暴力について―共和国の危機 (みすずライブラリー)

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制作 : Hannah Arendt  山田 正行 
  • みすず書房 (2000年12月9日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (261ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622050605

暴力について―共和国の危機 (みすずライブラリー)の感想・レビュー・書評

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  • 「暴力について」。ハンナ・アーレント著。英語版初版1972年。山田正行訳、みすず書房、2000年、261頁。

     ハンナ・アーレントさんは1906-1975。ドイツ生まれのユダヤ人?ユダヤ系だったそうです。
    お父さんは電気工事技師さんだったそう。ご両親ともかなりなインテリ教養人。ドイツで哲学を学んで、ナチス政権成立後の1933年(27歳くらい)にパリに亡命。亡命ユダヤ人の救出活動などに関わったそうです。ネットで拾えるレベルの情報で言うと。

    この、パリ亡命までの青春期に。どのような哲学者から影響を受けたのかというと。
    キルケゴールの教えを受け。
    ハイデッガーの愛人の時期を経て。
    フッサールとヤスパースの下で学んだ、という履歴。

    挙がった名前の哲学者みなさん、正直読んだことはありませんが、有名人ですね。
    若きアーレントさんは、華麗な履歴(男性遍歴も?)を持つスーパーエリートな哲学者の卵だった、ということなんでしょうか。(かなり雑な感想ですが)

    ただ、学問だけでなく、政治的な活動も行い。
    フランス亡命前には一度逮捕されたりもあったそう。ナチスと同時代のユダヤ人哲学者として、政治、権力との因縁も深かったんですね。哲学、と言っても「政治哲学」、と呼ばれたりするのが専門になります。
    そして、一度結婚して離婚。で、再婚。
    再婚相手はスパルタクス団などの政治活動家さんだったそうで、つまり、革命家であり後に惨殺されるローザ・ルクセンブルグさんとかとも仲間だったという。

    アンナ・ハーレントさん自身は惨殺されずに。1941年にアメリカに亡命します。
    以降は、アメリカ人として大学で教鞭をとり、研究を続け、著作を発表し過ごします。

    生まれた時代を反映してか、「全体主義、ある時期、ドイツで言えば、みんなが熱狂してヒトラーを支持してしまったりしたよね」というようなことを研究したりしています。なんというか、「国家」の在り方とか、「大衆社会」の危険性とか。「ポピュリズム」とか「極右」とか「愛国」とかが飛び交う2017年現在でも、けっこう刺激的な思想家、哲学者さんだと思います。
    ま、ただ書かれている文章は、発表当時(この本だと1970-1972くらい)の事件や状況をもとにしているので、結構分かりにくいところもあります。(もともと、哲学書、思想書、というようなジャンル分けをされる本なんで、難解でもあります…。翻訳ももうちょっと平易にならないかなあ、と思うンですが…)

    #

    この本は、

    ●「政治における嘘」
    ※ベトナム戦争当時のアメリカで、CIAがいろいろ現地を調査した報告書が、政治家たちに全く無視されていた、ということが発覚するという事件がありまして。「ペンタゴン・ペーパー」。これについての論考。

    ●「市民的不服従」
    ※政府がやってることに納得いかないから、服従しない。市民的不服従。「税金払いたくない」とか「徴兵行きたくない」とか。60年代後半~70年代の、「学生たちの反乱」の時代。お祭り的な、狂信的な学生運動と区別しながら、「ちゃんとした市民不服従という選択肢も良いよね」的なお話。

    ●「暴力について」
    ※つまり国家というのは大きな暴力を持っているものなわけで。というような意味合いでの「暴力」についての論考。

    ●「政治と革命についての考察」
    ※いちばん読み易い。インタビューに答える形式。やはり、学生運動みたいな、そういう政治的な、革命を目指す的な動きをどう思うかみたいなお話。

