サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」

制作 : マイク・モラスキー(解説) 
  • みすず書房
3.31
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本棚登録 : 710
感想 : 35
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  • Amazon.co.jp ・本 (528ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622077800

作品紹介・あらすじ

今日のコミュニティ論におけるキーワード「サードプレイス(第三の場)」。第一の場=家、第二の場=職場・学校の中間的位置にあり、そこでは役割を持たない匿名の人としてもふるまえて、くつろげる場所のこと。具体的には、町の飲食店だ。この概念の社会学的意義を論述し、広く一般の人々の賛同を集めた著書の待望の邦訳。解説は、マイク・モラスキー氏。

感想・レビュー・書評

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  • 「サードプレイス」という言葉自体はよく聞きますが、自分の職場と家庭から離れて過ごすことができるという位置付けで捉えていました。

    この本における、「サードプレイス」とは、単なる場所のことではなく、そこに集まった人たちが、互いに会話をしたり、意見を言い合ったりするコミュニケーションの場であって、すなわち全てのカフェや居酒屋がサードプレイスではないということでした。

    こうした「サードプレイス」はこの本が書かれている当時でも減っていると嘆かれておりましたが、コロナ禍においては、もはや壊滅状態なのかもしれません。

    もちろん、場としてのサードプレイスはZoomやTeamsなどのオンラインにあるのかもしれませんが、そこは一定の閉鎖性があり、必ずしもふらっと立ち寄ることができるものではないのが現実です。

    ついでに何となくではなく、話すことそれ自体が目的となってしまうオンラインの場では、もはや「サードプレイス」的な、分野も異なる知らない人同士が偶然集まるということは、不可能ではないにしても以前よりも難しくなってきているのかもしれません。

    よいコミュニティ、悪いコミュニティという基準はありませんが、今いる場から別の場へ移動する手段、それも自分の好きなことばかり集まったフィルターバブルではなく、本当の意味での多様性を受け入れる場所。そうした場所が減りつつある今が、果たして正しいのかどうか。そうしたことを考えるきっかけになるいい本だと思います。

  • レイ・オルデンバーグ『サードプレイス』読了。
    家庭、職場に次ぐ第3の居場所としての居酒屋などの「たまり場」におけるインフォーマルな交流の重要性を説く。
    初版が1989年ということを差し引いたとしても、多分に懐古主義が過ぎるのと古臭いジェンダー観が鼻につくけれど、30年前に著者が案じた郊外の「浄化された」住宅地で交流を絶たれた米国社会の行く末が、今日の大統領選における混乱と分断であるというのなら、その懸念と主張の妥当性が立証されたと言えるのでは。
    現代日本社会もショッピングモールやチェーン店に大いに依存し、インフォーマルな社交の場を排除しているという点で決して他人事ではないが…

  • この本でいう自宅、職場、に次ぐ第三の場所としての居酒屋や図書館、カフェなどに行くことができない日々が続いています。コロナにより在宅勤務が増え、セカンドプレイスがなくなるとサードプレイスが繰り上がるのだろうか?なんて下らないことを考えていました。コロナ禍のいまだからこそ、相対的に重要性が増しているサードプレイスの良さについて考えるいい機会なのではないでしょうか。

  • 自宅でも職場でもなく、気持ちよく過ごせる"第三の場所"。アイルランドやイギリスならパブ、フランスのカフェ、ブラジルは床屋さん…。日本ならどこになるのか。赤提灯のお店だという説があったけれど、私にはちょっと分からない感覚でした。この本では人を受け入れて気楽に語り合える地域コミュニティーという意味が強いよう。


    本来の意味とは違うのだろうけど、私は「適当に放っておいてもらえる場所」が好きです。喫茶店がそうかな♪



    ☆インスタから転記
    https://www.instagram.com/p/CK8K9g2M6CR/

  • 文体が難しすぎたのでイントロと解説だけ…

    アメリカは郊外の国になった。
    人々は都市部と田舎の両方から移住し、
    快適で十分に蓄えのある家を持つこと、
    不愉快な交流や市民ときての義務からの解放を
    目指し、成功した。

    その結果、歩くこと、話すことが排除され
    歩いて行くところ、人の集まる場がない。

    サードプレイス(とびきり居心地の良い場所、インフォーマルな公共の集いの場、あらゆる人を受け入れて地元密着である場所)が欠如している。
    以前は、郵便局、ドラッグストアなどに人が集まり、お互いに挨拶し、いざというときに助け合えるコミュニティがあった。

    この状況は日本でも一緒だよね。
    解説では、日本のサードプレイスとは?という話。
    喫茶店、居酒屋、銭湯などが挙げられていた。

    アフロ記者さんの本でも書かれていたけれど、
    近所にふらっと寄れるカフェや銭湯があり
    常連さんやお店の方と
    ゆるやかな交流が持てることは宝だよな。

