政治的なものの概念

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制作 : 田中 浩  原田 武雄 
  • 未来社 (1970年発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (128ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784624300128

政治的なものの概念の感想・レビュー・書評

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  • シュミットも前々から気になっていたのだけど、何を読んだらいいのかよくわからなくて放置していた。ところが先日読んだ『<帝国>』で次のような記述に出会った。

    「「政治的なものの自律性」という概念は政治神学の伝統に属するものであり、それに最初に重大な定義をあたえたのは、政治神学家たるトマス・ホッブズであった。この概念をもっとも高みにまで押し上げたのが、カール・シュミットである」「政治的なものとは、ここではあらゆる社会的関係の基礎としてあり、権力の領域を構築し、それによって生の空間を保障する、始原的な価値評価あるいは「決断」であるとして理解されている。興味深いのは、シュミットによる政治的なものの概念が、国民国家の法制的定義と分かちがたく結びついており、その領域の外部では構想しえないということである」(p527)

    「政治的なものの自律性」については、「政治的なるものの相対的な自律性」という形で先日読んだローハン・マックウイリアムの『一九世紀イギリスの民衆と政治文化』で取り扱われているのを知った。この見方は、経済決定論以外の政治についてなんとか新しい視点はないのかなあ、とぼんやり考えていた僕にとってはけっこう衝撃的だった。そしたらまた『<帝国>』で政治の自律性についてシュミットが考えているということを知り、これは読んでみようと思ったのだ。

    というわけで、随分前フリが長くなってしまった。政治的なるものの概念については、美術の概念が美醜、経済の概念が効率・非効率であるように、「友・敵」であるということだそうだ。まあこれじたいは色んなところで引用されている議論なので、ああそうなんだ、という感じだ。

    むしろびっくりしたのは、「個人的自由主義」を徹底的に攻撃しようとしているスタンスだ。なぜ「個人的自由主義」を批判するかというと、「結局はすべて、ただ倫理・経済の両極をめぐるだけの、このような定義や論理構成をもってしては、国家・政治を根絶することはできず、世界を非政治化することもできはしない」(p101)からだという。

    要するに、個人主義になると、みんな我侭勝手に「金が全て」と金儲けに突っ走る人と、道徳的にそれはどうかなあと言う人のぶつかり合いになって、そこには解決はありえないという考え方なんだろうと思う。具体的にはp91あたり参照。

    そういう風に個人主義を批判しておいて、国家をこそ「単位であり、しかも決定的な単位」(p44)としてみる(「決定的な単位」というのはよくわからないが、要するに戦争に人びとを実際に連れていけるのは国家だけだ、という生殺与奪の権限をもつ国家の強力さを言っているのだと思う)。そう考えると、交戦権をもつのは国家だけである。それゆえに、国家は「国家およびその領土の内部において、完全な平和をもたら」す(p48〜49)。そこには、明確には語られていないけれど、国家が個人を超越するような論理が垣間見られる。

    国家が個人に勝るような考え方は僕としては嫌なのだけど、それでもシュミットが今日にまで読み継がれているのはなぜか。それは、やはりひとつは「個人的自由主義」への懐疑が、今日においても存在しているからなのかなあ、と思う。まあ、本当に国家が個人に勝るべき、と考えている人も居ると思うけど。

    もうひとつシュミットが読まれる理由は、「友・敵」論を知って克服することによって、完全な自律した個人による社会へ近づけるのでは?という点にありそうだ。

    完全に自律した個人を至上の価値としてみなす場合、とるべき道はふたつある。ひとつは、その完全なところへむかって努力するか。もうひとつは、諦めて不完全なままで妥協の道を探るか、シュミットは後者の立場だと思う。そして、シュミットは国家への依存へその方向を見出していこうとした。

    だけど、前者の立場の人にとっても、シュミットが示したイメージは途中までは共通していると思う。今のところ、自律しえない弱い不完全な人間によって世界は構成されている。そうなると、人間は味方と敵を作らざるをえない。そこで、味方を守るために国家を作ると、シュミットの考え方に行ってしまうので、「友・敵」論という考え方を逆説的に利用してみたらどうなるか。

    つまり、不完全な人間は味方とか敵とかを作り出してしまう、というのならば、味方とか敵とかを意識するのをやめてしまえば、完全に自律した個人によって構成される社会へと一歩近づけるのではないか、ということだ。このヒントを与えてくれているからこそ、シュミットが今日においても読まれる価値があるものとして評価されているのではないだろうか。

    しかし実際に経済的な側面や、倫理的な側面での「友・敵」観念を排除するのは容易なことではない。マルクスの場合、本書でも触れられているように、この「友・敵」観念をプロレタリア対ブルジョアジョーの闘争に全て一元化し、前者が後者を倒すことによって「友・敵」論を揚棄しようとしたわけだが、なかなかそういうわけにはいかなかった。一人の人間が、ラスキの言う以上に、多元的な所属を持つ存在である以上、多元性を維持しうつつどうやって「友・敵」観念を揚棄していくか。問題はあまりにも巨大で、どうしたらいいのか僕のような凡人は呆然とならざるをえない。ほんと、どうしたらいいんだろ。

  • 政治とは何であるか。この、政治学にとって根本的かつ最終的な問いに対する解答を示したのが本書の第一の意義である。政治学の教科書を開けば、ウェーバー=シュミットの垂直的政治観とアレントの水平的政治観の対比が確認できる。もちろん、シュミットにしてもアレントにしても、政治に対して万能な解答を示したとはいえない。しかしながら、政治の本質を考える上でシュミットの見解を踏まえないのは、全くの論外である。
    仮に彼の人間本性に基づいた友敵理論が妥当であり、我々が敵を敵と認識として殲滅しなければならないとしても、我々は異質な他者と共生しなければならないのである。だとすれば……これが現代正義論が克服すべき障壁なのである。