    の、4編が入っています。

    正直、どれも難解でした(笑)。

    その時代の、主にアメリカ社会の状況を踏まえた内容になっているので、余計に分かりにくい。
    それでも、意外に読めてしまいました。
    全体像はともかく節々がアフォリズムというか、警句というか、ハッとさせられる文章に充ちていてオモシロイ。

    以下、抜粋。



    嘘をつく人は聴衆が聞きたいと思っていることや聞くだろうと予期していることを前もって知っているという非常に有利な立場にいるので、嘘はしばしば現実よりもはるかに真実味があり、理性にアピールする。

    嘘をつく人は公衆が信用して受け入れてくれるように注意深く目配りしながら物語を用意するが、現実はわれわれが受け入れる準備のできていない予期せぬものをつきつけるという、いやな習慣を持っている。

    (うーん。2017年3月現在、政治に関わる人が、「どちらかが確実に嘘を言っている状態」がありますね。そしてそれはいずれにせよ証明不能であり、状況証拠は全て目を背けられていく…力強く「やっていない」と言っている人は、はたして嘘をついていないのか…)



    未来を支配することができると感じるところまで行動する人間は、過去をも支配したいという誘惑にいつまでも駆られるものである。

    (成功者は過去を飾る…。強大な権力者は、歴史を(歴史の解釈を)支配しようとする…)



    ベトナム戦争において恐るべき数の戦争犯罪が犯されているにもかかわらず、政府のいかなるレベルにおいてもそのような大量破壊への意思はまったくなかった。

    (初めから、「悲惨なことをするよ」と言って始まる戦争は、古今東西、ない。今後、未来においても、当然「大したことぢゃない」「悲惨なことにはならない」という言葉から始まります)



    軍がひとたび投入されれば、敗北を認めることなく撤退するのはむずかしいだろう。

    世界の最強国というイメージが必要とされ、イメージそれ自体が目標となった。

    あらゆる兆候が消耗戦における敗北を示すようになると、目標はもはや屈辱的な敗北を避けることではなく、敗北を認めることを避けて「面子を保つ」方法と手段を見つけることになった。

    敗北よりも敗北を認めることの方が恐れられる。

    (戦争、かつての日本軍…。でもそれよりも、会社や仕事や上司という世界でも、こういうことは必ずある気がします)



    中世の小話。敵が近付くのを見張り、町の人々に知らせる役目を負った1人の番兵が、冗談で偽の警報を鳴らしたところ、彼がでっちあげた敵から町を守る為に、最後には彼自身も城壁に駆け付けた…。
    嘘つきは自分自身の嘘を信じるようになる。



    報道機関は、自由で腐敗していない限り、途方もなく重要な機能を遂行するものであり、それがなければあらゆる意見の自由は残酷なねつ造に堕してしまう。



    人がこの世にやってきたのは、何よりもまずこの世を住みよい場所にするためではなく、それが良い場所であれ悪い場所であれ、そこに住むためである。

    (思想やイデオロギー、主義主張というのは、現実の生活の上に立たねばならないんだろうな)



    ひとりきりになって自分自身に直面しなければならない恐怖は、悪事を思いとどまらせるように説得する上で非常に有効。

    (つまり…集団でいることの、安らぎと危うさよ…)



    人間は、よそ者にして新参者としてこの世界にやって来て、(限られたケースではあるが)世の習いについて「知恵がある」ようになれるような経験と習熟を積んだまさにそのときに世を去っていく。

    (限られたケースではあるが、という但し書きに、年長者が必ずしも知恵ものではない、という含意、、、)



    最も急進的な革命家が革命の翌日には保守主義者になるのは周知のことであろう。人間の変化の能力も、明らかに無制限のものではない。



    生まれてくるすべての人の状況には、ある種の同意が含まれている。言いかえれば、彼の生まれつき属している特定の集団の中で行われている世界と言う大いなるゲームのルールに従うということが含まれている。我々はみな、ある種の暗黙の同意によって生きており、生き延びるのだけれど、それを自発的な同意と呼ぶのは難しい。とにもかくにも存在しているものを、いったいどのように欲しがることができるだろうか。



