芸術人類学

著者 :
  • みすず書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (374ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622071891

作品紹介・あらすじ

人類に発生した「心」の起源に迫る野生のサイエンス。人文諸学の再構築を目的とした芸術と人類学の創造的な融合。前人未到の表現空間が今、ここに拓かれる。

感想・レビュー・書評

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  • 昔の時代からの考察が、たいへん面白く考えさせられました。本を拝読して、構造主義に興味を持つことができました。ありがとうございます。

  • 「人類がまだ、自分の心の奥に野生の野を抱えていて、今ではすでに失われてしまったように思われている、その野を開く鍵を再発見することがじつは今でも可能であることを、確実な仕方であきらかにしてみせたい」と、中沢は言う。何と気宇壮大な試みだろうか。

    人間以外の動物は妄想を知らない。ひとり人間だけが事物と相関関係を持たないイメージを思い描くことができる。それは、言いかえれば狂気につながる心のはたらきである。人間の脳は、旧人類から新人類へと飛躍的な変化を遂げた。何らかの爆発的な変化が起こり、それまでは個別に仕切られ、目的別に使用されていた脳に、それらを横断するはたらきが持ち込まれたのである。それを「流動する心」と呼ぼう。

    事物を離れて暴走する心の動きは、やがて芸術や宗教を生むことになる。しかし、現実と対応しない幻想界の発生は、人の心に妄想を発生させる。現実的に社会関係を営むためにはそれらを抑圧する必要が生じる。他者と自己とが同じものを見ていることを互いに分かり合うために人間は言葉を必要とした。言葉の持つ論理的な構造によって、われわれは個人的な妄想を秩序立て、「流動する心」を無意識下に押し込めることで日常生活を過たずに送れるようになった。

    言語の論理に基づいた「非対称性論理」はヨーロッパを中心に科学や経済を発展させることになるが、その一方で、それ以外の価値観や倫理観を認めないという弊害も生んだ。そんな中、自分たちの生きている社会の外に出て、「外からの視点」で見ることで人間を理解しようとしたのが人類学であった。言語の持つ論理的な構造に基礎を置くレヴィ=ストロースの構造人類学は画期的なシステムであったが、人間には言語の構造に従わない無意識の世界がある。この言語の論理を飛び越え、時間の壁も超え、多次元にはたらく「もう一つの」知性を「対称性論理」もしくは「対称性思考」と中沢は呼ぶ。

    中沢によれば、人間とは、外の環境世界に対応できる言語モジュールに従った論理で動く層と、人類の「野生」の思考が「対称性論理」で働く層という、二つのロジックを併用する「バイロジック」な生き物であるらしい。言うならば「芸術人類学」とは、人間を「外からの視線」で見ようとしながら、言語学的方法論に拠っていたために行き詰まってしまった構造人類学を、「流動する心」に基礎を置いた視点で超克しようという試みである。

    若い頃チベット仏教の修行をした中沢ならではの仏教と構造主義の意外に近い関係の発見。また西田幾多郎や田邊元に見出した西洋哲学とは異なる「ヤポニカ種の哲学」。あるいは、考古学的遺跡の渉猟を通して東京の古層が見えてくる『アースダイバー』。最近の「カイエ・ソバージュ」シリーズで試みられている神話論理的思考等、著者が今まで歩いてきた道が、「対称性の論理」をもとにした「芸術人類学」の創成に有機的に結びついている。

    全体は四部構成。大学で行われた講演をもとに「芸術人類学」について分かりやすく解説してみせる第一部。数式を使ったレヴィ=ストロースの『神話論理』の解説と、その論理を応用しながらヨーロッパの広場と教会の位置から公共性について分析を試みる第二部。民俗学や考古学的知見を駆使して、山伏の発生や、二種の道祖神の分布についての考察を進める第三部。壺に描かれた蛙と神話の関連性を探る第四部など。

    新造語である「芸術人類学」を冠する割りには、雑多な論考をまとめたという印象が強い。著者の今の気分を忖度すれば、それまで特に意識されずに経巡ってきた事どもが、一つの環を描いていることに気づき、あらためて自分の使命に目覚めた、というようなところではあるまいか。クロード・レヴィ=ストロースの「構造人類学」と、ジョルジュ・バタイユの「非知」の思想を手がかりにしつつ、それらがたどり着けなかった地平を望見する序章とでも位置づければいいだろうか。