  • 『インフォーマルな公共生活がないために、国民が仕事と家庭生活に寄せる期待は、職場や自宅で対応できる限度を超えて増大した。家庭内と仕事の人間関係によって、足りないものをすべて補充し、コミュニティをもたない人びとの抑制された生活様式に欠落しているものの大半を供給せざるをえない。』

    家庭でも職場でもないサードプレイスが、個人も地域も社会も助けるというのは私もぼんやりと思って来たことなのだけど、その必要性をとことん語っている本。
    特徴的なのは、基本的にはサードプレイスはいわゆる飲み屋を想定していること。
    仕事の帰りにちょっと立ち寄るといつもの顔ぶれがいて、一息ついてまた家に帰る、というのが著者の「サードプレイス」らしい。
    論は面白く、頷けるところもたくさん。
    ただ、引っかかるところは幾つかあったのだけれど、解説が見事にそれらを回収してくれた。
    色々と考える材料をくれる本だった。

  • 本書の著者はアメリカの都市社会学者で、タイトルである「サードプレイス」の提唱者でもある。サードプレイスとは文字どおり、家庭(第一の場所)、職場(第二の場所)につづく「第三の場所」のことだ。家庭や職場ではない自分の居場所とでも言えるだろうか。サードプレイスはインフォーマルな公共生活の場の中核であり、人びとをストレスから解放してくれる。サードプレイスのおかげで、人びとはくつろいだ充実の日常生活を送ることができるのである(51頁)。ところが現代の都市環境が悪化し、公共のくつろぎの機会が急激に失われていると著者は懸念している。本書の目的のひとつは、「サードプレイスが国家と個人生活の双方に役立つことをきちんと理解すること」(63頁)である。

    本書は三部構成になっている。第一部はサードプレイスの「本質」について説明している。著者の言う「サードプレイス」とは「家庭と仕事の領域を超えた個々人の、定期的で自発的でインフォーマルな、お楽しみの集いのために場を提供する、さまざまな公共の場の総称」(59頁)のことである。このような公共の場は時代、国、文化を超えて存在しているけれど、それらの共通点とは何なのだろう?

    サードプレイスには「家庭と仕事から逃れられる安らぎの場」(66頁)であるということ以外にも共通点がある。サードプレイスは家の近所にあって、いつでも自分の好きな時に行くことができる。そこにはかならず常連がいて、「活発で、機知に富み、華やかで、魅力的」(74頁)な会話が行われている。サードプレイスは「人を平等にする」(69頁)ので、職業や立場を超えて色んな人が集まる。そのため、交友関係は形式張らず(インフォーマル)、会話にはつねに目新しさがある。サードプレイスでの会話は有益な気晴らしになるし、それによって「心の健康と前向きな人生観」(108頁)が得られる。さまざまな人が常連なので人付き合いの幅も広がる。つまり、ひと言で言えば、サードプレイスは人びとにくつろぎを提供してくれるのだ。家庭、職場、そしてコミュニティを謳歌できるサードプレイスという三脚台によって、くつろいだ充実の日常生活を送ることができるのである(51頁)。

    第二部は欧米を中心としたサードプレイスの具体例を挙げる。ドイツのビール園、イギリスのパブ、フランスのカフェ、そして古典的なコーヒーハウスなど。こう書くと飲食ができる場所だけがサードプレイスになれるのか?と思われるかもしれないが、たとえば第6章では「リヴァー・パークのメインストリート」をサードプレイスとして論じている。つまり、お喋りや人付き合いが町の居酒屋などに限られず、メインストリートのいたるところで楽しい会話や社交が絶えず行われていたということである。

    第三部は、サードプレイスを失わせる要因が述べられている。まず、第11章では「消費主義」と「個人的な関係」をキーワードとして、サードプレイスが枯れていってしまう都市環境の様子を描いている。著者によれば、現代の新しい都市環境を代表するのがチェーンの飲食店やショッピングセンターだ。そこでは、かつての公共の場とは違って「ぶらぶら歩いたり、のんびりくつろいだり、長居したり」できない(326頁)。物も買わずにのんびりされたら店の利益が損なわれてしまうからだ。つまり、ショッピングセンターでは人は没個性的な顧客や消費者として扱われるのである。快適な公共生活が得られなければ、人びとは「主寝室、グルメ好みの凝った設備の台所」などを備えた快適な家にこもってテレビを見て過ごすことを好むだろう。このような「より限定された個人的な関係」(340頁)を重視する生活は公共環境を悪化させることになる。