    トクヴィルはおよそ150年前に、合衆国の未来を脅かすのは、彼が廃止を予見していた奴隷制度ではなく、「その領土内の黒人住民の存在」と予言した。これらの人々が、アメリカ共和国の一番最初の「全員の同意」にはまったく含まれていなかったという単純にして恐るべき事実があったからである。

    ジェファソン曰く「等しく自由である二つの人種が同じ政府の下では生活できないこともまた確実である」



    人間は、かよわい葦であって、悪行を犯さないとしても、黙認しがちである。



    予言することのできない突発的な出来事を「偶発事故」とか呼んで、どうでもいいものとして貶めるのは大昔から見られる巧妙なやり口。
    なるほど理論をわかりやすくしてくれるが、その代わりに理論は現実離れする。
    危険なのは、これらが現在の趨勢を証拠としているためにもっともらしいだけでなく、つじつまがあっているために人々を催眠術にかけてしまう。我々の常識を眠らせてしまう。



    暴行を受けた者は暴力を夢想し、抑圧されたものは抑圧するものと立場を逆にすることを夢に見、貧しい者は富める者の財産を夢に見ることをいったい誰が疑うだろうか。



    第三世界とは実在ではなくてイデオロギーである。

    (なにを物差しにするかで変わる、という意味でしょう)



    われわれは完成されうるものとして生まれてくる。しかしわれわれは、けっして完成されることはない。



    人間には他者を支配する権力をふるいたいという欲望と、他者に権力をふるわれるのを好まないという、二つの傾向の在り方がある。



    権威を維持するためにはその人間もしくはその役職への尊敬の念が求められる。それゆえ、権威の最大の敵は軽蔑であり、権威を傷つける最も確実な方法は嘲笑することである。



    暴力を正当化することはできるが、しかし暴力が正当なものであることはけっしてない。



    権力の失墜は暴力を持って権力に代えようとする誘惑となる。



    暴力は権力を破壊することはできるが、権力を創造することはまったくできない。



    革命行為においても軍事行為においても、最初に消える価値は個人主義である。



    労働者は労働条件と生活条件が満足の行く水準に到達したとたんに、プロレタリアであるつづけて革命的な役割を演ずることを断固拒否するようになる。



    人種差別主義は、いかなる説得も権力も変えることのできない、白い肌もしくは黒い肌を嫌うものである以上、ほんらい暴力に充ちたものなのである。

    人種差別主義はイデオロギーであり、反射的な行為ではなく、意図的な活動である。



    暴力の実践は、あらゆる行為と同様に、世界を変えるが、もっともおこりやすい変化は世界がより暴力的になることである。



    公的生活の官僚制化が進めば進むほど、暴力の魅力は大きくなる。官僚制が余すところなく発展すると、議論できる相手はいなくなり、不満をぶちまけられる相手も権力の圧力をかけられる相手もいなくなる。



    自然の恵みである「頭脳の力」だけにもとずく「実力主義の支配」への恨み。
    これは、以前に抑圧、少なくとも抑圧されている理由がけっして自分自身の「欠点」ではないことに慰めを見出していた者の恨みと比べて、より危険で暴力的である。

    抑圧される、不利な立場にある人は、数の上で圧倒的なのだ。また、社会的流動性がほとんど皆無である。

    デマゴーグや人気のある指導者の危険性は、実力主義を暴政や専制へ押しやるほど大きい。

    (これはぐさっと来ますね。自由競争という美名の下、事実上社会資本が世襲されていく格差社会。金持ちしか議員になれず、2世ばかり。それが伴う、危険なポピュリズムへの招待)



    連邦議会には535人の議員がいるが、この中の多くは子供がいる。そのうち何人が子供をワシントンの公立学校に行かせているかご存知か。6人だ。

    (2017年の日本で言うと、6人もいるのかぁ、と感心してしまう)



