独り居の日記【新装版】

  • みすず書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622085584

作品紹介・あらすじ

年齢を重ねるほどに、みずみずしい作品を発表したアメリカの詩人・小説家、メイ・サートン。1995年に83歳で亡くなるまで、その創作意欲は衰えをみせなかった。
さかのぼって1960年代の後半、はじめて小説のなかで自分の同性愛を明らかにしたサートンは、大学の職を追われ、折しも愛の関係のおわりと父親の死の直後で、失意の底にあった。やがて彼女は、世間の思惑を忘れ、ひたすら自分の内部を見つめることで新しい出発をしようと、まったく未知の片田舎で生活をはじめる。その頃の一年間の記録である。
ニューイングランドの自然と動物たち、大切な友人との交流、詩作、読書、生と死をめぐる万感が、無垢な感性と作家の思索をとおして文字になり、さらに、創造の時空としての孤独を見つめる穏やかな文章の水面下には、恐れ、悲しみ、喪失と、女性に禁忌とされてきた怒りの爆発を直視する「戦士」がいる。
50冊以上の作品を世に送り、その精神のたたずまいに感応する読者を各世代に獲得しているサートンの代表作である。

感想・レビュー・書評

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  • 孤独とむきあう、自分とむきあう | 一般財団法人 高田郁文化財団
    https://dokusho-culture.or.jp/book/29/

    『独り居の日記』(みすず書房) - 著者:メイ・サートン 翻訳:武田 尚子 - 森 まゆみによる書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS(2018/12/15)
    https://allreviews.jp/review/2773/

    独り居の日記【新装版】 | みすず書房
    https://www.msz.co.jp/book/detail/08558/

  • 【孤独と向き合う】

    詩人であり作家であるメイ・サートンが、アメリカの田舎ニューハンプシャー・ネルソンに移り住み記した、58歳の1年間の記録。
    日記という体裁ではあるけれど、すさまじい集中力での内省がほとんどで、さながら私小説のような趣きも。

    「独り居」(ひとりい、と読む)という言葉、この本で初めて知ったなあ。
    ひとり住まい、おひとり様、みたいな意味だと思うけれど、「独り居」と書くと、もっと毅然としたたたずまいと独立心を感じます。

    自然の美しさを静かに記した文章かと思いきや、サートンの精力的な活動ぶりと激しい気性の起伏に圧倒された本書。
    頻繁に講演や観劇のために旅行し、山と積み上がる読者からの手紙にも逐一返信する。
    大量の球根と庭仕事に向かいながら、詩作のための時間が十分にとれないと嘆く様子は、矛盾ともとれるけれど。
    きっと、本人にとっては精一杯何事にも誠実であろうとしているだけなのだと感じます。

    「何事でも真の重大事に直面するとき、人は常に孤独である。私がかくも歴然と一人ぽっちであることーー肉体的に、ほとんどいつも、その他の意味でもーーから、持ちうるかもしれない内的洞察、または利点は、人間としての普遍的な状態に入るための一方法であるかもしれない。人が絶対の孤立を処理する方法は、成長への道程でもあり、誰にとっても、大いなる精神の旅路である。」

    という文章がすごく心に響きました。
    人生の重大時における決断って、だいたいは自分の責任において決めて、その決断に対して最善を尽くすことしかできなくて、人ってすごく孤独だと改めて思う今日この頃。
    そんな時でも、この孤独は自分だけのものではなくて広い世界につながっているのだと思えば、不思議と慰められます。
    草花でも動物でもなんでもいいから、何かに優しくしたいと思いながら読み終えた一冊でした。

  • 「もし私たちが人間の条件を理解しようとするなら、そしてわれわれのともつあらゆる複雑さ、自己不信、感情の贅沢、罪悪感、喜び、緩慢な自己解放から行動と創造への全能の解放にいたる自己を理解しようとするなら、人間としても芸術家としても、私たちはたがいについて知りうるかぎりのことを知らなくてはならないし、裸で歩くこともあえてしなくてはならない。」