    続く2つの章が論じるのはそれぞれ女性と子どものサードプレイスだ。

    サードプレイスでの交流とは基本的に同性の間でなされる。同性と言っても大半は「男同士」であり、そもそも女性のサードプレイスというものは少ない。ひとつの理由は、家庭を完全に忘れてくつろぐことが女性にはないからだという(370頁)。家庭を持つ女性は女性同士の集まりに子供を連れて行くのである。著者はまた、夫婦関係の変化が(男性の)サードプレイスを失わせるとも言う。公共生活の少ない現代では、夫の人生において妻の存在感は大きい(389頁)。結果として、ほかの大人(男)との関係はますます弱くなる。著者は、この夫婦の「一体感」が夫婦関係を「不安な状態」に陥らせると論じる(391頁)。お互いを過剰に束縛する生活はストレスであり、行き着く先は離婚、という結果にもなりかねない。そのうえで著者は、男女別のサードプレイスが円満な夫婦関係に大きく貢献すると論じる(393頁)。サードプレイスが生活の重圧、ストレスを減らしてくれるおかげで人生が充実し、その結果として結婚生活を楽しめるのである(394頁)。

    第13章は、サードプレイスそのものではなくて、サードプレイスを根付かせるようなコミュニティについて子どもや若者をからめて論じている。サードプレイスがなくなって多くの人びとは職場(第二の場所)の仲間とコミュニティ(「ネットワーク」)を作るようになった。しかし、そのようなネットワークには子どもや10代の若者の居場所はなく、元々のコミュニティの代わりにはならない(418頁)。

    本書が書かれたのは今から30年ほど前であり、しかも舞台はアメリカである。そのため内容を実感しにくい部分があるのは否めないのだが、全体としては臨場感あふれる記述でイメージを持ちやすい。ユーモアもある。ただ、現在の日本に住む私にはいくつかの疑問がわいてくる。以下に二つだけ挙げておこう。

    本書が物語の中心に据えているのは仕事を持っている既婚者の男性である(本書では男性について、男性の視点で議論されている内容が圧倒的に多い)。では、「仕事を持つ既婚男性」ではない人たちにとってのサードプレイスとはどのようなものなのだろう?本書では第三部で女性と子ども(10代の若者)のサードプレイスについてはそれぞれ1章が割かれている。しかし、たとえば大学を卒業して会社に入り、家(「家庭」ではない)と職場との往復が生活の中心になりつつも、アフターファイブや休日に(職場の同僚とは違う)仲の良い友達やサークルの仲間と過ごす。そんな若い男女は、特定の場所からくつろぎを感じるのではなくて、まさにその「人間関係」の中でくつろぎを感じているように思える。この場合、彼らにとってサードプレイスとは何なのだろう?あるいはサードプレイスは不要なのだろうか?

    第13章で著者は「場所という観点から定義されるのではなく、一個人のつながりの蓄積によって定義される」(418頁)コミュニティ(「ネットワーク」あるいは「個人コミュニティ」)について述べている。近所の隣人ではなく、遠くに住んでいる職場の仲間に自動車に乗って会いに行くのである。著者が本書を書いた1980年代には今のようにインターネットが普及してはいなかったが、今の時代に生きる身としては当然、フェイスブックのようなSNSの位置づけが気になる。たとえばフェイスブックはオンラインの「場所」であるとは言えないだろうか?そこでのやりとりが家庭や職場とは違ったくつろぎを提供してくれる可能性は十分にあるように思える。

    本書の巻末には日本文化の研究者であるマイク・モラスキーによる解説が付いている。モラスキーは本書の内容に共感し、称賛しつつもいくつか問題点を挙げている。そのうちの一つが、本書で取り上げられている事例が欧米のみに(ほぼ)限られている点である。モラスキーは赤提灯や大衆酒場といった庶民的な居酒屋を日本の代表的なサードプレイスであると考えているようだ。実際、『日本の居酒屋文化』(光文社新書)ではそのように論じている。こちらも合わせて読んでみると良いだろう。

  • 会社と家の往復だけの生活から何とか脱したいという焦りの中、書評で興味を持った本。職場・家庭以外のコミュニティ、特に近所の飲食店での人間関係や西洋のカフェ・バール等の歴史について書かれている。

    最近は安いだけの均一的なチェーン店より、個人営業の家庭的な店(できれば近所でおいしくて、そんなに高くない)で顔なじみなところを開拓しようとしてるけど、なかなか見つからない。というか一人では入りにくい。チェーンの牛丼屋は無言で入れるのに・・・名無しさん&顔なしさんのコミュニティ、1回ぽっきりの場だから?
    店員もチェーン店は異常に元気がよすぎるか、マニュアルで機械みたいな表情&接客。バーテンダー、ホストが客をまとめるなんてほど遠い理想に思える。


    <メモ>
    アメリカのショッピングモールの描写が日本と似ていてなんか笑えた。フードコートをたむろするティーンエイジャー、プチ高級ランチを楽しむ中流階級の奥様たち。今はほかに何もすることがないから、ただぶらぶらしている人。企業国家では友好ではなく商売が最重視される。顔のない人間たちの浮遊する混合体。

