- Amazon.co.jp ・本 (279ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622080732
作品紹介・あらすじ
麦畑に囲まれた一軒家で暮す五人と一匹。生活の情景、そこにある哀歓をのびやかに綴る、静かな明るさに満ちた長編小説。『夕べの雲』の前編、庄野文学の代表作。
感想・レビュー・書評
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読完2011.07図書館
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昭和30年代の東京郊外で暮らす、家族の話。
両親と子供3人、犬1匹。
大事件は全く起きず、父親の視点、母親の視点、
子供の視点から小さい出来事が丁寧に綴られた物語。
穏やかに、時にユーモアたっぷりに書かれている。
昭和のゆったりとした言葉や近所との交流など
とても興味深く、大事に大事に読んだ。
繰り返し読んで、作中の言葉を反芻したい。 -
丘の上に生活する一家の生活を描く。
大きな出来事が起こるわけでもない、穏やかな日々。
巣から落下したひばりの子供を見守ったり、
知り合いにとおみやげに買ってきたはちみつを食べてしまったり。
明るい静かさの一冊。 -
『「どうして、いけないの」不服らしく正三がそう聞くと、父は、「いや、どうしてということはないけれども、それはしてはいかんのだ」といって、あとは何もいわずにずんずん子供たちの手を引っ張って、畑中の道を歩いて行った』-『ひばりの子』
小津映画が好きだという人が、よくその映画の中に流れる「時代のテンポ感」というようなことを指摘する。それがゆったりしているのが好もしいと言うのだ。恐らくそれと同じような意味で庄野潤三の「ザボンの花」の中に書きとられた昭和の時代からも、ゆったりとしたテンポ感が伝わってくる。
しかし早まってはならない。ゆったりとしているように思えるのは、あくまで、現代を生きる自分たちが余りにアクセクと追い立てられているから、その時代の人々よりも早いテンポで生活しているように思ってしまうだけなのだ。もちろん、様々なものが高速化はしている。特急「つばめ」は新幹線になり、それ以上早くなるはずのない「ひかり」として採用された車両は現役を引退した。しかし、ゆったりとしているように見える時代を生きる人々が、決してのんびりしている訳ではない。その人々も結構、あくせく生きているのである。
この本の中にだって、戦後の生活が突然すべて早回しで進み始めてしまっていると嘆いている人も描かれている。そこから、時代や世の中が変わったところで、存外、人間の感じることなんて変わらないものなんだなあ、という感慨がわいてくる。そう人間は、そうそう変わりはしないんだと思わせてくれること、それがこの「ザボンの花」の魅力であり、恐らくは、小津映画を好きだという人が、何も起こらないシーンについて熱く語る理由でもあるのだろう。
一方で、言葉、というのは時代と供にこれ程変わってしまうのか、という思いも強くする。ここに書かれていることは、多少古臭い言い回しだとは感じつつも全て理解でき(ている筈であ)るけれども、その言葉から立ち上がる映像はどうしよもなくセピア色である。テクニカラーにはならない。どこがそんなに古臭いのだと問われれば、それを一つ一つ指し示すことも不可能ではないとは思うけれど、それはもっと全体的な印象、雰囲気のように漂ってくるものである。あと何年したら(ひょっとして既に?)この本を読んで庄野潤三が書いている事柄が、本の中の言葉だけでは理解されないようになるのだろうか。セピア色の映像の中で語られている生活の手順、しきたりが、共通の事項でなくなること、それは余りに避けられないことなのだ、と観念する。自分より若い世代の人々は、この物語を外国の物語のように読むのかもしれない。
それでも、言葉が変わっても、共通理解の土壌が無くなっても、やはり、恐らく何か変わらないものがある、という印象は、いつの時代の読者にも残るのではないだろうか、とも考えてみる。何故なら、その「同じだ」という感覚の出所は、必ずしも時代に張り付いたものに由来する訳ではないと思うから。庄野潤三の書き写したものが人間の本性にかかわるものであるから。それより何より、彼の動体視力が優れていたいたからなんだろうと思う。 -
どきどきする本ではない。事件が起こるわけでもない。何気ない日常が描かれているだけ。
それなのに音も匂いも、風さえ感じるようだ。昭和の、あの懐かしい風景。子供たちの成長を見守るやさしいまなざし。作者のやさしさが伝わってくる本。 -
復刊したようです。
庄野先生の本はみんなオススメです。