- Amazon.co.jp ・本 (247ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622045977
作品紹介・あらすじ
片田舎に老屋を買い、ひとり住む-うぐいすに聞きほれて。家探しから個性的な隣人との出会いまで、終生のテーマとなる「孤独」と対峙した最初のエッセー。
感想・レビュー・書評
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一生持っていたい本のひとつです。
今は分からないかもしれないけれど、でも、この本をずっと手元に置いておけば、きっと年をとっていくということは恐ろしくない気がする。
まず、タイトルで…殺されます。
ノックアウトです、このタイトルにまず。
大自然とともに生きたくなり、庭いじりをしたくなり、花を大事にしたくなります。
たとえばこんな感受性が好き。
「冬は動物も人も、骨の髄までそぎ落とされる季節。しかし多くの動物は、冬を軽くいなすかのように冬眠する。一方われわれ人間は、高揚やうっ屈の感情の流れに、裸でさらされる」
「彼は林で藪を切り開き、私は机に向かい、言葉のしげみを刈り込む」
でもやはり最後のチャプターの文章、そしてタイトル由来であるサートンの詩がよいです。
「私が植えた梅が花を咲かせるまでに五年かかった。そして、集いあう白い花をぬって、高麗うぐいすがその炎のような色を見せに戻ってきてくれるまでに、さらに五年かかった。そして私自身は、ここに植えられてからまもなく10年を迎えようとしている…」
*
長いさすらいの実りを
収穫する祝福されたひとよ
大いなる遍歴ののちにようやく
ふるさとへ船を向けた老ユリシーズにも似て
智恵に熟し身丈をのばして
夢見る想いを深く植えるために
*
想いって「植える」ものなんですね…
もう、その発想に、胸がいっぱいです。
私も植えられた場所でせいいっぱい枝葉を伸ばしたい。 -
「ここでの生活は、おそらく幸福というものではないが、鋭く目覚めて、もっとも強烈に生きられたのだ。」
「独り居の日記」をさきに読んだので、ネルソンの様子などはそれほど詳しくしることはなかったのだけれど、ここでは目の前にあの光景がひろがっているという感動が、あぁ、あそこじゃん!なんていう興奮もあって、あの家のはじめの荒廃ぐあいと歪みぐあい、それから少しづつひとつずつ、修復され再生されてゆくさまを知れるのはとてもすてきだった。そしてあのパーリー!
わたしは住む場所というもの、家 というものにまったく執着がないのだけれど(むしろひとつの場所に一生を置くという怖さのほうが勝ってしまう)、きちんと居を構える、ということは自分自身というものの確固たる構築でもあるのではないだろうか、という気もしてくる。"家の形而上的な骨組みを建て" てゆくことによって、生活を、人生を、形づくってゆくように。庭づくりについては、まったく知識のないわたしがみていてもとても心躍るものだった。自然との仕事は、ひとを核心にふれさせる。そういったことに、自然とひとの神秘のかんけいを想った。
そしてネルソンの、彼女のご近所さんたちのなんとユニークで素晴らしいことよ。でもそれは彼女がひと(隣人)を包むことのできる美しく柔らかな毛布と、多彩性の楽しめる万華鏡をもっていたからかもしれない。そしてこの本のなかでの彼女と人びととの関係と村のコミュニティを眺めていると、ダンスの輪に加えるべく、わたしのなかでちいさく縮こまっているわたしの手をとるだれかの(たぶんわたし自身の)イメージが映ったのだった。
「私は彼を知る前よりも良い詩人になったのではないかと思う、もしも詩人であるということが、生活を意志の決めたとおりに形づくろうとするよりは、それが自分を通して流れてゆくのを許すということを意味するなら。もしもそれが、仕事に一日をつくられるのではなく、一日に仕事を決めさせ、小鳥や花のように生の真髄に向かって生きることを意味するなら。」
