政治的なものの概念

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  • Amazon.co.jp ・本 (128ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784624300128

作品紹介・あらすじ

「政治の本質は、友と敵の区別にある」。政治的なものの根拠を求めるシュミットの原理的思考の到達点「友・敵理論」は政治理論でありそして戦争論でもある。必携の基本文献。
目次
政治的なものの概念
カール・シュミットの「友・敵」理論(田中浩)

感想・レビュー・書評

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  • 20世紀ドイツの政治哲学者カール・シュミット(1888-1985)の代表作、1927年発表、1932年出版。政治の本質としての「政治的なもの」を概念化し、政治権力の暴力性の意味を追究する。なおシュミットは、1933年の全権委任法成立後、ヒトラー支持を公言し、ナチスを理論的に支えていくことになる。

    □ 友/敵

    政治的なものの本質は、友/敵の区別にある。ちょうど、道徳的なものの本質が善/悪を区別することにあるように。美的なものの本質が美/醜を区別することにあるように。経済的なものの本質が利/害を区別することにあるように。あらゆる政治的な実践や動機は、誰が自分にとって友であり敵であるのかという区別が為されることによって、はじめて有意味なものとなる。こうした友/敵の区別は、他の領域における諸区別に還元することができないのであり、この点から他の諸領域に対する政治的な領域の独立性が導かれる。

    このように、政治的なものは、敵の存在を論理的に要請する。ここでいう敵とは、実存的な意味での他者のことである(そして他者とは、自己に対して疎遠な存在、その定義からして、自己と非和解的で共約不可能な存在のことである)。つまり、他者が存在する以上、人間は決して政治から逃れることはできない。さらに、敵という概念には闘争の現実的可能性が含意されている。そして闘争とは、究極的には他者の存在の否定、則ち物理的殺戮のことである。このように、政治的なものは、戦争の現実的可能性を論理的に内包している。つまり、政治から逃れることができない以上、人間は決して戦争の現実的可能性からも逃れることはできない。ここに、政治というものが人間に対していかに決定的な力を及ぼすものであるのか、ということの理由がある。

    「政治的なものは、闘争自体にあるのではなく[略]、この[闘争の]現実的可能性によって規定された行動に、またそれによって規定された自己の状況の明瞭な認識に、さらには、友・敵を正しく区別するという課題にあるのである」(p33-34)。

    このように、シュミットの「政治的なもの」の概念は、それが他者の他者性を徹底的に突き詰めた先に立ち現れるという点に、その特異性があるといえる。

    「したがって、政治的思考および政治的本能は、理論的にも実際的にも、友・敵を区別する能力によって実証される。重大な政治のクライマックスは同時に、敵が具体的な明瞭さで敵として認識される時点なのである」(p84)。

    □ 例外状況における決断

    政治的単位としての国家は、例外状況という、秩序が不安定化した状態(例えば戦時で民主的諸制度が機能不全に陥った場合など)において、誰が自分にとっての友であり敵であるのかを区別し、何が自分にとって利益であるのかを決定し、それに基づいて自分にとって最も有利な秩序を措定しようとする。そのさい国家は、一切の外的価値に依拠することなく、ただ自己の決断によって、新たな秩序を現出させる。この決断の絶対的な無根拠性が、政治的単位としての国家を他の集団から区別する。

    このように、例外状況において決断を下す者を、主権者という。主権者としての国家は、自らが措定した秩序が何者かによって侵害される場合には、その者を敵と定め、当該秩序の外部において、つまり暴力的闘争によって、新たな秩序を措定しようとする。こうして、主権者としての国家は、必然的に交戦権をもつことになる。人びとの生命を左右する力をもつという点でも、国家は他の集団から区別される。

    「政治的単位は、およそそれが存在するかぎりはつねに、決定的単位なのであって、かつ、例外的事態を含め、決定的事態についての決定権を、概念上必然的につねに握っていなくてはならない、という意味において「主権をもつ」単位なのである」(p36)。

    印象的なのは、政治的な決断の責任から逃避しようとする者は、政治的独立を喪失し他者の支配のもとにおかれてしまうことになる、とシュミットが繰り返し述べていることである。つまり、政治は、人間が自由で独立した存在であろうとするかぎり、決して逃れることのできない宿命であるとされる。以下に引用するような「政治的決断⇔主権⇔交戦権⇔政治的独立」という論理は、戦後になって保守派が日本国憲法九条の平和主義を批判する際にも援用している。シュミットは、そうした保守派の思想的起源にもなっているらしい。

    「国民が政治的なものの領域内に存在する限りは、[略]友・敵の区別を国民自身が定めなければならない。この点に、国民が、政治的に存在することの本質がある。この区別をする能力ないし意志を欠くとき、国民は政治的な存在であることをやめてしまう。みずからの敵がだれなのか、だれに対して自分は戦ってよいのかについて、もしも他者の指示を受けるというのであれば、それはもはや、政治的に自由な国民ではなく、他の政治体制に編入され従属させられているのである」(p55)。

