりこえることがきわめて困難な体験であって、精神医学の見地からも、これを克服するのは容易なことではない」

    「「はっきり言って、うれしいというのではなかったんだよね」わたしたちは、まさにうれしいとはどういうことか、忘れていた。それは、もう一度学びなおさなければばらない何かになってしまっていた」

    「不正を働く権利のある者などいない、たとえ不正を働かれた者であっても例外ではないのだというあたりまえの常識に、こうした人間を立ちもどらせるには時間がかかる」

    「収容所の日々が要請したあれらすべてのことに、どうして耐え忍ぶことができたのか、われながらさっぱりわからない」

    原題は、『...それでも生にしかりと言う』だ。それは単に解放されて、生き延びることができてよかった、ということではないのだ。単に収容所の生活は大変なものだった、というものだけでもない。生き残った人は、あのとてつもない受難には意味がなかったかもしれないということを背負って生きることになったのだと気が付いた。生き残った人こそ、「それでも」生にしかりと言うために努力をすることが必要になってくるのかもしれない。おそらくは、収容者は自ら受けた苦しみに意味を見つけられなければ、普通に生きることもできなかったのではなかったのだろうか。誰もが収容所の悲惨さに目を向けるが、その後についても、もしくはその後についてこそ心理学者としては考えるべきことが多かったのではなかったか。

    広島の被爆者を描いた漫画『夕凪の街 桜の国』の次の言葉を思い出す。

    「わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ。
    思われたのに生き延びているということ。
    そしていちばん怖いのはあれ以来本当にそう思われても仕方がない人間に自分がなってしまったことに自分で時々気づいてしまうことだ。」

    それでも生にしかりと言うことは果たしてできるのだろうか。それはアウシュビッツ以降問い続けられなければならない問いとなった。忘却されるべきではない。読まれるべき本。

  • この本を読んだ人の中にもまともではない人はいるし、読んでいない人の中にもまともな人はいる。
    でも、読んでいたら取るべき行動に変化が生まれる余地がある可能性があるから、もちろん読むに越したことはない。

  • 旧版を読んだのはもう三十年以上も前、学生の頃だった。「読んでいなければならない本」の一つだったと思う(かつては確かにそういうものがあったのだ。「読んでいないとは言えない本」という方が正確かもしれない)。とても重いものを受け取ったような読後感が忘れられない。だが、間違いなく今の方が、この本のメッセージをより深いところで理解できたと思う。若い頃の自分と二人で読んでいるような気持ちだった。

    あとがきで、旧版には「ユダヤ」という語がただの一度も使われていないと知り、驚くとともに、なるほどと腑に落ちる思いだった。フランクルは徹頭徹尾、「人間」について書いていたのだ。「ナチス」を裁いて事足れりとするのではない、人間性への透徹したまなざしが全編を貫いている。

    「人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ」

    「人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない」

    「生きるということとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない」



    旧版訳者の霜山徳爾氏が寄せている一文が感動的だ。
    「新訳者の平和な時代に生きてきた優しい心は、流麗な文章になるであろう。いわゆる"anstandig"(これは色々なニュアンスがあって訳しにくいが「育ちのよい」とでもいうべきか)文字というものは良いものである」
    こういうことを言える旧世代の方というのはなかなかいないと思う。

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夜と霧 新版の作品紹介

心理学者、強制収容所を体験する-飾りのないこの原題から、永遠のロングセラーは生まれた。"人間とは何か"を描いた静かな書を、新訳・新編集でおくる。

夜と霧 新版のKindle版

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