近代日本幣制と東アジア銀貨圏: 円とメキシコドル (小野一一郎著作集 1)

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  • ミネルヴァ書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (332ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784623032945

作品紹介・あらすじ

第一巻は著者が生前すでに作成していた編集プランに沿うものである。日本の多くの社会制度と同様に、日本の貨幣制度の変転も常に外からやってきた。遅れて世界市場に参加した日本は、アングロサクソンの国際通貨環境の論理に合わせざるをえなかった。近代化に乗り出す日本が、貿易に重要な安定した通貨を支配できなかった事情を検証し、貿易銀貨流通の努力の失敗、金本位制の採用から国際通貨秩序に合わせ変革していく日本の、絶えざる自己改革の軌跡を論考する。

感想・レビュー・書評

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  • i-ii
    遅れて世界市場に参入した日本は、すでに確立していたアングロサクソンの国際通貨環境が押し付ける論理に自らを適合させなければならなかった。[...]日本が生糸貿易を梃子に近代化に乗り出したとき、まず直面したのが、貿易に使用する通貨を安定的に支配することができなかったという事情であった。通貨情勢はメキシコドルによって支配されていた。金属鋳貨であるメキシコドルといえども、政治・経済状況に対して、けっして中立的なものではない。メキシコドルを縦横に駆使できる外国の商社、銀行の思惑に日本は振り回され続けた。日本は、懸命になって自国が支配できる貿易銀貨を流通させようとしたが、その努力は水泡に帰し、結局は、目の前の国際通貨秩序に合わせて、自らを変革しなければならなかった。金本位制採用にしても、それはけっして、日本が自力で確立してきたものではなかった。つねに、アングロサクソン的世界組織の側迫を受けて、絶えざる自己変革の軌跡を日本は示さざるをえなかった。

    p.1
    わが国における近代的貨幣制度の成立[...]の契機は、すでに、幕末開国にともなう洋銀の流入・幕藩体制下の貨幣制度との接触それ自体のなかにあたえられている。

    洋銀との接触・対応の中に、璽余の東亜の諸国と一面において共通しつつ、他面においてことなるわが国幣制のの特質の一つが刻印されているのである。

    幕末開港にはじまる洋銀流入とそれに対する幕藩体制下の幣制との接触・その変化、つまり近代的幣制への移行の端緒をとりあつかうことにする。問題はつねにその始源において宿っている!

    p.2
    当時、東亜における貿易通貨=国際的通貨として支配的地位を保持していたのはメキシコドル(墨銀)であった。メキシコドルの鋳造開始は一五三五年、当時スペイン領メキシコにおいて、スペイン王カルロス一世が自国の範にのっとり、造幣局を設け鋳造を開始せしめたときにはじまっている。爾来二〇世紀の初頭にいたるまで鋳造されたメキシコドルは三五置く四八〇〇万ドル(一五三七―一九〇三年まで)に上った。それはメキシコ輸出額の過半を占め、南北米両大陸はもとよりフィリッピン(スペイン)、海峡植民地(スペイン)、フランス領インドシナ、中国など東亜各地に流入し、貿易通貨として使用され、一六世紀以来数世紀の長期間にわたって、国際通貨としての役割を果したのであった。さらにそれは国内流通にまで浸透したのである。スペインが自国の幣制に則って、銀貨を鋳造させたのはメキシコにかぎられたわけでなく、その他の植民地であったボリヴィア・ペルーといった銀産地においても同様であったけれども、メキシコ産銀の位置は圧倒的であり、とくに、東洋と西洋との経済交渉において、いいかえれば西力東漸の貨幣的担い手として利用されたのは主としてメキシコドルであった。