    彼女は日々生きづらく悩める人びとに、彼女自身を裸に晒すことによって"人間であること" を開陳してくれている。数行を読んでもうすぐに、彼女のことがとてもすきになってしまった。彼女の日々とその思念は、凍えたわたしの身体ぜんたいをあたためてくれる。頭を締めつけるどんよりと分厚い雲の隙間から閃く陽光のよう。彼女が引用してくれる哲学者たちの言葉も、とても胸に響いた。おなじ苦しみを抱いているひとの自己実現への解決方法を、わたしは怠惰によって受け取れている。
    わたしにだれかをただしく 愛する ということは難しいけれど、きっと彼女ならそんなすべてをうけいれてくれるような気がする。なかに在るちいちゃな愛になりうる感情の欠片を、ちゃんと見つけてくれるような気がする。ひとが(普通なら)ひいてしまうような言葉を思わず発してしまっても、彼女なら笑ってくれそうな気がする。こんなふうに、ひとからなにかをしてもらうことしか考えられない自尊心の低いにんげんのことも、そのすべてを見抜いて、ただ傍にいてくれそうな気がする(そしてときどき喧嘩をする)。"われわれが自分の行為やあり方を統制できないところでの痛烈な自覚からくる苦しみを苦しむ者" 同士として。自己の内面への、そしてなにより人間という生きものの解像度を高めるスコープをそっとしめしてくれながら。そしてわたしも誰かにとって、そうありたいのだと、わかった。
    ひとに面倒くさがられないように、気狂いに思われないように、難しいにんげんでないふりをするのはもうやめよう(たい)。人当たりはいいので第一印象から好意をいだいてくれるひとがいても、わたしの奥底では分厚い壁を常につくっているので、大抵がっかりされる。それすらも面倒なので、いつしか第一印象をよくしすぎる努力を(というよりわたしにとって初対面での笑顔はある種の防御反応でもあるのだけれど)やめようと注力しようとしている。これはわたしのなかでの自己実現だから。
    こういったことを、世の中のひとはすべて知っていて、わかっていなかったのはわたしだけなのじゃないか、という気がするのだけれど、自己を高めることに年齢など関係ないのだと、彼女が教えてくれた。
    「だが、成長することをやめるなら、なぜ生き続けようとするのだろう?」
    彼女のような(当時)58歳がいることにとてもあんしんして、また目覚めるために、眠りましょう。




    「破壊的なのは忍耐のなさであり、性急さであり、あまりに早く、あまりに多くを期待しすぎること。」

    「私たちは成長し理解し合うために争わないでいることはできない。それは苦痛であるにきまっているのだけれど。」

    「実のところ、私は自分の役目は、現実にできるだけ近付き、現実を受け入れるために、私自身が築いたものもふくめて、神話を静かに破壊してゆくことだと思っている。」

    「奇妙かもしれないが、私にとっては、いま起こっていることやすでに起こったことの意味を探り、発見する、ひとりだけの時間をもたぬかぎり、友達だけでなく、情熱をかけて愛している恋人さえも、ほんとうの生活ではない。」

    「けれど私には自分の納得する人間になることができない。だから今私は不完全な機械のような気がするのだ。まるで肝心の時にはがたがたときしみながら止って、"動こうともしない"、いやそれどころか、罪もない人の面前で爆発してしまう機械のように。」

    「私には抑鬱の原因よりも、それに耐えて生きるための処理の仕方に興味がある。」

    「私にがまんのできないこと、私を猫のように尻尾をふくらませて怒らせるものは、気取り、独善、言葉のはしばしに見えてくる卑しさである。」

    「思うに私が小説を書いたのは、あることについて自分がどう考えたかを知るためであり、詩を書いたのは、自分がどう感じたかを知るためだった。」

    「そのとき生の拒絶として死があるだろう。なぜなら私たちは、持ち続けたいと熱望するものを手放すことができないのに、成長し続けることを願うなら、手放すほかないのだから。」

