- Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622085027
作品紹介・あらすじ
「デモ取材と古寺巡礼」「手でつかめる風景」…戦後日本の矛盾と日本人を凝視した眼を文章に刻む、65歳の初エッセイ集。その強靱な写真の謎を自ら明かす。
感想・レビュー・書評
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写真家・土門拳(どもん・けん)が書き溜めた随筆集。
それならば「アマチュアはなぜ写真が下手か」とか「リアリズムは自然主義ではない」という随筆の表題を採用したほうが、写真家の本のタイトルとして、より相応しかったのでは?なぜ一見哲学書のような「死ぬことと生きること」がタイトルに選ばれたのか?
しかし読者はその一編にこそ、土門拳と他の写真家との間に一線を引く大きなものがあったことに気づくはず。
(※以下、本書の核心部分にふれて書きます。知りたくない人は読まないで。)
この本に所収の随筆33本のうち特に私の胸に響いたのは『死ぬことと生きること』だ。
その随筆は「人間は死ぬ。どうじたばたしても、しょせんいつかは絶対に死ぬ」という書き出し。写真について独自の視点を強い筆致で書く土門らしからぬ、ことさら言われなくても誰もが知る言い回しだ。しかし『死ぬことと生きること』の内容は、実は土門の苛烈で衝撃的な体験に立脚していた。この随筆だけは、まさに背筋を伸ばして読むべきものだ。
ある夏の日、土門は仕事で外出し、夕方帰宅すると、土門が出かけるときに玄関で見送ってくれた6才の次女は、奥の三畳間に顔を白い布でおおわれて寝かされていた。土門は書く-「絶対の死が、子どもの全身をつつんでいた。夢にも考えてもみなかった厳粛な事実が、そこにあった。」
またこうも書く-「人間はなかなか死なないものだと、誰がいおうとも、ぼくは信じない。…死か生か、二つに一つの厳粛な結果だけが、事実としてぼくたちの生活の瞬間瞬間を決定しているのだ。」この随筆により、土門の他の随筆にも多く見られる「事実」という単語が、特別な意味を帯びてくる。
このことからも、土門が女優のおでこの皺や仏像の剥げた表面をぼやけさせずに写真化する理由が伺えると考える。存在するものの厳然たる存在性について、パーツを取捨選択することなく、その事実すべてを現像化しようとするのが土門の姿勢だ。それは幼年の娘の死の事実を前にして、土門が自己の感情に何もつけ足したり引いたりせずに事実を受け入れたことを、自己の写真家としての仕事においても一貫させていると考えれば合点がいく。
随筆を読み、改めてこの本に掲載された聖林寺十一面観音立像の頭部写真を見た。同像は奈良県桜井市郊外のお寺で安置され、大阪在住の私も実物を見たことがある。土門の写真は、年月を経た乾漆像の表面が一部剥げているのをはっきりと写すが、一方でそのことが仏性あふれる豊饒さと神秘さを示す表情として私に迫ってきた。
私は土門が主張する「リアリズム」を、そのままでは意固地なものと理解しただろう。しかし『死ぬことと生きること』の一編を読んだ後では、写真家としての土門を信用する。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
土門拳『死ぬことと生きること』みすず書房。土門初のエッセイ集。文人としても有名でしたが初めて読了、正直しびれました。戦後日本の矛盾を写し取った土門のリアリズムが、氏の謙虚なはにかみと共にそのまま言葉として立ち上がる。いやーいい本だ