    p.2-5
     メキシコドルがこのように長期にわたって利用された原因は何であったか。
     それは、まず、一六世紀におけるスペインの国際経済上の地位をバックとするものであったことはいうまでもないが、またメキシコが世界最大の銀産国であったことにも起因するものであった。
     第二に、メキシコドルの品位・量目が長期にわたって安定していたことがあげられる。[...]
     第三に、当時における、東亜諸地域の貨幣制度・信用制度が未確立・未発達であったことがあげられる。[...]メキシコドルを利用する以外に国際取引の手段は存在しなかったし、品位・量目の確定それ自体からでてくる試金・秤量・出納など貨幣取扱い手数料の節約、価値の貯蔵という利点からいっても、メキシコドルの利用ということは大きな便宜をあたえるものであった(それゆえにこそ国内流通においてさえ、使用されたのである)。[...]
     さらに第四に、これら地域の幣制の未確立、未発達に表現される生産力の低位、市場の狭小性、つまり社会的分業の御旗つは国際分業規模=貿易規模そのものを制約し、そのことが上記の理由とあいまって、金に比して低価なる銀現金通貨たるメキシコドルの利用をオプティマムな状態においたのであった。[...]
     第五に東洋とヨーロッパにおける金銀比価の問題が考慮されねばなるまい。[...]メキシコドル東漸の経路は一つにはスペイン領フィリッピンを経て中国その他に流れる経路と、[...]ヨーロッパを経由する経路が存在した。
     そして最後に、[...]メキシコドルの利用の一般化・それにもとづく使用慣習の成立が、メキシコドル以外の新規な銀貨の流通を排除したことに寄因するものといえるだろう。そしてまたこのことの中に、[...]東亜における支配的国際通貨=世界通貨という特殊な性格の故に、[...]世界市場の内部において無差別な地金形態に復帰するという原理からはみ出すところの一つの特殊な国際通貨=世界通貨たりえたからである。

    p.6
    「東亜の貨幣史において、メキシコドルが重視されなければならないのは、[...]東亜各国の貨幣制度が旧来の貨幣制度の改変を、最初ほとんど例外なくこのメキシコドルを模型として行うことを余儀なくされたからである。わが国もまたその例外ではなかつた。そしてこの目岸夫ドルが一般的にわが国において洋銀と呼ばれたのである。」

    p.7
    開港とともにはじまる洋銀問題の発生の根元は、[...]その方式を規定した一八五八年(安政五年)の日米通商条約の中にみいだされる。

    p.8
    洋銀が、金貨に対する補助貨として、実質価値よりも相対的に高い価値を賦与されていた一分銀と等価(相互の重量において)におかれたというおどろくべき矛盾のなかに存在した。つまり本来地金として評価さるべき外国貨幣が、そのまま補貨幣に転化するという矛盾。当時世界における金銀比価はほぼ一対一五であるのに対して、わが国の場合、金貨(一両判)と補助通貨である銀貨(一分銀)との間における四分(天保一分銀)=一両(同一両判)の関係からみちびかれる金銀比価は1対四・六五であった

    p.12
    安政五年六月(一八五八年七月)の日米通商条約の締結以後、条約で約束された開港(一八五九年七月一日・安政六年六月二日)直前にいたるまで、幕府の貨幣政策は、この金銀比価格差より生ずる金流出の防止、つまり格差矯正のための積極的な対策を打出しえなかった。

    p.13
    洋銀価値を一挙に三分の一に切り下げる幕府の対策は諸外国の反対の前に頓挫せしめられた。[...]これによって幕府は爾後における幣制改革の自主性を拘束され、かれらの同意なしには幣制の改革は不可能とされた。つまり改革はかれらの指導下においてのみ許可・実施されることとなったのである。

    p.13
    内外比価格の存在、同種同量交換規定の存在からもたらされたものが、洋銀の流入と金貨の流出であったことは、あらためてのべるまでもないだろう。

    p.14
    洋銀→一分銀→金貨という循環運動=投機取引はたんに外国商人に法外な利益をあたえたのみでは決してない。[...]日本商人=金貨売込商人の手をへて行われたからである。それゆえ、投機差益の一部はこれら日本の投機商人にも分ちあたえられるものであった。[...]この投機取引の循環運動は円滑な道程を歩んだわけではない。困難は二つの経路の中にあった。まず国内的には洋銀→一分銀への転換と一分銀→金貨への転換。さらに外部的には、金貨の中国市場(香港・上海市場)での売却つまり金貨→洋銀への転換の中にもあった。

