徴候・記憶・外傷

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著者 : 中井久夫
  • みすず書房 (2004年4月2日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (404ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622070740

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徴候・記憶・外傷の感想・レビュー・書評

  • 中井久夫の著作は初めて読んだ。感服。まず彼の日本語にあふれる情感の豊かさ。彼の文体こそが、彼の精神分析学観を浮かび上がらせていると思う。というのも、自身の精神状態を言語によって物語化できることに重きをおく欧米的精神分析に対し、著者は、言語化しえない記憶にこそ価値をおいているようだ。正確さはときに貧困と同義である。
    著者の操る日本語は、地面に落としてしまわない程度には強く、また、殻を割ってしまわないほどには弱く握られた、生卵のようだ。

  • ・迷路というものは入ったらなかなか出られない。確率的には稀だが、迷路に入っても障害にぶつからずすっと出られる場合がありうる。それが事故である。
    ・うつ病は一番得意と本人が思っている能力がまっさきにやられるからつらい。統合失調症は自分がかねがね持ちたくて持てないと思っていた能力が向こうからやってきて手に入りそうに思えるから誘惑的だ。チェルノブイリもメルトダウンの直前は400倍の出力が出たと言う。
    ・自分の手首を切るとか、中二階から飛び降りるとか、行きずりの人を殴るという事があるが、殴るという行為の瞬間は心身が一まとまりにまる。
    ・治療の方針
    ①治療だけを行う。データが揃わなくてもよいから、患者に有益でない質問などの侵襲を行わない。
    ②まず有害なことをしない。前進する展望のない時は現状維持に努めた。
    ③科学は極めて限定された力である。なので、科学や原則に拘らずに良いとされることは、有害性が予見されない限りやってみて、駄目ならすぐにやめる方針を取った。因果関係を考える事は、複雑な事象においてはしばしば過度の単純さあるいは端的な誤りに導かれるのを経験していた。やって成功なら良いし、駄目でも今より悪くならないような治療法を捜索した。見つからない時には事態が変化して、何かのための手がかりが見えてくることを期待してただ待った。
    ④自分が出来ないことを患者に要求しない事にした。私が先を見通せない時に、患者に先の計画を尋ねたりしないようにした。
    ⑤指導はしばしば患者の意向を分からなくさせるため、可能性を並べて患者になるべく委ねようとした。
    ⑥当分、効率を考えない事にした。精神科医というものは、非常に複雑な事象を前にしているのに観察密度は生物学に比べ、はるかに粗であるという印象があった。友人の歴史学者の「年表が書ければしめたものだ」という一句に啓発され、現場に百度足を運ぶという刑事のモラルを採用した。
    等々。

    ・いくら願わしくても木のレールの上に汽車を走らせる事はできない。

    ・自然な虫の知らせに耳を傾けないからこそとんでもない妄想に頼るのである。

    ・患者が失った40年は帰ってこない。けれども、現在を変えることができれば、その過去への見方を変える事ができる。

  • 精神科医・中井久夫さんの思考は柔軟だ。それはなるほど折衷的でもあり、脳科学はもちろん、フロイトなど精神分析も彼は捨てないし、過去のさまざまな心理学をも受け入れる。
    しかしただ折衷的なのではなく、なかなかに鋭い。中井さんの本を読むのは楽しい。おまけに中井さんは文学や哲学にも詳しくて、いやあ、日本にも、自分の手の届かないような深い教養を持った人がまだまだゴマンといるんだなあ、とため息が出た。

    さて、2004年刊行の本書は、記憶をひきだす「索引」という概念から始まって、(特に外傷的な)記憶、それから犯罪における心理学的考察などを繰り広げる。短いエッセイや論文などを集めた物だが、ちゃんとテーマが展開されていく。
    著者が外傷(トラウマ)を本格的に思考し始めたのは、阪神大震災におけるPTSDがきっかけらしいが、そうした災厄や戦争に限らず、この「外傷」というキーワードは、実は自分にもかなり当てはまるのではないかという気がしてきて興味深かった。

  • この本の恐るべき先見性がやっとわかってきた。

    これは臨床的な症候論、治療論であると同時に記憶論、時間論でもある。ここに示されたモデルをつかって精神医学全体を一望することすら可能である。

  • 1章から6章へと著者の思考の流れもわかるような構成。

  • 予感と徴候、余韻と索引-
     生きるということは、「予感」と「徴候」から「余韻」に流れ去り「索引」に収まる、ある流れに身を浸すことだ、と「世界における索引と徴候について」という小論のなかで言っている。

     「予感」と「徴候」は、ともにいまだ来たらぬ近-未来に関係している。それは一つの世界を開く鍵であるが、どのような世界であるかまだわかっていない。
    思春期における身体的変化は、少年少女たちにとって単なる「記号」ではない。それは未知の世界の兆しであり予告である。しかし、はっきりと何かを「徴候」しているわけでもない。思春期の少年少女たちは身体全体が「予感」化する。「予感」は「徴候」よりも少しばかり自分自身の側に属しているのだ。

     「余韻」と「索引」にも同様の関係がある。「索引」は一つの世界を開く鍵である。しかし、「余韻」は一つの世界であって、それをもたらしたものは、一度は経過したもの、すなわち過去に属するものである。が、しかし、主体にとってはもはや二義的なものでもある。

