なぜ科学を語ってすれ違うのか――ソーカル事件を超えて

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制作 : 青木 薫 
  • みすず書房 (2010年11月20日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622075585

なぜ科学を語ってすれ違うのか――ソーカル事件を超えての感想・レビュー・書評

  • 2014年の5月は、某科学者がマスコミに叩かれた直後ということもあり、科学とは一体何なのかということを考えるのには丁度良いとも言える。自分自身この本を読んで一種のパラダイムシフトが生じたし、政治と教育が結びつくことで衆愚が生じるということについて改めて考えさせられた。
    私はエンジニアであるが、科学とくに「法則」「定理」などについては無条件で信じて疑うことをしていなかった。本書で言うとのころの「科学」は非民主主義的であるというところにまんまと陥っていたとも言える。つまり、私が信じていた「科学」とはその科学の持つ価値観において不合理な部分を無視することで成り立っていたということだ。
    まさか、政治と科学を同じ土俵の上で論じれるとは思ってもいなかったので本書は「目からウロコ」であった。しかし、これは自分にとっても新しい発見であった。つまるところ、私は「政治」というものについて嫌悪の感情を抱いていた。なぜなら科学のような客観性がなく、主張するものの価値観においての意見が提示されるという不合理さを感じるからである。しかし、この本では、科学ですらも、その主張を行う科学者およびそれが所属するグループの思想により生じる「フィルター」により歪められているとということを述べている。
    何かにまい進するためには一旦「思考停止」してことに当たるということは必要である。しかし、「思考停止」しっぱなしでは停滞が訪れる。つまり成長とは、世界に対する認識を都度捉えなおすこと、視座の変化が必要になるということである。例えば「最近イノベーションを起こせていない」ことを問題視する組織があるとする。それは視座の変化を拒否していることに他ならない。まずは、そこを変えることが必要だ。
    ちょっと前の自分だったら「科学は政治と同等ぐらいにしか正しいというものではない」という概念を受け入れることはできなかった。しかし、今はとても納得できる。仏教でいうところの「無常」である。すべては変化しているということへの理解である。
    とある事件もマスコミの報道は一方的な論調によるものになっている。確かに「手順」に関する落ち度は自分でも酷いと思う。しかし、本当にそれだけなのだろうか。他にも問題はあるのではないだろうか。あの研究者の実験は今までの研究では切り開けなかった新しい可能性をもった別パラダイムのものなのではないだろうか。一方的な考えの押し付けはヒトラーのそれと同じだ。

  • いっぱい人の名前が出てきてよくわかんない本だった。
    結局、それで誰が損得するのかというのが判断基準になるという自分の考え方は間違ってなかったと思う。

  • 内容は深いのですが、読むのがしんどかったですね~

    マイケル・サンデルの議論よりも数段深いでしょう!

    書評に、
    「じつに良く書けている。できるだけ幅広い層に読んでほしい」
    とあるのは、その通りだと思いますが、
    "控えめにいっても、それは無茶と言うもの"でしょうね!


    個々の話題は興味深いのですが、ストーリー展開・主張は難しいですねー。
    「ブラウンの語り口は平易だが、
     盛り込まれている内容は濃くて難しい。
     (現代の哲学・思想と量子力学とではどちらが難しいかと
      問われれば、わたしは本気で考え込んでしまう)」
    と訳者あとがきにある通りです。

  • 1.かの有名なスコープス裁判。その舞台における―キリスト教原理主義者以外の全人類にとっては―悪役の方が、じつはアメリカ左派で、ようは、ダーウィニズムの「力は正義なり」の部分に立ち向かったという話を知り驚愕。
    「リベラル」という思考に囚われすぎてしまうのは、結局「リベラル原理主義」という罠に陥ってしまう可能性が重々にあるっつうのを示唆してくれる良い事例でした。マジで目からウロコ。

    2.ソーカル事件はじめ、科学の世界に充満するジャーゴン問題。じ・つ・は・この本にもジャーゴンは満載で、これがホント強烈な罠だなあと思いました。一見、世間一般に出回ってる言葉なんだけど、その意味するところが、どうも我々が理解している言葉ではないような気がする。それを目にいれて「理解した気になってしまう危険性」というのを図らずも体現してるような気がします。

  • 科学哲学の本である。日経サイエンスの書評から拾った。
    副題の「ソーカル事件」とは、物理学者アラン・ソーカルが、ポストモダン風にパロディ論文を人文系評論雑誌『ソーシャル・テクスト』誌に投稿し、その後、これがでたらめであったことを自ら暴露したもの。でっち上げを見抜くことが出来ず、恥をさらした形の掲載誌は、その後、イグノーベル賞を受賞している。欧米ではかなり物議を醸したようだ。
    ソーカルの狙いを大雑把にまとめれば、ポストモダニストを揶揄することではなく、衒学的に科学について論じて人々を惑わせずに、もっと「真面目」に「実のある」論議をしようということだったようだ。
    本書はそれを受けて、「科学を論じること」について一般向けに述べている。
    本書で「サイエンス・ウォーズ」と呼ぶ科学についての論争は、古くからのものであり、本書でもその歴史について簡単に触れられている。「はじめに」に提示される「誰が科学を支配するのか?("Who roles in Science?")」は、社会はどのように科学と関わっていくべきか、科学はどのように社会の要請に応えていくべきかにつながる論議である。

    以下、感想(雑感なので、あまり人様の参考にはならないと思います。本書に興味のある方は、お手に取ってみてください)。
    一般向け、というだけあって、文章自体は比較的平易なのだと思う。が、大変読みやすいとはいえないし、相当に骨がある。
    乱暴なまとめ方をすると、様々な人が自分の風呂敷で科学を包み込もうとしている=自分の文脈で科学を語ろうとしているように思える。ある種の哲学は科学を哲学しようとするけれど、科学は哲学を科学しようなんてことをあまり思わないんじゃないかなぁ・・・。
    社会と科学の関わりは大切だが、その前段としてここまでの議論が(一般向けに!)必要だとするならば、ヘタをするとこれだけで一生終わってしまうんじゃないか(私が頭悪いからだろうか?)。
    大衆向けのもっと回りくどくない直截な道があるのではないかと思うのだが。

    *科学論の本なんて学生時代以来かも・・・。よく考えるとその頃も、自分で読んだというよりは、科学論の本を読んだ人の話を聞いていた、という程度だったかも・・・。いや、要するに向いてない、ということなのかもしれません。

    *この感想がそもそもちょっとポストモダン風・・・?

    *とりあえず、こういう場所を訪れてみましたという道しるべに感想を残してみるけれど、またこの場所に戻ってくる可能性はあまり高くないような。

    *前半に多く出てくる日本語版のみのイラストは、取っつきやすくするために挿入されているもののようだけれど、役に立っているのかちょっと微妙な感じがする。

  • 科学的な論争を書いたのかと思いきや、単なる言いがかりでした。たぶんどうでもいいことが羅列されているだけ、と思い、途中で読むのをやめました。

  • 著者のスタンスが明確でなく、何を言いたいのかが最後の訳者あとがきを読んでやっとおぼろげながらわかった。
    裁判資料というか、色々な言い分ばかりが羅列していて、では一体どうなのか、というところに踏み込んでいない。
    哲学用語をありがたがる人には高評価なのかもしれないが。

  • P134から再開する。

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