  • 最初に心を動かされたのは27ページからでした
    数学者の岡潔さんは民俗学に没頭した岡本太郎や
    考古学の中谷治宇二郎らと共にパリに留学していた
    論理の積み重ねだけによる西洋文明における数学が
    全体観に乏しく情緒的な知性に欠けていると感じ
    この一体感は自分の思考なのか宇宙の思考なのか
    見分けがつかない状態にあると感じていたという
    日本に戻り和歌山の山にこもり数学の研究と
    論理的知性だけに偏らない文明の姿を描いていた言う

    実感できる論理的知性とできない情緒的知性の
    双方が対等に織り成してこその文明でなければならない
    世界は日本を含めて危険に満ちあふれていると

    次に心惹かれたのは85ページからの「公共とねじれ」
    中でも95のトーラスとメビウスの輪
    190のマトリックスの論理学
    345の職人の世界・農業民と非農業民=職人
    自由空間の男職人・依存の女村社会
    353のエンガチョによる思考の繰り返し
    中でも強く納得できるのが歴史学の細野善彦に付いて
    357の縁の共同体と数の組合・無縁公界楽
    具象的・土地・権力・法に縛られる農業コミュニティーと
    抽象的・旅・都市・自由・数の組合アソシエーション

  • とてもおもしろい。
    おもしろいのだけれど、どこかに違和を覚えてしまう。
    「詩の不在」を見てしまうのは、僕だけだろうか。

    「企み」と言えば多少離れるが、
    あるフレームの中で、処理を施して出来た思想のように感ぜられる。

    ただ間違いなく、おもしろい。

    中沢氏の論をとれば、人間の生長とは、
    「流動的な知性」を基軸に据えた、
    「論理性」の獲得ということに他ならない。
    つまり芸術活動に特筆されるそのような方向付けを、
    彼は日常生活の細部にまでいきわたらせる社会の実現を理念に据え、
    またその完成形態として、かつて「人類学」がフィールドとしてきた「未開」社会を想定しているとみてよい。

    これは個人の心性の自覚の体験、
    つまり流動するなにものかが自身の中に確かにあることを直感知として獲得し、
    またその定着に言語が必須であったことを想い出せば、
    それを社会や、世界、人類の規模にまで汎用させていく理念は非常に妥当なものであると解釈することが出来る。

    また個人の発達という意味でも、
    原初や野生への接近には、
    流動性と論理性の双方が必須であり、
    順序としては「流動性」が先立ち、
    後にそれを「言語化」することで新たな世界の地平へと着地するのであろう。
    そこに「詩」があることはもはや自明である。
    また一般にそのような「詩」が生まれいづる時期というのは、
    人間が社会生活を行っていく上では、
    平常であってはならないことも強く感じた。

    兎に角も、
    彼が示す「流動する知性」を基軸にした社会が、かつての日本の到るところに存在し、民俗学に描かれている事実、その生活の偉大さをひしひしと今ここに実感するばかりである。とりわけ、心を基軸にしたコミュニケーションの存在には強く心をひかれる。


    ●以下引用

    心の働きのおおもとの部分に、論理的矛盾を飲み込みながら全体的な作動をおこなう「対称性」と呼ばれる知性の働きをとらえることによって、宗教から経済、科学から芸術にいたるまでの広大な領域でおこっている心の活動を、一貫した視点から再編成し直してみる

    西欧型の近代社会は、直線的に進んでいく時間の観念に縛られてきました。この観念はもともとギリシャの合理主義に発して、キリスト教によって深く人々の心の中に浸透してきたものですので、もしそういう社会で対称性思考の表現としての神話を作り出そうとすると、とても歪んだことがおこることになります。

    もともと神話というものは、ものごとが太陽や月や季節の変化のように「環」を描いていく時間の観念の中を生きている人々の間で、生まれ発達してきたのです。それに対称性の思考そのものが、直線の思考よりも環の思考のほうにフィットしています。神話はどこまでも拡大したり、進歩して行こうとしている社会よりも、閉じられた環の中でものごとを循環させ、古いものや弱いものを大切にして、競争よりも協調を、戦争よりも平和を、他者への優越よりも他者を歓待する精神のほうを重んじてきました。

    人工の衛星から撮影された青い地球の映像は、人類の住む地球が閉じられた球体であり、そこにある資源も空気も水も限りがあることを、大衆的規模で人類の意識にはっきりと「認識」させることに成功したのです