     「予感」と「余韻」は、ともに共通感覚であり、ともに身体に近く、雰囲気的なものである。これに対し、て「徴候」と「索引」はより対象的であり、吟味するべき分節性とディテールをもっている。

     「予感」と「徴候」とは、すぐれて差異性によって認知される。したがって些細な新奇さ、もっとも微かな変化が鋭敏な「徴候」であり、もっとも名状しがたい雰囲気的な変化が「予感」である。「予感」と「徴候」とに生きる時、人は、現在よりも少し前に生きているということである。
     これに反して、「索引」は過去の集成への入り口である。「余韻」は、過ぎ去ったものの総体が残す雰囲気的なものである。「余韻」と「索引」とに生きる時、人は、現在よりも少し後れて生きている。

     前者を「メタ世界A」、後者を「メタ世界B」と名付けたとして、AとBはまったく別個のものではない。「予感」が「余韻」に変容することは経験的事実だし、たとえは登山の前後を比較すればよいだろう。「索引」が歴史家にとっては「徴候」である、といったことも言い得る。
    予感と徴候、余韻と索引、これら四者のあいだには、さらに微妙なさまざまな移行があるだろう。

  • 1兆候

    2記憶
    幼児の2歳半から3歳から子供へ移行する。
    これは物質(matter)対象(object)への移行と言える。

    幼児型記憶は外傷性記憶で絶対性であり非文脈的である。
    幼児は絶対性で小児からは相対性になる。

    絶対音感は音を物理的なヘルツ数としてとらえる。
    相対音感は音階と音階の間隔で関係としてとらえる。
    動かない絶対音感は幼児の記憶構造を残しているモノで、
    自分の音階に外れる音に対して不快や違和感や恐怖感を覚える。

    絶対音感は非文脈的で前後に関係を持たない。
    相対音感は文脈依存的であって音と音同士の相対感覚で決まる。

    数学は思考における絶対性であり非文脈性でもある。
    言語は思考における相対性であり文脈依存性でもある。

    幼児の視覚的な記憶も非文脈性である。
    自然科学は言語と数式と図で文脈非依存性を追求する。
    人文学や法律は文章に拠りって文脈依存性を最小限に止めようとする。
    法律は数学手である事に憧れる。
    数学と音楽は幼少期に目覚める才能である。
    三歳以後の成人文法性は世界の整合化と因果関連化と対応している。
    (人文的で関係性で動く)

    質は言葉と物が一致しえない絶対感覚で本能的で一般化できなず社会性が持てない。
    赤の色は人によって様々で計り得ないもので文化的。

    視覚以上に触覚.味覚・臭覚・振動感覚・などの近接感覚は
    更に言語化が難しい「質」である。
    質感は個人的で、言語化は社会性に向かう。

    成人型記憶は年齢とともに文脈性を増す。
    更に文脈の言語化を文脈の本体よりも高い文脈の存続性が進行するのだろう。

    人生記(自分史)は年齢とともに年代記の縦並びから遠近法の横並びになり
    最後には一枚の絵になる。

    生きる小世は現在と過去との緊張関係にあり更に
    未来の先取りによって「現在は過去を担い、未来をはらむ」
    と言う構造を持っている。
    現在中心的同心円構造と歴史時間の矢構造の二重構造である。

    (現在の社会構造は今を放棄し過去にすがり、未来を取り込んで盗もうとしている)
    しかしその反面に虐げられて薄らいでは居るけれど、今を中心にして過去に学び
    未来から借り受けると言う構造を持っているように思う)
    外傷性の記憶は忘れ易いことが問題なのではなく、
    忘れられない事の方が問題となる。
    つまり縦並びの記憶のまま横並びの絵にならないことは、重たい苦しみとな。
    成長とともに歪んだ体験の記憶を修正して消去する。

    3外傷
    3歳以前の記憶は無変化で反復性で文脈を持たず言語化しにくい。
    トラウマも非文脈である。


    魔女狩りに付いての見解は経済的な不安定がもたらしたもので、
    西欧特有の者だと言う。
    面白い見解だけれどもそれほど単純だとも思えない。
    十字軍の事も考え合わせてみても、
    啓示的な問題は世界中にある訳で、少々疑問。
    やはり、一神教故の政治的歪みがもたらした問題だと私は思う。
    その他にも後半の現象面の話になると頷きかねる事も多々ある。

  • “ふたたび私はそのかおりのなかにいた。”アカシアの花のかおりを「索引」として「記憶」が「世界」が開かれていく。
    「世界は索引なのではないか?」そして「生きるということは、予感と徴候から余韻に流れ去り索引に収まる、ある流れに身を浸すこと」にあるのではではないだろうかか?こうした詩的直観に根差した思索を軸に、「記憶」に纏わる試論を展開し、心的外傷や統合失調症の原理的な考察や実践的な症例の現場を素描する。
    圧倒的な教養に裏打ちされた強靭な思考は、それを誇示するのでもなく、またそれに固着するでもなく、自由に軽やかに文学・哲学・生物学・数学・犯罪学等々へと、縦横にしなやかに枝振りを伸ばしてゆく。

  • 美しい本。美しいだけでなく、悲しみや静けさを抱えた本。

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徴候・記憶・外傷の作品紹介

人間の「記憶」が意味するもの。その深層に、臨床の現場から、さらには哲学、文学、心理学、認識学、犯罪学などさまざまな学問分野を横断しながら迫った精神科医・中井久夫、新世紀の代表作。

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