- Amazon.co.jp ・本 (297ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622081388
作品紹介・あらすじ
庭の一畳間でミミズを眺め、温泉や居酒屋でひとり思案する。また、先生の書棚から死と死者をめぐる省察まで。世間と向き合ってこそ深みを増した生活と意見。
感想・レビュー・書評
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身の回りにころがった、ごくありふれたものごとを観察して、それに自分の思ったことを一言二言つけ加える。それで、できあがり。ことさらにむずかしいことをいう必要もなければ、新奇な知識も必要としない。エッセイは、誰にでも書けるように見える。執筆のための手間暇がかかる小説や論文を正業にする作家や学者の小遣い稼ぎには、もってこいである。
そんなわけで、巷にはエッセイに名を借りた身辺雑記があふれている。しかし、その多くは世間一般に言われていることをただ受け売りするばかりで、時間つぶしにはいいかも知れないが、わざわざ読むには値しない代物だ。中には名エッセイと思われるものもあるが、あまりに巧すぎるエッセイというのは、普段着でくつろいでいるところに、正装をした客を迎えたようなもので、それはそれで面はゆいものだ。
池内センセイのエッセイはそのあたりが、なんとも具合がいいのである。特に肩肘張ったところもなく、気楽に読める。それでいて、ここぞというところは、外すことがない。世間一般が疑いもしないことに首を傾げてみせる。医者が「ベロを出して」のような幼児語を使う理由だとか、薬袋の古臭いデザインと安っぽい紙質のことなど、あらためて指摘されるとなるほどとうならされる。目の付け所が鋭いのだ。
そんなセンセイでも、エッセイを書きはじめた当時は少々背伸びをしていたらしい。本書は主に四つのエッセイ集から選ばれた文章からなるが、初期の文章には手を入れなければならなかった。最近のものにはその必要がない。「身の丈そのものはともかく「背」がのびたらしい」と書かれている。そうなのだ。美味い物のことを書いても、なじみの店について触れるばかりで、グルメ談義にはならない。すべてが、背丈に合わせて書かれているので、読む方も背伸びしないですむ。近頃、これほど気軽に読めて、読後に軽い満足感を覚える本を知らない。腹八分目のエッセイというところだろうか。
その初期のエッセイに高校時代の教師について語った一文がある。その中にホフマンスタールのエッセイが出てくる。言葉の魔力について語ったもので、それは「魔法の指輪」を指にはめたようなものだという。ところが、この指輪は学者から学生に手渡されることはない。彼らはこの指輪をもっていないからだ。それができるのは、学者から「軽蔑される」、善良で物わかりのよい教師たちだと詩人は書いている。
それというのも彼らの多くが教師以前に「他のもの」であったからだ。人生の航路において、偶然に教師となった。すでにあまりに多くを体験してしまった人たち―その中には不遇の詩人や、失望した俳優や、放逐された王子がいる―その人たちの言葉にこそ流れ去る暗い影のように、多くの面影が動いている。(「魔法の指輪」)
センセイもまた、「他のもの」であった先生によって「魔法の指輪」を受けとったと書いている。多くの人が、何かの偶然で教師になった先生によって「魔法の指輪」を受けとっているにちがいない。遂に何者にもなれなかった失意の詩人や挫折した俳優は、善良な教師となることによって「魔法の指輪」の持ち手になっているのだ。ここを読んで高校時代の国語の教師を思い出した。不肖の弟子ではあったが、私もまた、「魔法の指輪」を受けとっていたのだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
池内紀のエッセイ。