宇喜多直家・秀家: 西国進発の魁とならん (ミネルヴァ日本評伝選)
- ミネルヴァ書房 (2011年1月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (318ページ)
- / ISBN・EAN: 9784623059270
作品紹介・あらすじ
宇喜多直家・秀家、備前の戦国大名。一介の土豪から知略の限りを尽して備前・美作を支配するまでに成長し、後に「戦国の梟雄」とも言われた直家。秀吉の寵愛のもとに成長し、五大老の一人として豊臣政権を支えようとした秀家。対照的な父子の実像を初めて解明する。
感想・レビュー・書評
-
詳細をみるコメント0件をすべて表示
-
木下昌輝「宇喜多の捨て嫁」に触発されて手に取る。宇喜多能家、興家と直家の前半生までは、本当にほぼ軍記物しか史料がないんだな、との事。それも含め、直家の生涯を眺め渡すと、梟雄、謀将、裏切りというのは脚色の範囲で、冷静に検討すれば、経済基盤確立、宗教政策、婚姻政策と行政手腕を発揮し、裏切ったとされる宗景とも対等と言える同盟関係であり、騙し討ちも他の戦国大名もやっていた範囲でのことだった、と。以下、備忘録的に。/浦上政宗・小次郎親子の暗殺に伴い、小次郎の弟清宗が江見河原五郎らに擁立された。/1569年には、信長による浦上宗景への討伐。その頃、直家は、今井宗久を通じて信長に服属の意志。「同名衆」、宇喜多姓、浮田姓も同意した、と。/1573年、信長から宗景へ、播磨備前美作の朱印=支配権を与えた。それをきっかけに直家は宗景と決別を宣言/1575、赤松則房、広秀、小寺政職、別所長治、浦上宗景が信長へお礼言上/1577、毛利に命じられ直家は、赤松広秀の拠点龍野へ攻めこむ。しぶとく抵抗され、麦刈りを実施。/
-
宇喜多能家・直家・秀家を中心に,宇喜多氏興亡の経緯を解説する。
宇喜多直家に対する「梟雄」という評価の再考を一つのテーマとしている。
「梟雄」とされる根拠の一つである,主君たる浦上宗景を裏切ったという点について,そもそも浦上宗景との関係は主従関係ではなく,独立勢力同士の同盟関係であって,その破棄は非難されるものではないとする。
しかし,同盟関係を一方的に破棄していることや,姻族を謀殺していること自体は否定しておらず,戦国時代では珍しいことではない,という程度のフォローに留まる。
同盟破棄や親族・姻族での紛争など当たり前で,江戸時代以降,儒教的観点から後付けで批判されただけであるから,その程度のフォローで十分ではある。
宇喜多秀家については,豊臣政権内での地位の内実とその形成過程に力点を置いた解説がされている。
エピソードの紹介は少ない。
その代わり,宇喜多氏を取り巻く政治情勢の変化や宇喜多氏の経済基盤などに力点が置かれている。
ただし,資料が少ないため,かなりの部分を推論により,結論も慎重であるため,単なる読み物と期待すると,読み進められない。