    芸術には芸術家個人の幻想を超えた巨視的なヴィジョンが必要です。経済には贈与論的思考の復活がもとめられます。あらゆる宗教は、「宗教をこえた宗教」への飛躍を模索しなければなりません。そして宗教を超え出た場所で、人類が出会うことになるのは、かつて人間と動物は兄弟であったと語る、あの神話の思考のよみがえりです。そういう大きな理念の実現は、私たちの小さな日常的実践だけが可能にしていくものです。

    社会的なものの外へ超え出でていこうとする衝動が、生まれたばかりの芸術にはすでにそなわっていました。超越性への衝動。

    自然の中に生きた生き物たちは、長い進化の過程を通じて、しだいしだいに脳を発達させてきました。しかしどこまでも環境世界と自分の生命活動ができるだけ合致できているような、適応行動ができるようなかたちで脳の構造を進化させてきました。

    動物などの行動を見ているとわかりますが、私たちがおこないがちな不自然な行動だとか、妄想に突き動かされた行動をしません。

    流動的な「心」が縦横無尽な自由な運動をはじめるようになってしまった。そうなりますと、外の世界におこっている現実とヒトの心の内面世界とが対応関係をもたないでも、私たちはこの心の内面生活というものをもつことが出来るようになります。

    宗教と芸術の根源はひとつ、と言われることがありますが、その根源とは、超越性をそなえた「流動する心」そのものにほかなりません。

    捕われることのない自由な「心」の流動性を獲得し、その結果、非現実的なことを思いついたり、実行したりするわけです。「狂った生物」である人類だけが、宗教と芸術を生み出した、とさえ言えるかもしれません。

    社会的コミュニケーションを実現していくためには、「流動的な心」の働きが直接表にあらわれてくるのを抑えなければなりません。私たちはいつもそうやって、ふつうの人、まともな人として生活しようとしているんですね。

    社会が必要とするものから過剰になってしまい、自分を限界づけ制限づけているものを超えていってしまおうとする、自由な「流動する心」の働きが、誰の心の中にも活動しているからです。「呪われた部分」が人類の心の働きのいちばんの基本をつくっているのですが
    それでは社会はつくられません。

    ことばがもっている文の構造は、私たちが自分の心の内部に抱え込んだ爆発的な活動力に方向づけや秩序や構造をあたえて、私たちが妄想や個人的な幻想に陥らないようにして、日常生活がまちがった方向に踏み込んでいかないようにすることに成功しました

    社会性やことばの合理性を吹き飛ばしてしまうほど強烈な、裸の状態にある<流動的な心>そのものでした。彼らは現代人のように臆病ではなかったので、危険をおかしてでも、自分の本質に近づいて行こうとする純粋さをもっていたのでしょう。

    人類学というのは、自分が生きている社会の外に出てゆき、つまり自分を形成してきた掟や法や習慣の外へいったん出て見て、そこで外からの視点に立って、人間を理解しようとしてきた学問です。

    対称性の論理にしたがって働らいている「無意識」は、言語のモジュールとはちがって、ものごとのカテゴリーを分離するのではなく結びつけてしまおうとしますから、そこでは言語の合理性が一生懸命取り除こうとしている矛盾した思考などというのも、大手をふって通用しています。また日常的な意識をつくる働きをする言語が重きをなしている時間の秩序さえ、「無意識」には存在していませn。そこでは過去も現在も未来も、同じ「場所」に共存することができます。

    どうやら私たち現生人類の心は、まったく仕組みのちがう二つの思考のシステムの共存として働き続けているようなのです。ひとつは外の環境世界の構造に適応できるような論理の仕組みをもって作動する言語のモジュールで。それにしたがって生きるときには、合理的な行動ができるようになります。ところが現生人類の心にはそれとはまったくちがう、対称性の仕組みで働く層、あるいは領域があります。そこでは言語の論理が分離しておこうとするものをくっつけてしまい、ちがう意味の領域を隔てている壁を突破して、時間の秩序からさえも自由になって、多次元的にさかんに流動していく知性の流れがみられます。

    人類の心は、合理的な言語のモジュールにしたがって組織されて非対称性の論理で動く層と、現生人類の心を特徴づけている「流動的な心」の流れでできた対称性の論理で動いている層とがひとつに結合されている「複論理=バイロジック」としてつくられているのです。

    同時にそこには、現実との対応関係をもたないでも勝手に肥大していくことのできる幻想界というものがつくられて、妄想もできるし、狂気にも陥りやすい性質が、あらわれてくるようになります。

    バイロジックで動いている私たちの心の、いちばん自然な状態を「詩的」な表現はあらわしています。つまりそこでは人類の思考の「野生」が生き生きと働いているのです。

    私たちは合理的な思考によって固められた人間についての学問の「外に出る」ために、勇気をもって人間の徴である<流動的知性>の中に大胆に踏み込んでいく学問として、人類学を作り直していくことができるでしょう。