    サードプレイスの特徴
    ・常連が多い
    ・大半が一日に一度、ほとんどが一週間に2度以上立ち寄る
    ・店内を自分の店のごとく動き回る
    ・いつまでもいる必要はない
    ・くだけた大声での応酬がある
    ・ゆっくり人間関係を築いていく

    ホイジンガ『ホモ・ルーデンス 人類文化と遊戯』1963遊びは区別された場所で起こる

    また、居酒屋を3つのタイプに分けている。
    ①致命的な居酒屋:通りすがりの群衆を引き寄せやすい立地にある。ショッピングモールや中心街、商業地沿い。客はエレベーターに乗り合わせた他人同士のように、互いにわれ関せずを決め込んでいる。孤独や退屈から逃れようとして入ったのに、客たちは情けない状態を互いに再認識させあうのがせいぜいなのである。他人と一緒にいても独りぼっち。
    ②BYOF(Bring Your Own Friend):自分で友達を連れてきてね。サードプレイスと似ているが、まとまりがあるようでない。内輪だけの楽しいおしゃべり。自分たちの集団によそ者が入り込むのを期待も歓迎もしないし別の集団へ渡り歩く者もいない。誰かが騒いだり馬鹿笑いしたら非難がましい視線を向けられる。
    ③サードプレイス:客同士にある程度の結束が見られ、それはただ同じ時に同じ部屋を共有しているだけの状態をはるかに超えている。一体感。新米者は急いで席をとる必要がない。他人の大声も気にしない。

    昨今増えてる婚活バーや相席居酒屋。1980年代にすでに原型はアメリカにあったんだね。「アメリカの女性たちよ、賢くなりなさい!バーでたむろしている類の男たちなど、あなた方には必要ないのです」

  •  「サードプレイス」とは、「第3の場所」という通り、第1の場所としての家庭、第2の場所である職場とともに、個人の生活を支える場所であるといわれています。そこでは人は家庭や職場での役割から解放され、一個人としてくつろげるとされており、そのあり方については都市社会学などの分野で現在熱心な研究が行われています。
     サードプレイスの特徴として、「アクセスが良い」「食事や飲料が提供されている」などが挙げられ、パリのカフェやロンドンのパブなどがその具体例です。この場所に人々が集まることで、家庭や職場にいる時とは違う自分になることができ、サードプレイスでしか顔を合わせることがない人たちと語らうことで、精神の安らぎを得たり、新たな発見をしたりするなどの効果があるといわれています。日本でもカフェが増えてきているので、サードプレイスが増えていけばいいと思います。
    (ラーニング・アドバイザー/芸術 AKAGI)

    ▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら
    http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1573256

  • 『サードプレイス』を読む。今、翻訳されて読まれるべきものなのか? 初版は1989、第二版は1996である。翻訳はペトロスキー『フォークの歯はなぜ四本になったか』(平凡社、1995)でおなじみの忠平美幸氏。もともと原題は「The Great Good Place」でコミュニティの核となるカフェ、コーヒー店、本屋、バー、ヘアサロン、その他だから「サードプレイス」の概念や限界もそう広いとは思えないのだが、解説まで含めて480頁はただ事ではない。社会学者レイ・オルデンバーグの情熱を傾けたテーマは我々にとってどういう意味があるのだろうか。

    解説のマイク・モレスキーが言っているように、『サードプレイス』は米国の中産階級が失った共同体と豊かさゆえの自己疎外への厳しい批判と受け止めることはできよう。しかし、ノスタルジーに満ちた「サードプレイス」は実現可能なのか。もう、そんな居心地のよい場所は帰ってこないのではないか。スタバの擬似的な環境はどこかよそよそしく感じられる。

    なぜ、マックやスタバがサードプレイスになりえないのか。日本の午後のマックは勉強する学生の溜まり場とかしているが、彼、彼女らは会話をしない。黙々と自分に与えられた問題を解いている。答えを相談できる大人もいないしコミュニティもない。

    片岡義男が『日本語と英語』のなかでdinarを取り上げていたのを思い出したのだが、そこは「飯食って行け!」と言うけど「サードプレイス」にはなりえない一見さん相手の大衆食堂でしかない。孤独を癒す「サードプレイス」ではなく「腹を満たすところ」と現実的な英語表現が羅列されていた。

    職場(第二の場所)に近いでわけでもなく、家庭(第一の場所)に近いわけでもない、通勤途中の居酒屋でニュースの話題に相槌を打ち、淡い連帯感やアノニムな関係の中に僅かの安らぎを求める人々の憩いの場はなくてはならないという主張は受け入れてもよいと思う。なにより、日本版の表紙の写真が西荻窪の南口の盛り場の風景であるのだから。

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