    徴用、資本の原始的蓄積。これが資本主義が歩み始めるときの法則であり、この過程に本来的に含まれている怪物的な力を統御し抑制できるのは、いわゆる「福祉国家」においてです。

    労働者が「自分たちの工場を所有している」などということが存在するといえる人などいません。集団的所有権は、ほんのちょっとでも考えればわかるように、言葉の矛盾です。

    資本主義と社会主義という二者択一は誤りです。どちらもその純粋なかたちで存在しないばかりではなく、二つは違う帽子を被った双子だからです。

    資本主義は個人と個人の財産を保護していたあらゆる集合的な集団を粉砕してしまいました。そうした集団は、完全ではないにせよ、ある程度の安全を保障していたのですが。その代わりに「階級」、実質的には搾取者と被搾取者のふたつですが、これをつくったのです。

    マルクスでさえ、社会主義ということで具体的に何をイメージするのか、根本のところでわかっていなかったのです。



    ソ連とその衛星諸国は多民族国家です。独裁権力は多かれ少なかれ支配的な民族の手中にあります。それに対する反対はつねに民族解放運動に転化する危険があります。

    (うーん。1972年段階で鋭い予言)



    人種融合政策で公立学校はもっぱら黒人からなるルンペン・プロレタリアートの重みに耐えかねて、崩壊してしまいました。

    (ニューヨークでは)近いうちに非常に貧しい人と非常に豊かな人しか住めなくなります。余裕がある人の全ては良質な私立校などに子供を通わせます。労働者階級、中流階級の下の人たちはできません。
     この人たちが憤慨しているのは、中流階級から上のリベラル派が提案した法律であるにもかかわらず、その結果は中流階級から上の人たちには痛くも痒くもないという点です。
     下級の階層にかぎってナショナリズムに染まりやすいのです。

    ###

  • 人間の行為の特徴は、つねに何か新しいことを始めることであるが、それは一番最初から始める、無から創造することができるということを意味するわけではない。行為をなす余地をつくるためには、以前からあったものを取り除いたり壊さなければならないのであって、もとのままのものは変えられることになる。そうした変化は、もしわれわれがいま自分の肉体がいるところから頭のなかで自分自身を移して、さまざまな事物がいま現にあるのとは異なるものであるかもしれないことを想像することができなければ、不可能である。いいかえれば、〈事実の真理〉の意識的な拒否――嘘をつく能力――と事実を変える能力――行為する能力――は相互に関連しているのであって、両者は想像力という共通の源泉によってはじめて存在するのである。

  • 権力における暴力とは行使者本体よりも結局認知構造の未熟な衆愚の集合的無意識によって下支えられる。

  • アメリカに亡命したハンナ・アーレントが、ベトナム戦争の激化、公民権運動や学生運動の高まり、プラハの春などなどの激動の時代を踏まえて、70年前後に書いた政治的なエッセイを集めたもの。いつもはアマゾンで本を買うのだが、久しぶりに書店で本を眺めていて、面白そうだったので、読んでみた。

    いつもは難解な印象のアーレントだが、個人的にも興味をもっているこの時代の具体的な事件を背景に議論を進めて行くためか、わりと読みやすい。

    テーマも、政治的な嘘、市民的不服従、暴力など、個人的に関心の強い問題群である。また、核兵器によって大国間の戦争が不可能になった状態での小国や小さな集団の軍事的影響力の増大など、今日のテロリズムやならず者国家の問題に直結する問題意識だとか、未来への希望を持てない世代の話とか、まさに今日的な状況そのものの洞察がたくさん含まれていて、とても40年くらい前のエッセイとは思えないものになっている。

    とはいえ、そこはアーレント、やはり一筋縄ではいかない複雑さを内包している。

    それが一番如実にでてくるのが、本の一番最後にでてくるインタビュー「政治と革命についての考察」で、いかにも70年代くらいの典型的左翼インテリといったインタビュアーの質問をバサバサと切り捨てつつ、誠実に、そしてかなり分かりやすく自身の立場を解説していくところが圧巻だ。