    「いうまでもなく、こうした激情のもっとも恐ろしいところは、それが愛する者に対して与える害である。こうしたことのあった後は何日も、私は自分と折り合いをつけ、自分中の破壊者と対決しなくてはならない。私は悔いよりも恥ずかしさを覚える。」

    「愛は人を拡大させる偉大なものの一つであるが、それは他者を自分のなかに"取り入れ"て彼を理解し、相互によい関係をもつために自制と忍耐と想像力を働かせることを要求するからである。もし愛が情熱をふくむなら、それには爆発力と危険がよけいにあり、私たちをより強く掘り下げないではおかない。偉大な芸術も同じことをさせるではないか・・・・・・」

    「すべての芸術家は両性有具的であり、女性にあっては男性的な部分、男性にあってはその女性的な部分が創造の源であるということだ。」

    「われわれは波乱や変化を怖れ、苦痛に感じられることについて語ることを怖れる。苦悩は往々にして失敗と感じられるが、実はそれは成長への入口なのである。」

    「戻ってくるところは、いつも同じ要求である。十分深く掘り下げさえすれば、いくら固くとも、真実の岩盤があるということだ。」

    「思うに、それ(真の喜び)を人の心に伝えることができ、事実伝えてくれるのは、常に、苦しみをなめてきた人たちだ。そのとき、喜びには気障なところもなければ、自己正義のようなものもなく、すべてを包容し、排他的なところがない。そうしてそれは、祈りに近いものとなる。」

    「だからおそらく私たちは、現在の自分のいるところから、これからなるであろう自分に向かって書くのだろう。」


  • 昔、まだ小学生だった頃、「赤毛のアン」を読んでいても、首都圏で生まれ育った私には想像しきれない自然描写がたくさんあった。
    アンの舞台であるプリンスエドワード島にも行ったし、ターシャの庭の番組や写真集を見たりもしてきた40代の今、北米の北東海岸地域の自然や光の具合などを昔よりもずっと実感を持って思い描くことができる。経験というのはありがたいものだ。

    理解が難しい箇所もあったけれど、幾つか、とても心に刺さる箇所もあった。時代は違えど、これくらいの年配の、仕事を持つ、独身女性の心の言葉が率直に表されている文章を読んだことがあったかな?失敗したり自己嫌悪に苛まれたり怒ったり悲しんだり。歳をとってもそんな感情と折り合いながら生きていくものなのだなと思うと、今の自分がそんな感情を持って揺れてしまうことも仕方のない…自然なことだと受け入れられる気がした。

  • アメリカの詩人・小説家であるメイ・サートンの日記。彼女自身の58歳から59歳までの1年間の生活が丹念に描き出されている。

    この日記を著した動機は、「詩集『雲、岩、太陽、つるくさ』の書評への失望、愛の終り、父親の死と相次ぐ打撃を受けて失意の底にあった」サートンが「世間の思惑を忘れ、ひたすら内部を見つめることで新しい出発をしようと決意」し、「まったく未知の土地ニューハンプシャーの片田舎ネルソンに、三〇エーカーの敷地をもつ一八世紀の老屋を買った」からとのことである(「」内は訳者あとがきより引用)。

    1ページ目にはこうある。
    「さあ始めよう。雨が降っている。(略)何週間ぶりだろう。やっとひとりになれた。"ほんとうの生活"がまた始まる。奇妙かもしれないが、私にとっては、今起こっていることやすでに起こったことの意味を探り、発見する、ひとりだけの時間をもたぬかぎり、友達だけではなく、情熱かけて愛している恋人さえも、ほんとうの生活ではない。なんの邪魔も入らず、いたわりあうことも、逆上することもない人生など、無味乾燥だろう。それでも私は、ここにただひとりになり、"家と私との古くからの会話"をまた始める時ようやく、生を深々と味わうことができる。」

    グッとくる書き出し。
    こうした感情は、サートンの偽りなき本心なのだろうけれど、一方でそれは恐らく10代の少年少女であっても90代の老人であっても共感できる、普遍的な感情なのではないだろうか。「孤独」を自ら希求する思い。少なくともそれは極東の一中年女性の心には大いに響くものがあった。