「われわれの内部にあるものはすべて、われわれに決断を強いる。どんなことであれ人生の重要なステップを踏む前にかならず存在する不安からただ解放されたいばかりに、時には悪い決断さえも。」
「大きな情熱がすべてそうであるように、私の庭も追憶と願望で栄養をあたえられる。それは心に記憶された喜びが再創造される出会いの場所、交差点だ。」
「私は人の死に方は、その生き方あるいは愛し方と同じほどはっきりと、その人間の本質を見せるものだと、信じるようになった。」
「バジルは私の知るかぎり、もっとも鋭い自然の感受性をもっていた。それは培われたものとか本能的なものというより、茶のほかに刺激物をいっさいとらないことからくるのだと、彼自身はいったかもしれない。酒も飲まねば煙草も喫わず、こうしたことで程度を超えることを嫌っていたから。」
「外界は、感情の広大な反響にすぎない。けれど中年の人間にとって、白い壁にまだらにうつる午後の光は、天啓と感じられるかもしれない。」
「私たちは自分の必要からよりも彼らが彼ら自身であるために、以前ほど所有欲をもたないで友人を愛する。彼らはちょうど小鳥のように、私たちの関心がより強烈により冷静に向けられるようになった自然の世界の一部として祝われるべく、そこに存在する。」
「だが私の観るところ、天才神話は若人のものだ。五〇を過ぎてそんなもので身を飾ろうなどというのはいささかグロテスクではないか。そのころまでには、人はおそらく、多くを切り抜けてきたはずだ。そして、自分にできることを、できるだけうまくやり遂げること、そのほかは、自分自身のうぬぼれにたいする冗談だったと、折り合いをつけているはずなのだ。」
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ベルギー生まれアメリカ育ちの詩人メイ・サートンは46歳のとき、亡き両親が故郷から運んできた家具と一緒にニューハンプシャーのネルソンという村にある古い家へ移り住む。それはじっくりと孤独を味わい、家や庭と対話し、新しい土地に少しずつ分け入っていく日々のはじまりだった。ひとり暮らしの理想と現実を省察するエッセイ。
田舎の古くてデコラティブな家をリフォームして、自分の好きに絵や庭で摘んだ花を飾って住む……赤毛のアンが10代の頃の夢を叶えたみたいな生活。サートンはヨーロッパにある家族のルーツと、アメリカで育ってきた時間が融合する場所として新たな住処をコーディネートしていくのだ。
ステキな生活というだけではなく、自分のなかの「鬼」と闘う詩人の孤独な執筆活動を描いたエッセイでもあり、そんな彼女がコミュニティになじんでいくまでのドキュメンタリーでもある。サートンは隣近所の人びとをとても魅力的に描く。古い家に気配を残しているたくさんの”幽霊”たちのことも。動物や植物もサートンの手を焼かすが、彼女に天啓を与える大事な存在だ。「庭づくりは人に、あらゆるものについての平衡感覚をあたえてくれる、ただし庭自体は例外だけれど」。ひとりの偉大な老人の死として語られる楓の伐採も忘れ難い。
訳者の武田さんが「完結し美化された世界」と書いているとおり、本書はサートンが田舎暮らしの美しい部分をすくいあげて綴った、憧れの結晶みたいなものだと思う。最後の章ではじめて彼女はネルソンへの失望を語る。それは土地により深く入りこんでいくために必要なプロセスだったのだろう。だが、新参者だからこそ楽しげに語られる美化された日々には、その時間にしかないきらめきがあるのもたしかなのだ。 -
古書店で老境に入った際の続編日記を手に取る。
田舎の隠居小屋で1人キャスリーン・フェリアを聞く老女流詩人のえもいわれぬ雰囲気に惹かれ、まず1作目を。
訳者も上手で、自然の中での暮し、淡々と過ぎつつも奥深い日常が染みいる。
<その他の書籍紹介>
https://jtaniguchi.com/tag/%e6%9b%b8%e7%b1%8d%e7%b4%b9%e4%bb%8b/ -
読みたいと思っているうちに20年が過ぎてしまっていた。急に読みたくなって中古で購入。(購入できて良かった~)