    つまり、「黒か、白か」「賛成か、反対か」など、分かりやすいポジショニングを訪ねるインタビュアーに対して、「そんな質問、意味ないでしょ。世の中そんなに単純ではない」と単純なポジショニングこそ、ファシズムに通じるものだという感じで返答しつつ、ほとんど不可能であるものの唯一の可能性としての共和制への希望をもって、話は終わる。

    その辺、なんだかんだで、非決定論や暴力論を経由して、「来るべき民主主義」を志向するデリダとも通じるかな、なんて、にわかデリダ読者は思ったりする。

    というふうにインタビュアーをバカにした読みが可能なのは、誰にとっても今は、ポスト共産主義、ポスト冷戦、ポスト9. 11、あるいはポスト資本主義の時代になっていることが明らかな状況であるからであって、70年くらいの左翼インテリには、やっぱり「社会主義か、資本主義か」というフレームを通してしか、物事をみれなかったわけで、それはそれで、人ごとではなく、笑えない。

    これまで気になる存在でありつつ、なかなか入門できなかったアーレントだが、これを機会に少し他の著書にも手を伸ばしてみようかな。

  • アレントの「権力」理解は特殊。

  • アーレントの論考とインタビューを集めた著作。各論文の内容は、1960年代ごろのアメリカの政治問題についての論考になっている。しかし、そこで扱われるテーマは時代的制約を超えた普遍性を有している。権力と暴力の概念的区別や市民的不服従の問題など、各論文で提起されている思想的問題は今なお十分な解決を見ていないし、インタビューで表明されている、アーレント自身の国家の理想像―評議会システムによる連邦―は、現在まで多くの批判に晒されてきているが、『革命について』などと合わせて、その意義が再考されても良いように思われる。

  • [ 内容 ]
    ベトナム戦争、プラハの春、学生運動…1960年代後半から70年代初頭にかけて全世界的な広がりをみせた騒然たる動向を、著者は亡命の地・アメリカ合衆国でどのように考えていたか。
    「国防総省秘密報告書」を手がかりに嘘と現実(リアリティ)とのあり方を論じた「政治における嘘」、暴力と権力との相違をテーマにした「暴力について」、さらに「市民的不服従」など、本書は、情況への鋭い発言のかたちをとりながら、われわれとわれわれを取りまく世界への根本的な問いを投げかけている。
    「政治とは何か」をもっとも明快かつ具体的に論じた書ともいえよう。

    [ 目次 ]
    政治における嘘―国防総省秘密報告書についての省察
    市民的不服従
    暴力について
    政治と革命についての考察―一つの註釈

    [ POP ]


    [ おすすめ度 ]

    ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
    ☆☆☆☆☆☆☆ 文章
    ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
    ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
    共感度(空振り三振・一部・参った!)
    読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • この手の本って、著者と読者が問題意識を一にするか、あるいは、著者の問題意識を読者がよく理解していないと、読めないんだろうな。政治学の基礎とか分かっていないから、非常に難解。一時間に5ページぐらいしか進まないもん。でも頑張って読みます。

  • ※これは教科書です>自分用

  • アレントの思考がダイレクトに伝わる一冊じゃないかな( ゚ω゚)

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暴力について―共和国の危機 (みすずライブラリー)の作品紹介

ベトナム戦争、プラハの春、学生運動…1960年代後半から70年代初頭にかけて全世界的な広がりをみせた騒然たる動向を、著者は亡命の地・アメリカ合衆国でどのように考えていたか。「国防総省秘密報告書」を手がかりに嘘と現実(リアリティ)とのあり方を論じた「政治における嘘」、暴力と権力との相違をテーマにした「暴力について」、さらに「市民的不服従」など、本書は、情況への鋭い発言のかたちをとりながら、われわれとわれわれを取りまく世界への根本的な問いを投げかけている。「政治とは何か」をもっとも明快かつ具体的に論じた書ともいえよう。

暴力について―共和国の危機 (みすずライブラリー)はこんな本です

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