    pp.14-6
    洋銀から金貨への直接的転態はほとんど存在の余地をもたなかったのである。[...]洋銀の不整一性と古一分銀に比しての品位の低位、一方古一分銀の量目・品位の良質、国内における一分銀の使用慣習の存在は洋銀不信の念をいだかしめ、洋銀の一分銀同位流通つまり一ドル三分通用を阻止したのである。[...]当時わが国においては銀秤量貨幣制とともに定位銀貨体系が存在し、またそれゆえに定位貨たる一分銀は地がね価値プラス造幣費用よりはるかに高い鋳貨価値をもちえたのであり、洋銀は市場において、当初地金として以外に、一分銀に対することができず、したがって、洋銀は中国におけるごとく国内流通に直接的に入りこみえなかったのである。

    p.17
    このような投機的運動への阻止要因[...]を打破し、洋銀から一分銀への転換、つまり同種同量交換の遂行を矯正したものは、オールコック、ハリスに代表される、イギリス、アメリカを中心とする外国の圧力であった。


    p.21
    投機取引によってもたらされた、金貨騰貴なる事態[...]の過程の中で、金銀比価の国際比価の国際比価への均衡化=調整過程が進行しつつあった。

    p.21
    一方、流出=輸出金貨の銀貨つまり洋銀への転換も、急激な金貨から洋銀への需要増加によって、当時の金貨→洋銀への主たる転換=両替市場であった中国において、洋銀騰貴となって現われた。

    p.24
    開港以後における洋銀の流入、金銅流出を通ずる、国際比価への平準化傾向、つまり市場メカニズムを通ずる幕藩体制下貨幣制度の解体と再編の法制的確認こそ、万延元年における幣制の大改革にほかならなかった。

    p.25
    この幣制改革の目的は申すまでもなく、洋銀流入・金貨流出つまり投機取引によって攪乱された幣制の国際的な比価体系に応ずる整備改革であった。

    p.29
    万延元年の改革は国際比価への調整を目的とする幣制の改革ではあったが、それはまだ全般的な幣制の近代化=統一的貨幣制度の成立を意味するものではなかった。金・銀・銭の三貨並行制度は存続し、貨幣鋳造そのものも幕府の独占的な規制におかれていた。なぜなら、それは幕藩体制の崩壊=否定・近代的国家の成立によってのみ真に可能なことだったからである。

    p.47
    洋銀は、当初より執拗に意図された国内通用、つまり外国鋳貨の国内通用という、負うべき資本主義国によって意図された国内市場の直接的掌握―それは同時に当該国における幣制の独立か=幣制自主権の喪失を意味する―を璽余の東亜諸国におけるように完全に達成することはできなかった。しかし、洋銀は同種同量交換規定の強制によって、金銀比価格差を利用する金貨の流出=金貨の収奪を強行せしめ、同時にそれを通して徳川貨幣体制を一挙に混乱させ、国際比価体系に即応した比価体系の裁用=幣制の改革を促進実施せしめる原因となった[...]。一方洋銀は国内流通に浸透しえなかったとはいえ、貿易通貨=国際的支払手段としての自己を確立し、開港場において流通し、そのかぎり貨幣自主権を侵害し、貿易関連の発展、西欧勢力の進出に比例してその勢力を拡大し、このことは慶応年間に入ってからの入超増、洋銀騰貴とともに一層強化されるにいたった。

    p.48
    新貨条約における金本位制は事実上二於いては金銀複本位制なる性格をおびざるをえなかった。このように洋銀の存在はわが国幣制の近代的整備の端緒において、その方向を拘束、制約する根本的な要素として働いたのである。しかもその後事実上本位貨幣の位置をしめたものは一円銀貨であり、結局明治一八年の兌換銀行券の発行による近代的本位制成立の基礎となったのもこの洋銀と同じ一円銀貨であった。このように洋銀は幕末・維新における幣制改革に大きな役割を果し、その基軸・基準をなすものであった。


    pp.61-2
    迫り来る欧米先進国の圧力に抗し、急速に強力な近代的国民国家を建設するために、明治政府は自らの主導において先進国からの近代的生産様式の移植・育成を遂行する必要に迫られたのであるが、そのような生産様式の移植と育成つまり資本制生産の発展の基礎的条件として、明治政府は当時幕藩体制下より継承した複雑なる幣制、つまり複雑な価値尺度、尺度単に、尺度基準の改革=統一化=近代化に着手しなければならなかった。そしてこのことは、日本への進出・貿易関係の発展を求める欧米資本主義諸国によって希望され、強く要求されたことでもあった。かくして政府は資本制生産の発展に即応し、かつその前提となるべき貨幣制度、つまり貨幣の全国的統一、尺度単位、尺度基準体系の確立と兌換制度の確立をその政策目標としたのである。