    しかし一方で、サートンはこのようにも書く。
    「考えてみると、夕方のTV番組がなかったら、私はいったいどんなことになるだろう。これは私がただ、現在世界で起こっていることに情熱的な関心を抱いているためだけではなく、一日中たった独りで過ごした後は、人間の顔のある家に入ってくることが、それと同じくらい必要に思えるせいもある。」

    これもわかる。独りぼっちで居続けることに耐えがたくなる気持ち。家にいるとついTV(動画でもいい)を流し続けてしまう、独り暮らしの無聊……。
    孤独を必要としながらも、完全な孤独に安らえるほど強いわけではない。
    「独り居」経験者ならば誰しももった覚えのある感情ではないだろうか。

    ……と、これはほんの一例だが、このようにサートンの日記は、悟ったようなことを述べたかと思うと、その数日後には怒りの嵐が吹き荒れたり、それに後悔したり。あるいは自作についての自信を語った後に、酷評を受け怒り傷ついたことが綿々と語られたりと、矛盾の連続。凡庸な言い方をすれば、人間らしい姿が余すところなく描かれているのである。

    それはサートン自身意図してそう書いた結果のようでもある。
    本文や訳者あとがきでも触れられているが、サートンはこの『独り居の日記』を出す前に出版した『夢みつつ深く植えよ』において、ネルソンでの庭作り(庭作りの話は『独り居の日記』でもたいへん美しく魅力的に描かれる)と思索の日々を描き出した結果、彼女の生き方そのものに憧れるようなファンをはからずも獲得したそうである。
    そうした「美しい生活」は確かに一面真実なのだが、それによりサートンを神格化するような読者も現れ、居心地の悪い思いをしたそうである。
    そういう意味で『独り居の日記』は、『夢みつつ…』の読者の夢を壊すようなこと―――怒ったり、落ち込んだり、天狗になったり、凹んだり―――をあえて描き出しているところがあるようである。

    ではそれは読者を失望させるようなものなのか?
    少なくとも私はそう思わなかった。
    むしろ、仕事をもち、人並の自負心も持ち合わせ、人を愛する喜びも、別離の苦さも知っている一女性にとって、先達が身体をはってさらけ出してくれた精神の記録には、読んで安心するものがあった。

    年齢を重ねても何もかも楽になるわけではない。ただ、それはそれとして、加齢を恥ずべきものとみなすのではなく、むしろ成熟と捉えそれをことほぐ姿勢も、また同時に持つことは可能である。
    サートンの日記にはそう思わせる力がある。

    原題の"JOURNAL OF A SOLITUDE"を『独り居の日記』と訳された武田尚子氏の天才にも読後唸った。これは「孤独」をかこつ日記ではなく、自ら選び取った「独り居」をあまねく描ききった日記。全ての人に勧めたい。

  • 79歳の時に始めた詩人女性の約一年半の日記。
    単調で内省的である点に興味が持てず、はじめはなかなか読み進められなかったが、自分の内側に冷静な対峙すること(孤独であること)それが豊かさへと繋がること、そしてそれが自分を生きるということなのだと、、とても共感した。
    片田舎で庭の手入れをしながら、鳥や猫に餌を与え、ゆっくりと生活する、、一見穏やかで平和、牧歌的なのだが、内面ではさまざまな葛藤や悲しみや怒りがある。
    シングルの女性として生きていくこと、作品に対する世の批判や称賛にさらされること。。
    自分の内面の深い部分で動く活発な感情。
    歳をとってもみずみずしい。いや歳は関係ないのか。
    誰かに影響を受ける、それが成長につながるとしながらも、外と内とを行き来する思考が、自分を豊かにしてくれる。
    最後に彼女は大切なパートナーに別れを告げる。深い喪失感の中で、自分を見つめ直す孤独な時間で思ったことは、自分は一人で生きるべく生まれてきた、そして誰かのために詩を書く定めなのだと。
    誰といても、充実して生きていると思ったとしても、孤独(自身の内面を一人で見つめる時間)はきっと必要だ。