  • 1927年にカール・シュミットが発表した政治学の小論。

    《政治的な行動や動機の基因と考えられる、特殊政治的な区別とは、友と敵という区別である。》(p.15)

    《友・敵概念は、隠喩や象徴としてではなく、具体的・存在論的な意味において解釈すべきである。》(p.17)

    《究極的な政治手段としての戦争は、すべての政治的概念の基礎に、この友・敵区別の可能性が存在することを露呈するものである。》(p.31)

  • 有名な友敵理論について書かれた本です。 友と敵とを区別して対立する、それが政治だとするシンプルな見方なので、共同的な行為に対する目線がないという批判がありますが、時代状況を考えれば厳しい時代ほどシュミットの論が必然性を帯びてくる、という状態であり、今のような時代こそ必要な論考であるといえます。

  • 公法学者であるカール・シュミットが、そうした法や法秩序としての国家、経済的領域としての社会などは、すべて「政治的なもの」によって基礎づけられているのであるという主張を展開する。その「政治的なもの」の徴憑は「友―敵関係」である。こうした視点であらゆる対立を観察すると、すべてが「政治的なもの」のうちに回収されていく。しかし中でも、決定的事態に際して決定する権力としての「主権」を有する政治的単位=国家こそが、「政治的なもの」の中でも特に重要である。政治の価値をいかなる基準によって判定するか、ということを考える際に、このシュミットの「政治的なもの」をめぐる議論は無視できないに違いない。

  •  (公)敵の概念は、日本ではなじみの薄いものであるように思われる。確かに戦前は軍国主義であったし、戦後も冷戦に巻き込まれて赤狩りを展開した。しかし、戦前のそれは宗教的含意と私情が濃厚なものであったし、戦後のそれは半分お遊びのようなものであり、命を賭けて戦うものではなかった(敵の側には命を落とすことまで命じる用意があったのかもしれないが)。
     シュミットのいう政治的なものの標識は、ヘーゲルのいわゆる国家を慎重に考慮しつつ、一般的にいわれるところの国家とその機能としての政治とは切り離されたものとして、提示される。これは、あらゆる領域が政治的なものの範疇に含められる可能性と、政治的なものの消滅が逆説的に国家の消滅を意味するという結果を表す。
     この帰結は自由主義批判と国連批判として非常に強力である。国連が存在する限り、普遍的世界は訪れないし、自由主義は非政治的であろうとするがゆえに政治的である。
     シュミットの思想は、洗練され、鋭敏であるゆえに、人を惹きつけるものがある。しかし、彼の政治標識が西欧で広く受け入れられるものであるとすれば、それはやはり恐ろしいことであり、政治的なものを無条件で肯定することの危険性は明白である。同時に、政治的なものが無尽蔵に生じ続けることの必然性を示している。

     個人的に面白かったのは、法学について、誰が権力を握っているかだけだろう、ときって捨てているところ。身もふたもないw

  • 資本主義や共産主義の負の面を解決した思想がある!
    知りたいかな?かな?答えはシュミット先生に聞こう。
    その思想は、残念ながらナチズムに利用されちゃいました。あうあう

    本の題の「政治的なものの概念」とは、所詮仮のものにすぎぬ・・・
    実は、人が他の人をなぜ支配するのか?を考察してます。
    なんか不気味なキーワード、「友・敵」を使って。
    支配されている大多数の人。これを読んでどう思う?
    ちゃんと反論できますか?あうあう

  • 12/05/03、神保町・澤口書店で購入。(古本)

  • 読了—1月4日
    【まとめ】
     国家という概念は、政治的なものを前提としており、国家の政治的な行動や動機の基になる特殊政治的な区別とは「友敵」区別である。これは経済の「利害」、道徳の「善悪」に類いする標識であるのだが、友•敵区別こそが特殊政治的なものであり、この特殊な対立を、(倫理や経済など)他の諸概念の対立から分離し、独立的なものとしてとらえることができるそのことによって、国家を主権国家たらしめる。
     友/敵、闘争という概念の背後には、戦争の現実可能性が常にある。政治的なるものは、戦争という例外状況において、だれが自分たちの敵なのかという友/敵区別を独自に行なうことを可能にする主体、すなわち常に人間の生命を支配する権利をゆうすという意味で、他の諸団体よりも優位にある政治的単位、つまり「主権をもつ」単位である。

    【感想】
     まとめると非常にシンプルになったが、難しかった。不思議と読んでいくと面白く、破壊力があるように感じる。
     特殊政治的区別である友/敵区別は、敵か味方かという二者択一を迫る理論に、戦争の現実可能性を前提とする政治的なものの概念は、好戦的であると解されるという弱点があるようにも見受けられる。また、自分が破壊力があるように感じる理由の一つに、友/敵結束によって追放、殲滅という戦争まで想定した相手、敵との間には、やるかやられるかしかないように感じるからだ。つまり、国家の最低限の機能、政体を保持したままで戦略を変え、友/敵結束を組み替える発想が本書では伺えない。状況に照らし合わせ、敵が味方に、味方が敵になる流動性が感じられず、ナチズムに見られたように自己破壊装置を内蔵した概念にも思える。
     このシンプルかつ破壊力のある政治理論へたどり着くまでに、政治的思考における法解釈や多元的国家論批判、自由主義批判があり、いままで政治学といえば欧米系の権力の配分や政治システムを考えていたものとしては、多々ショックを受け、それゆえ興味深い理論だと思った。ナチズムとの関係など、ますますシュミットに興味が出てきた。

  • カールシュミットの代表作。

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