    p.62
    わが国幣制の近代化過程は、[..]由利→大隈→松方という三人の財政指導者の交代―それは同時に三つの主要な貨幣政策・指導理念の転換であるが―を含む、維新以来約二〇年の歳月のうちに漸くもたらされたものであった。

    p.65
    明治政府にとって幣制の確立=近代化は二重の意味において、その遂行を急がれたのである。すなわち、一つには強力な資本制生産の育成・強化の基礎前提の構築たるいみにおいて、二つにはすでに改税約書において約束された諸外国からの幣制確立の要求に答えるためにも、それは必要であったからである。

    p.66
    緊迫した軍事費支弁の必要のため[...]、金銀座収用の翌日より旧貨幣の増鋳を行うこととなった。さらに同年閏四月二十一日、あらたに貨幣司を設置するとともに同日貨幣司支所を大阪に置きここでも旧貨幣の増鋳を行うこととなった。[...]さらに、、政府は[...]閏四月一九日太政官札(金札)発行を通告するにいたる。[...]事実においては財政窮乏・軍事費不足をおぎなうための不換紙幣の発行であった。

    pp.69-70
    明治初年における外交問題はほとんどこれらの貨幣問題に終始したといってよいほど、多くの外国列強の圧迫に遭遇したのである。そしてその圧迫の中で、当時の財政上の指導者由利公正の政策は内外の批判をうけ、由利にかわる大隈の登場によって、わが国の貨幣政策は一八六九年(明治二年)を転機として、第二の段階に移行することとなるのである。

    p.75
    予定された新貨幣制度は一応メキシコドル(実は香港ドル)同党の円銀を本位とする銀本位制度を指向しつつも、一方では補助貨樽金貨の通用制限もなく、また改税約書によって規定された金銀地金および貨幣の自由鋳造が規定されている点、金銀比価についても、先きの七月七日の通告にあるように国際比価に準ずる点において決定されている点からして、複本位制を予想せしめるものであることがわかる。

    p.76
    キンドルの建議は[...]銀本位制の採用を勧告したのである。

    p.78
    明治初期におけるわが国の幣制改革のプランは、外国勢力(イギリスを先頭とする)による貨幣問題の発生を機縁とし、特にイギリスの強い指導力によってその方向を規制されたものであることがわかる。[...]実質上洋銀同位の幣制をわが国に希望したのは、当時東亜における支配的国際通貨=貿易通貨であった洋銀と共通の幣制の実施が相場変動からくる間接的障害を除去し、貿易の遂行にきわめて有利であり、かつ当時すでに銀の下落、金本位制への移行が問題視されており、その意味からも銀市場の確保が期待されたからであろう。
     またわが国がこのようなプランを受入れたのも、[...]このような洋銀同位同銀を本位とする幣制の成立によって、円の対外価値を安定せしめ、洋銀相場の変動からくる貿易への障害的要因をとり除き、[...]円をしてそれ自体洋銀同様の国際通貨たらしめ、東亜におけるわが国の貨幣的権力を発展せしめることを意図したからでもあった。

    p.81
    さきの銀本位制また二月三十日伊藤宛書簡における金銀複本位制の方針は、つぎのように金本位となり、銀貨は貿易銀として制限的なものにされることになった。

    p.84
    かくしてわが国は法制上金本位制であるが、一方開港場における貿易銀の自由鋳造・通用を認め、しかも相対示談の場合、この制限をはずすことによって、その流通が開港場外に拡大することを認め、かつ外国鋳貨なるメキシコドルの自由通用(開港場ならびに国内一般)を認めるという特殊的金本位制、つまり事実上金銀複本位制たる性格を帯びるものであったといえる。

    p.94
    一円銀の発行は以後明治三十年の金本位制成立にいたるまで継続され、東亜各地に進出し、メキシコドルの流通領域に浸透したのである。[...]円銀は中国、朝鮮、印度支那、タイの大部分の開港場、さらにマレー諸島において、広く自由に流通したが、ことに海峡植民地、マレー半島諸州においては、漸次流通貨幣の中でもっとも多く使用され、まったくメキシコドルと平価で流通するにいたった。