    あとがきの言葉より
    歳を取るのは素晴らしいこと、今ほど自分自身であり得たことがないから、と言って聴取を驚かせた(70才にして)
    たとえ私の想像の力が衰えても
    孤独は私を支えてくれるでしょう
    孤独に向かって生きていくことは
    終わりにむかって
    いきていくことなのですから

  • ずっと暑かったし、半分哲学書のような日記本だったので、読むのに時間がかかった。心に残るたくさんのフレーズがあったはずだけど、思い出されるのはなんだかすんごそうな深い庭の様子。実物を見たわけじゃないけど、本を開くと扉を同時に開いたように、目の前にその庭のある風景が広がるような読書体験だった。
    メイ・サートンが、時折り「もう大人なのだから」というようなことを言うけど、この人これ書いてる時はほとんど還暦。いったいつになったら私は大人という自覚が持てるようになるのだろうと思っていたけど、どうやら60近くになっても、ハッキリと大人の自覚はないらしい。大先輩がこういうことをさらけ出してくれていると、後輩としては頼もしい。
    この日記は9月から始まって、翌年の9月で終わる。一年の間に、人は成長はしないのかもしれないけど、でもこんなにも心の襞が増えていくものなのだと感じた。

  • 硬い言葉で訳されているので、読むのにものすごく時間がかかった。
    でも、ありのままの感情の起伏が書かれていてとても学びがあった。
    難しいことがたくさん書かれているので30%くらいしか著者の考えがわからなかったとはおもうけど、それでも私には大いなる発見でした。
    この方の小説も読もうと思います。

  • 3.94/314
    『年齢を重ねるほどに、みずみずしい作品を発表したアメリカの詩人・小説家、メイ・サートン。1995年に83歳で亡くなるまで、その創作意欲は衰えをみせなかった。
    さかのぼって1960年代の後半、はじめて小説のなかで自分の同性愛を明らかにしたサートンは、大学の職を追われ、折しも愛の関係のおわりと父親の死の直後で、失意の底にあった。やがて彼女は、世間の思惑を忘れ、ひたすら自分の内部を見つめることで新しい出発をしようと、まったく未知の片田舎で生活をはじめる。その頃の一年間の記録である。
    ニューイングランドの自然と動物たち、大切な友人との交流、詩作、読書、生と死をめぐる万感が、無垢な感性と作家の思索をとおして文字になり、さらに、創造の時空としての孤独を見つめる穏やかな文章の水面下には、恐れ、悲しみ、喪失と、女性に禁忌とされてきた怒りの爆発を直視する「戦士」がいる。
    50冊以上の作品を世に送り、その精神のたたずまいに感応する読者を各世代に獲得しているサートンの代表作である。』(「みすず書房」サイトより▽)
    https://www.msz.co.jp/book/detail/08558/


    原書名『Journal of a Solitude』
    著者:メイ・サートン (May Sarton)
    訳者:武田 尚子
    出版社 ‏: ‎みすず書房
    単行本 ‏: ‎280ページ

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著者プロフィール

(May Sarton)
1912-1995。ベルギーに生まれる。4歳のとき父母とともにアメリカに亡命、マサチューセッツ州ケンブリッジで成人する。一時劇団を主宰するが、最初の詩集(1937)の出版以降、著述に専念。小説家・詩人・エッセイスト。日記、自伝的エッセイも多い。邦訳書『独り居の日記』(1991)『ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く』(1993)『今かくあれども』(1995)『夢見つつ深く植えよ』(1996)『猫の紳士の物語』(1996)『私は不死鳥を見た』(1998)『総決算のとき』(1998)『海辺の家』(1999)『一日一日が旅だから』(2001)『回復まで』(2002)『82歳の日記』(2004)『70歳の日記』(2016)『74歳の日記』(2019、いずれもみすず書房)。
*ここに掲載する略歴は本書刊行時のものです。

「2023年 『終盤戦 79歳の日記』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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