    私たちの心の内部には、まだ「野生」が残っています。どんな合理的に社会管理や経済システムが世界を覆い尽くす勢いを見せているとはいえ、私たちの現生人類への最初の飛躍を祈念するあの偉大な徴は消え去っていません。

    神話は無時間的でものごとをくっきり分離してしまわない「対称性の論理」と、物語の秩序にしたがって配列しながら語っていくことのできる論理的思考との結合体に他なりません。そのためにはふつうの論理には絶対にあらわれない、独特の「ねじれ」をもった神話特有の論理で語られるのです。

    対称性の論理というのは、一般に「右脳」に特有な働きであり、「非対称性な思考」は「左脳」がつかさどっていると言われていますから、人類学は近代世界で急速に失われた右脳を左脳の働きのアンバランスを正して、人類に「右脳」と「左脳」のバランスのとれた「バイロジック」を実現しようとした学問である、と
    考えることもできます。

    芸術は「バイロジック」の典型的な形態です。「バイロジック」の形態を通じて、芸術は表現に秩序を与える論理的な能力と、そこからあふれ出る流動的で多次元的な、自由な活動をおこなう「流動的な心」という二つの知性形態を結合し、新しい表現領域を開こうとしているからです。

    芸術と宗教の起源をめぐる思索をつうじてあらゆる思考の絶する非知の働きを現生人類の心の本質として見出したバタイユ

    自分が思考しているのか、世界が、いや宇宙が思考しているのか見分けがつかないような状態。そういう状態にある心の中で活発に活動しているのが情緒的な知性である

    私の心は論理を中心に出来上がっていない、その心から生み出される数学は論理的な知性とは違う、なんというか、情緒的な知性の部分から出てくるように思える

    岡潔「日本から労働者階級を無くすること、すなわち国民の一人一人が皆生きがいを感じて生きることのできる国にすること」

    情緒性の知性にもとづいて社会を形成してきた世界では、働くことは苦労ではあっても、それ以上によろこびであり、生きがいでありました。ところが、働くということに合理性の思考が貫徹していきますと、それは計量や計算のできる価値を作り出すための労働に姿を変えていくことになります。

    仏教では、無分別知は、原初的な心の在り方を示すものだと考えらえてきました

    論理に偏重に頼らない別の文明の形態

    人間の言語の最大特徴は、すべてが比喩の組み合わせとしてできていること

    ヤコブセンは、比喩の考えを利用して詩の構造分析をしてみせましたし、レヴィ・ストロースの神話研究も、神話を巨大な「比喩の森」とみなすことから出発しています。

    野生の思考は、比喩の能力を駆使して、世界の意味を読み取ろうとしています。

    ちがうと思われていた二つのものを交換してみても、ちっとも変化がおきない場合、二つの間には対称性がある、と言います。言い方を借りれば、比喩を生命としている新w奈では、思考の中では対称性が実現されているということになろうかと思います。

    神話的思考は、論理的に矛盾しあっている項と項との仲立ちをして、それらを媒介する能力をもった第三の項を登場させようとするところのに特徴がある

    修行の過程では、言語的な知性によって体験を統合したり分析したりする心の働きが後に引っこんで、かわってそこには非言語的な直感知の働きが表面にあらわれてkるようにあるが、その直感知によって世界を見通した時、修行の体験者の多くは、深い陶酔感を味わったことを報告している

    自閉症児は、ことばの習得を嫌がって、ひとりで籠って生活することを好む。このような子どもは、右脳の働きが、通常の子どもよりもはるかに発達している

    流動的知性とは、言語構造をあふれでていくダイナミックな運動性とともに働く知性

    私たちは、子ども時代にこのような中間的な心の世界を体験したことがあります。そこでは、身の回りに発見される植物や風景などのすべてが、色彩豊かな感情をともないながら、子どもであった私たちの心の内部とひとつながりであったことが記憶されているはずです。

    しかしどんな社会でも、多かれ少なかれ、子どもはこのような一体状態から切り離される必要があります。そうしないと、社会というものをつくれないからです。そのためには、子どもはまわりの世界を「対象」として分離するのに絶大な能力を発揮する「言語」を習得することが義務付けられるのです。