    pp.114-
    東亜における国際的通貨としてのメキシコドルに対する挑戦、つまりメキシコドルをめぐる国際通貨線の序曲をなしたものはイギリスであった。イギリスの東インド会社による、海峡植民地にインドルピーを導入しようとする試みは、すでに十八世紀末よりみられるのであるが、一八三五年法律第十七号によって、インドルピーはプリンス・オブ・ウエールス島、シンガポール、マラッカの法貨とされ、つづいて一八五四年には海峡植民地の一般的流通に強制的に流通せしめんとする措置がとられ、さらに一八六二年にはルピーを海峡植民地全体の法貨とする法律が制定され、政府財政をルピー建とするなど一連のルピー流通策がとられるのであるが、海峡植民地の一般取引は依然としてドル建で行われ、メキシコドルの支配的地位を変えることはできなかった。
     当時海峡植民地は東インド会社の支配に属していたが、一八六七年イギリス本国に直属することになり、通貨についても遂にルピーの導入を断念し、同年四月一日、インドルピーを法貨とする一さいの法律を廃止し、香港のイギリス造幣局で鋳造した香港ドル、スペインドル、メキシコドル、ペルー、ボリビアドルその他今後政庁の指定する銀ドルを法貨とすることになった。
     イギリスによるいまひとつの挑戦は一八四四年(ピーる条約成立の年)一一月本国補助銀貨の香港導入である。イギリス政府は一八四一年の香港領有後三年を経たこの年、イギリスの法貨をもって、香港の法貨たらしめることを布告するとともに、実際上、本国の補助銀貨を名目上の本位貨幣として導入し、それが短時日の間に、香港において、外国貨幣つまりドル貨に代るべきことを期待したのである。イギリスが本国補助銀貨を植民地に導入し、本国貨幣組織の拡大をはかろうとする組織的計画は、すでに一八二五年以来試みられたところであったが、香港におけるこの試みも、その延長線上に位置するものであった。しかし、海峡植民地におけると同様に、香港においてもこの試みは失敗に終った。事実イギリス当局の期待に反し、補助銀貨は、中国人の間で、ただその重量によって授受される以外はほとんど流通せず、つまり補助貨幣の名目価値によっては流通せず、メキシコドルの支配的地位はこのような法的規制によって排除されることはなかった。その結果一八六三年一月にはメキシコドルおよびそれと同価値の銀貨は法貨として公認されることとなった。
     海峡植民地、香港における失敗にかんがみ、新しい計画がたてられることになった。それは現に使用されている貨幣単位を変更することなくして、イギリスの通貨を極東食民意において創設する試みである。

    p.118
    一八六〇年代メキシコにつぐ銀資源を開発したアメリカは、これら産銀の市場を極東において確保し、もって銀貨の自由鋳造金氏に打撃をうけるべき銀鉱所有者を保護するため、東亜市場向けの貿易ドルの自由鋳造を許可し、これによって、東亜の支配的国際通貨樽メキシコドルの地位に代らしめようとしたのである。

    p.131
    メキシコドルの流入、それによるヨーロッパへの金の吸収と、東亜諸国の銀貨国への編成替、ということは欧米勢力の東漸とともに、その主導の下にもたらされたものであったが、メキシコドルをめぐる銀貨戦そのものもまたそのような欧米勢力の主導の下にそれ自体の利害を根拠として行われたものであったわけである。

    p.180
    印度幣制改革がとりわけ注目されねばならないのはそれが東亜における銀貨圏・銀市場の維持という伝統的な体系からの本国(イギリス)自らによる脱却・転換をいみするものであったことにある。

    p.257
    十九世紀の世界経済における貨幣システムはそれゆえ各国がそれぞれ自国通貨をポンド貨に連結するという形式においてけっきょくは構成されていたのであり、国際金本位制の実際は古典派的調和論とは異なって、じつは最大の利益をイギリス(もとよりイギリス資本にとってのそれ)に帰属せしめるごとき体制であったといえるのである。

    Alcock:The capital of the tycoon
    紙幣整理始末
    大隈侯八十五年史
    貨政要考
    明治前期経済史料集成
    由利公正伝
    Chalmers A history off currency in the british colonies
    Remer: foreign investments in China
    Sherman Silver Purchase Act
    公爵松方正義伝

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