雷神帖―エッセー集成2 (エッセー集成 2)

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著者 : 池澤夏樹
  • みすず書房 (2008年11月11日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (247ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622073727

雷神帖―エッセー集成2 (エッセー集成 2)の感想・レビュー・書評

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  • 一口に作家といってもいろいろで、文章を書くことや読むことに意識的な人とそうでない人がいるようだ。たった一人で世界文学全集を編集してしまう池澤夏樹などは、文句なく前者のほうに入るだろう。『雷神帖』は、先に出ている『風神帖』と対になったエッセイ集。『風神帖』は、空海の『風信帖』のもじりだろう。風神と来れば雷神だろうという遊び心にも、この作家の言葉や文化に寄せる思いが読みとれる。

    そういう作家らしく、エッセイ集といっても本にまつわる話が多い。コンピュータやインターネットの普及が本という媒体にどんな影響をもたらすかという話題は、ひと頃よく持ち出されたものだが、現在では本はやはり本という形で存続していくだろうという一応の了解を得ているようだ。「一人の人間が相当の時間と知的努力を投入してまとめた、長大で奥行きのある重層的なテクストは、やはりきちんと製本してないと困る」というのが作家の意見。長篇小説のことを考えれば納得できるだろう。

    池澤夏樹は福永武彦の子である。福永武彦といえば、ボードレールの翻訳者であり、芸術に造詣の深い詩人・小説家としてある世代には懐かしい名前だ。池澤は若い頃、父が限定版の凝った装幀の本を出すことに「プロレタリアート」として反発を感じていたという。レクラム文庫のような本こそが本ではないかという息子の文句に父は苦笑するばかりだったというが、パリで暮らすうちに近くにルリユールの工房を見つけた池澤は、ついには自分も特装本を拵えることになる。互いによく似た資質を持った父と子のそれ故に避けがたく起きる反発から和解へと至るその顛末を記した一文がいい。

    書評家でもある作家は、書評も一種のエッセイだという。日本の書評は四百字詰原稿用紙にして五枚程度のものが多いから、長めのものを書くと書評にはならない。好きな作家や作品にまつわる文章がエッセイ集に多くなるのはそのせいか。名作といわれる『ユリシーズ』が実は「ものすごく読みにくい小説」であることを論じる「人間に関することすべて」や、社会主義への哀惜の念に満ちた「『フィンランド駅へ』を読んだころ」などでは、短い書評では味わうことのできない作家論、作品論をたっぷり愉しむことができる。

    「昔、ぼくはなぜ作家が小説を書けるのか不思議でならなかった。頭の中にある不定形のもやもやとした曖昧な、そしてそのままでこそ魅力のあるものを紙の上に定着させてしまう不安に作家はどう耐えるのか(略)それがどうしても分からなかった。/曲がりなりにも書けるようになったのは、その時々世に問う作品はすべて仮のものであり、一つ一つで言い足りなかったり、言いまちがえたり筆に乗りきれなくて捨てたりしたものへの無限の未練をそのまま次の先への力にするということだった。書きつづけることが何よりも大事なのだ。」(「フォークナーの時間と語り」)

    何度でも同じ逸話を繰り返して書くフォークナーを論じたこの文章の中で、作家は「作家」についての定義をおこなっている。曰く「小説を書いた者が作家なのではなく、書いている者が作家なのである」と。なるほどと、あらためて思い知らされた。作家にとって書いている間は、語り部が物を語っている行為に相当する。物語を書くということは、文字通り物を語ること、作家にとっては書くという行為の中にしかないのである。

    他に、他言語を通して文学活動ができるこの作家ならではの海外を拠点にした活動から見えてきた日本や世界についての刺激的な論考を含む、読み応えのあるエッセイ集である。

  • 池澤夏樹さんのエッセイ集、「雷神帖」を読み終えました。
    このエッセイは、もう1冊出ているエッセイ集「風神帖」と対になる作品です。

  • 雷神帖は文化や政治に焦点をあてたエッセイ集。
    優れた随筆というのはそれを読むことで自分自身の感性も磨かれます。
    物事は善と悪、単純に二つに分かれているものではなく複雑に入り組んでいるものです。
    事実がそこにあるのではなく、事実を個人がどう捉えるかという主観の違いでしかないのです。

  • 先の『風神帖』の姉妹編。
    本にまつわるエッセーをまとめる。それぞれ楽しんで読んだ。
    なかでも特に面白かったのは,次の3篇。

    「フォークナーの時間と語り」
     非フォークナー化しつつあるこの時代には、無知と稚拙を承知の上で,人に頼らず自分でフォークナーを考えて見たい,としてフォークナーを論じたもの。
     個人の視点からの語りと遡行する時間というのが、フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』の方法だ。この二つの方法により、フォークナーは人間にとっての過去,人間にとっての世界をわれわれの感覚どおりに描ききった。それ故,これは何度読んでも,何度論じても足りない奥行きのある作品であるーと著者は云う。
     そしてフォークナーの影響はガブリエル・ガルシア=マルケスにも及んでいるというくだりは、南北アメリカという大陸に立ち上がっているふたつの巨峰を思わせた。

    「『フィンランド駅へ』を読んだころ」
     エドマンド・ウイルソンのこの著作は,社会主義思想史である。レーニンがスイスから戻りフィンランド駅に降り立つまで、つまり社会主義思想がロシアという國で政権を握るまでの歴史を書いた本だ。この本に惚れ込み訳そうとまで思った著者は,本来なら社会主義は素晴らしい発展を見せる筈だったと思いながら、当時の日本の学生セクトに距離感を持ち,更にソ連崩壊で失望する。
     社会主義の理想を支えられるほど人間は倫理的ではなかった。人は自分の利のために働くのであって,社会のためという高邁な理想のためではない。社会主義は官僚主義に堕落するのだーと著者は慨嘆する。
     しかしごく初期を除いて,もともとソ連は社会主義国家ではなかった、と言われている。このような歴史的な評価について,99年夏にこのエッセイを書いていた筆者はまだ知らなかったのだろう。

    「人間に関することすべて」
     これは集英社文庫「ユリシーズ」の解説のひとつ。
    ジョイスが読者に突きつけたのは、<読むとは何か>という問いだった。読むという知的行為はどこまでも拡張する,とジョイスは言いたかった。そして、いくらいっても読み切れない実作を提出した。だから、今もなお世界中が「ユリシーズ」を読みふけっている。
     ジョイスがいたから、フォークナーは「アブサロム、アブサロム!」を書け,ガルシア=マルケスは「百年の孤独」を書けた、と著者は云う。

     著者の語り口が一冊の本などを通じて,さまざまな世界を開いて行く素敵なエッセイ集。           

  •  先に読んだ「風神帖」よりも読みやすかった。

     この人の描いたものを読むといつも、賢くなるような気がする。

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