    子どもや詩人が語る個性的な言語ではなく、社会的な効用を備えた言語では、あいまいさの除去がいろいろな場面で実行されています。

    主体と対象の分離や、そうして分離された対象世界の内部をさらに明確な分離戦で分けて、それを言葉のレベルで表現するのです。

    まわりの世界との感情的・人格的なつながりは、いわば「あいまい性」を自分の中に組み込んである<マトリクス>な心の構造から生まれるものですから、こうして社会的あるいは父性的な言語によって、徹底的に分離された世界では、逆に世界を対象として捜査しようとする権力的な思考や心理が自然に発生してくるのです。

    わたしたちが「現実」の世界というものを、言語の働きによって構成していることは、減少額によってあきらかにされてきました。

    このような「ヴァーチャ」な領域が、心の中から消えうせていないおかげで、私たちが共感や同情の能力を失わずに、社会の中で生活を続けていられる。同時にその部分は「現実」が否定する要素によって動いている者ですから、しばしばそれいうまく同化できずに病的な症状に陥りやすい。

    そこでは、世界は全体性としてのつながりを失っていない。主体も観察者も、この全体性のつながりの外に出て、これを「客観的」に理解したり、観察したりすることはできない。「私」はこの全体性の中で思考し、共感によって、交通をおこなうものとして、非我(私はない)としてのなりたちをそなえることになる

    ヴァーチャルな時空で展開している内的な心の生活は、健康な状態ではしごく自然なかたちで、その外側の「現実世界」のおこなわれる時空に移行し、接続していくように出来ている。こうしているときにも私たちの心の内部では、その領域の活動が一時たりともやむことがない。外の現実と、自然なかたちでたがいに移行できているように働いている。

  •  中沢新一氏といえば、先日新政党「緑の日本」の設立を発表したが、はてさてどうなることやら・・・・・・。と前口上はこれくらいにして本題。

     「十字架と鯨」という試論で面白いことが書いてあったので記す。 

     ヨーロッパ文明の本質をひとことでいうなら、「拘束」にあるという。溢れ出る自然的な生命の活力とそれを抑えようとする力。そのバランスによって発展してきたのだという。拘束によるネゴシエーションと秩序の生成のサイクル。それは端的に十字架に象徴されている。狼男あるいは、ドラキュラが十字架を忌避するのは、十字架が拘束の象徴だからだ。狼男もドラキュラもメタモルフォースしようとする人間的野生のメタファーだ。それを前提にヨーロッパ文明を考察してみるとなるほどなと、その歴史的事実と符合し納得できる点があることに気づくだろう。

  • なんか難しすぎて、そのままにしちゃってる。

  • カイエ・ソバージュの5冊を乗り越えて、本作を手にとった。
    タイトルからしてみると、内容はちょっと期待はずれ。

    「芸術人類学」という新たな学問領域について、体系だった枠組みのようなものが網羅されてるかと思ったが、実際は数編の評論の寄せ集め。個々の評論自体は面白く読んだが、なぜこれらをまとめて『芸術人類学』という一冊の書物に編んだのか・・・その意図あるいは必要性がはっきりせず(わからず)、どことなく不完全燃焼に終わってしまった。

  • エッセイ集。あんまりまとまってなかったので面白くなかった

  • 美術カテゴリーにしてしまったけど、この場合、文学とか演劇も入ります。芸術社会学序説のように非言語・言語で文化をわけているのではなく、<対象人類学>というヒトの心の動きの探求するための新しい方法の講義。「実践的サイエンス」らしい。
    素地としてレヴィ=ストロースやジョルジュ・バタイユを読まないといけないのかなぁ
    と最近思う次第です。まだ途中。

  • 「無意識の奥に潜在している感覚と思考の野生を目覚めさせ、立ち上がらせ、それに表現をあたえることのできる知性のかたちを、ぼくは「芸術」と呼ぼうと思う。芸術はファインアートの領域を超えて、人間の生き方の全領域にみいだしていくことができるだろう。そう考えると、芸術の存在価値は大きい。」という考え方にはとても共感しました。が、この本は講演などを紡ぎあわせたせいか、いまひとつピンと来ませんでした。ラスコー洞窟の壁画のあたりは面白かったんですけれど、、、。

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著者プロフィール

1950年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。京都大学特任教授、秋田公立美術大学客員教授。人類学者。著書に『増補改訂 アースダイバー』(桑原武夫賞)、『カイエ・ソバージュ』(小林秀雄賞)、『チベットのモーツァルト』(サントリー学芸賞)、『森のバロック』(読売文学賞)、『哲学の東北』(斎藤緑雨賞)など多数。

「2023年 『岡潔の教育論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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