海辺の家

  • みすず書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622045113

作品紹介・あらすじ

千変万化の海に魅入られて、独り老いる。しかし忙しい-庭仕事、執筆、犬と猫、老いた友、そして寂寞。名作『独り居の日記』のその後を描く、上質の日記文学。

感想・レビュー・書評

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  • 「知れ りんごが音高く落ちる時
    わたしらは熟すのではない 変化に耐えるだけだと」
    『訣別』より

    "孤独と結婚をした" 彼女にとても惹かれるのは、同じように孤独を愛した祖母とすこし重なるぶぶんがある(とわたしがおもっている)からかもしれなかった。伊豆の山奥にこもっていた祖母。なにを想って生きていたのだろう。
    いっぽうメイの新しい住処は海辺の家。そして訪ねてくるたくさんの友人に恵まれている。太陽に煌めく海面、うち寄せてはかえすその波間に彼女の内面が踊りだす。波がかわりに時々、彼女の怒りを攫っていってくれているよう。あぁ、なんて素敵なのだろう。わたしも、朝日とともに眠るのでなくて、目覚めたい。そんな老後の夢をみる。
    そんな光に満ちた生活のなかで、彼女の親しい友人はつぎつぎと亡くなっていってしまう。彼女の喪失感とそしておなじくらい溢れでるパワフルな生命力の源でもあるような創作意欲に、なんだか勇気づけられる。メイの知人や友人たちの論文や書評の(とりわけフェミニズムや母と娘、女というものについての)引用を読むことができるのはとてもすばらしく、嬉しい。とくにカレンというひとの論文「メデューサの娘たち、神話と詩に現れた女性の意識」というものがとても興味深かった。
    メイの日記をよんでいると、バラバラになった忙しない わたし が彼女の本のもとにひとつに集まり、暫し静聴し、おなじ方角のなにかを見つめだす。そんなここちがする。しかし、それはなんだろう。
    目を閉じると、凪の音が聴こえる。
    夫が亡きあとになっても、わたしはきっと大丈夫だろうと高を括っているけれど、"骨に突き刺さるような孤独" の準備を、わたしはできているのだろうか?
    1975年も、メイはイスラエルのことにふれていた。

    どうでもいいような話だけれど、メイのあの素晴らしい家には訪問者(侵入者)がよく訪れる。メイのファンだとか知り合いの知り合いだとかが、彼女になんの知らせもなしに突然。彼女のファンなら、彼女がそういったことを嫌い、心が乱されてしまうのがわかるはずなのに、、とわたしも苛立っちゃった。アメリカ人 ってやつなのかな。




    「老人のなかの子どもは、緩慢に幽閉されてゆく過程を扱うことのできる貴重な部分なのだ。」

    「なぜなら海はたしかに強力に感情に訴える力なのだ。だから海が最後のミューズとなり、それが私を詩に連れもどしてくれるかもしれないという夢は、それほど狂ってはいないのかもしれない。」

    「孤独は長く続いた愛のように、時とともに深まり、たとえ、私の創造する力が衰えたときでも、私を裏切ることはないだろう。」

    「文明の生命においては、個人の生活におけると同様に、消化できない多くの問題がありすぎ、想像されたこともなく探られたことも理解されたこともない多くの経験がありすぎ、それらはいっさいのものの拒否となって──つまりは、アノミーに終わるということに、私はますます確信をもつようになった。」

    「それはまるで捧げられた祈りへの回答のようだった。外部の嵐が、いまのようにすべての緊張を吸収してくれなければ内部の嵐になったかもしれないものを、演じ上げていたのだ。」

    「自分自身であることの値はそれほどに高価であり、他人にたいしてごく冷淡(少なくとも、わらわれの義務感にしばられた文化のなかでは、冷淡に見えるもの)になることを要求するので、自分自身でありうる人はごく少数だ。」

    「子どものいない女はいつも少しばかり守勢に立たされている。」

    「私たちが祈ることのできるのは、自分が自分でなくなるまでは生きないということしかない。」

    「つまりそれは「世間のなかで生きる」ことになり、それこそ私が、生きるのを拒否できると感じる場所なのだ・・・・・」

    「しかし私は、女であるばあいには、人間として充実した人生を送りつつ最高度のオリジナルなしごとをすることは不可能に近いという、私自身のかたくなな見解につきあたるのである。」

    「私の意識の背後にはいつも、都市の深奥部における精神の死にたいする心痛や不安がある。「ここには心や気概や魂の平等はない。何ごとにたいしても、漂う充足感というものがない。誕生にも。生活することにも。死にも」」

    「われわれは汚濁した世界に暮らしているが、個人個人がそれを変えることはますますむずかしくなっているように見える。」

    「いまでは人間はこれまで以上に、動物などすべての生命の殺害者に見えてきた───人間は鯨や人間自身の種の殺戮者であり───死の運び手だ。」

    「「彼は人生に何を期待しているの?」「愛されること」とジョディは言った。」

    「人は自分を追跡することで「自己発見」をするのではなく、その反対に何かしらほかのものを追跡し、なんらかの規律あるいは日常の仕事(たとえそれがベッドメーキングのような日課であってさえ)をとおして、自分が誰であり、誰になりたいかを知るのだ。」

    「ことによると人は、ふたたび内部の世界の開くのを待ち受けるためには、つねに完全に裸で、見捨てられ、侘しさの極みを感じていなくてはならないのかもしれない。」

  • P

  • 心が洗われるような気持ちになる美しい日記。著者のように、日々の何気ない風景を鋭敏に捉え、文章にできたらどんなにいいだろう。年をとることは悪いことではないと思わせられる。所々に載っている写真も素晴らしかった。

  • もし、この家に子どもが居たら、寄り添う一対の人がいたら。
    目の前の景色は違って見えるのだろうか。

    すぐに頭の中に入って理解できる言葉と、スルーしてしまう語句があった。叙情的で美しい花々の描写は素晴らしい。
    女性作家の本は私にとって難しい。

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著者プロフィール

(May Sarton)
1912-1995。ベルギーに生まれる。4歳のとき父母とともにアメリカに亡命、マサチューセッツ州ケンブリッジで成人する。一時劇団を主宰するが、最初の詩集(1937)の出版以降、著述に専念。小説家・詩人・エッセイスト。日記、自伝的エッセイも多い。邦訳書『独り居の日記』(1991)『ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く』(1993)『今かくあれども』(1995)『夢見つつ深く植えよ』(1996)『猫の紳士の物語』(1996)『私は不死鳥を見た』(1998)『総決算のとき』(1998)『海辺の家』(1999)『一日一日が旅だから』(2001)『回復まで』(2002)『82歳の日記』(2004)『70歳の日記』(2016)『74歳の日記』(2019、いずれもみすず書房)。
*ここに掲載する略歴は本書刊行時のものです。

「2023年 『終盤戦 79歳の日記』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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