書名は、私的には『夢見る想いを深く植えよ』のほうがしっくりくるかな。
友人クイッグの死を書いた箇所がよい。
「……それは世間的な成功をほとんど味わったことがなく、しかも創造しつづけ、あたえつづけることをやめなかったある人の、人間的な勝利だった。……」(p168)
この一文を読んで、一気にメイ・サートンが好きになってしまった。
ほかにも好きな箇所がいくつかある。
「私は人の死に方は、その生き方あるいは愛し方と同じほどはっきりと、その人間の本質を見せるものだと、信じるようになった。私の母は、私がつきそっていた長い緩慢な凋落の月日を通して、一度も苦痛を軽くしてほしいと不平をいったり、懇願したりしなかった。彼女は閉じてゆく花のように自らを内部へと包みこみ『離してゆかせる』ために、彼女が愛したすべてのものから自分をやさしく切り離してゆき、ついには私たちには光、人間的なものを感じさせない光のように思えるまでになった。……」(p165)
優しさに満ちあふれたまなざし。
読み返すと、文章の美しさにも気づく。訳者の力によるところもあるのかもしれない。 -
「私から年齢を奪わないでください。働いて、ようやく手に入れたのですから」との印象的なフレーズ(「独り居の日記」)に誘われて読み始めた、アメリカの女流詩人メイ・サートンのエッセイである。内省的な珠玉の「独り居の日記」に先立つものである。著書は、45歳のときに、亡くなった両親から譲り受けた家具をおさめるために、森・小川に囲まれたアメリカの片田舎に田舎屋を購入した。自然に振り回されるも、花で咲き乱れる庭を作り上げ、個性的な隣人・ごく親しい友の訪れを楽しみにしつつ、創作に勤しむ十数年の日々・・・。何とも他に類がなく、深く豊穣な書物である。亡くなる82歳まで、背筋をピンと伸ばしてまっすぐに生きた著者のあり方には感銘を受ける。他のもの(「海辺の家」「回復のとき」)も読んでみようかな・・・。
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この本を読み始めてすぐ、バージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』の世界と重なった。バートン自身がサートンと同じような体験をしたことは、『せいめいのれきし』を読んで知っていた。農業社会だったアメリカで、しだいに都市化が進み、見事に手入れされていた農場が荒れ果てていく。何世代か前の人たちが懸命に森を拓き、手塩にかけてきた農場が無惨な姿に変わっていく。バートンが描き出す長い時間の流れは、サートンの本と共通するものだと思った。
両親がベルギーで使っていた家具に居場所を与える、広大な荒れた庭のある家を買い求めた最大の理由はこれだった。そして、ネルソンというニューハンプシャーの片田舎に移り住み、芸術的手腕で生活を切り開いている隣人たちに出会う。たとえば、庭師のパーリー・コール。ネルソン周辺の荒れた農場をそのままに捨て置けない彼は、サートンのもとを訪れ、庭の手入れを申し出る。庭を完成させていく姿勢の妥協のなさ、70をすでに越えたとは思えない働きぶりには、サートンならずともほれぼれする。
この引っ越しは、創作活動の障害となるとなるあらゆる人間関係の枝葉を取り払い、孤独な状態に自分を追い込むことも目的にしていた。人生の半ばで挑んだ厳しい戦いの場、この古い家にはそういう意味もあったのだ。 -
-二〇歳では人は不死身だが、五〇代も半ばを過ぎると、死の予覚のために、時間がまったく異なった意味をもちはじめる-
賢く、強い女性が自然と向き合う中で哲学する感が、アン・モロー・リンドバーグの「海からの贈り物」を思い出す。40歳になったら読んでほしい一冊。 -
まず、なまじ文系の脳味噌なんかを持っていたらこのタイトルの耽美さにうっとりすると思う。すばらしくてすばらしくて何もかもにうらぶらしさを思って嘘っぽい自分にチーズなんかをぶちまけた、そうやった年代物の篭った臭気、瘴気が鼻をつく。そして溺れる。溺れた。