    「もしも、一国民が、政治的生存の労苦と危険とを恐れるなら、そのときまさに、この労苦を肩代わりしてくれる他の国民が現われるであろう。後者は、前者の「外敵に対する保護」を引き受け、それとともに政治的支配をも引き受ける。この場合には、保護と服従という永遠の連関によって、保護者が敵を定めることになるのである」(p59)。

    「一国民が、あらゆる政治的決定を放棄することによって、人類の純道徳的ないし純経済的な状態を招来することなどはありえないのである。一国民が、政治的なものの領域に踏みとどまる力ないし意志を失うことによって、政治的なものが、この世から消え失せるわけではない。ただ、いくじのない一国民が消え失せるだけにすぎないのである」(p61)。

    政治的現実を忌避しそこから身を引こうとする態度の背後には、政治的決断の無根拠性、無意味性、そこに垣間見えるニヒリズムの深淵から目を背けたい、という欲望があるのかもしれない。逆にいえば、シュミットには、「政治的なもの」が世界の無意味性と直接的に対峙する、ということへの深い洞察があったのではないか。それが、彼の政治理論の一種異様な魅力につながっているのではないかと思う。

    □ 自由主義批判

    シュミットが本書において批判の標的としているもののひとつに、自由主義的政治理論(および民主主義的諸制度)がある。

    そもそも自由主義は、「政治的なもの」を回避しようとする傾向にある。なぜなら、自由主義の根底には個人主義があり、自由とは何よりもまず個人の自由とされるが、「政治的なもの」の概念からは、敵との闘争において生命を犠牲にするよう命令する国家の存在が導出されることになり、それは個人主義の価値観からは容認できるものではないから。ここに、国家に対する自由主義側からの不信の根拠がある。自由主義にとっては、国家は、せいぜい人びとの自由・生命・財産を守る手段としてのみ正当化される必要悪にすぎない。

    こうして自由主義は、「政治的なもの」を倫理や経済の概念として解釈し直すことで、その「政治性」「暴力性」を解消しようとする。しかし、外見だけ非政治的な用語に置き換えてみても、政治的な敵対関係そのものが解消されるわけではなく、政治性は姿を変えて生き残り続けるだけだ、とシュミットは批判する。たとえば、帝国主義諸国の経済的な対立関係が政治的な敵対関係となり、そこで用語の上でのみ経済的なだけでその実は政治的な暴力的手段が行使されるように。なおシュミットは同様な例として、一見普遍的であるがゆえに非政治的であるかのごとく錯覚してしまいがちな「人類」概念や「国際連盟」がもつ政治性についても指摘している。

    シュミットの「政治的なもの」概念は、政治や国家が本質的に内包している暴力性を存在論的に導出しようとしたものであるといえる。確かにこれは、自由主義的政治理論によっては果しえなかったことではある。ファシズムとその悲劇という歴史を経た現在、シュミットはどのように批判されているのか、またシュミットの問題提起を受けてどのような政治理論が提示されているのか。

    • transcendentalさん
      りまのさん
      コメントありがとうございます。

      シュミットはそういうことを言っていますね。政治は生臭くて泥臭いものだからと目を背け続けて...
      りまのさん
      コメントありがとうございます。

      シュミットはそういうことを言っていますね。政治は生臭くて泥臭いものだからと目を背け続けていると、「敵」による支配というもっと過酷な「政治」に見舞われてしまうのであり、政治というものから逃れることは不可能なのだ、と。なかなかしんどい結論だなと感じています。
      2021/02/14
    • りまのさん
      コメントありがとうございます。頭の刺激になりました。よろしくどうぞ。 りまの
      コメントありがとうございます。頭の刺激になりました。よろしくどうぞ。 りまの
      2021/02/14
    • transcendentalさん
      こちらこそ読んでいただけて嬉しいです。ありがとうございます。
      こちらこそ読んでいただけて嬉しいです。ありがとうございます。
      2021/02/14
  • シュミットも前々から気になっていたのだけど、何を読んだらいいのかよくわからなくて放置していた。ところが先日読んだ『<帝国>』で次のような記述に出会った。

    「「政治的なものの自律性」という概念は政治神学の伝統に属するものであり、それに最初に重大な定義をあたえたのは、政治神学家たるトマス・ホッブズであった。この概念をもっとも高みにまで押し上げたのが、カール・シュミットである」「政治的なものとは、ここではあらゆる社会的関係の基礎としてあり、権力の領域を構築し、それによって生の空間を保障する、始原的な価値評価あるいは「決断」であるとして理解されている。興味深いのは、シュミットによる政治的なものの概念が、国民国家の法制的定義と分かちがたく結びついており、その領域の外部では構想しえないということである」(p527)

    「政治的なものの自律性」については、「政治的なるものの相対的な自律性」という形で先日読んだローハン・マックウイリアムの『一九世紀イギリスの民衆と政治文化』で取り扱われているのを知った。この見方は、経済決定論以外の政治についてなんとか新しい視点はないのかなあ、とぼんやり考えていた僕にとってはけっこう衝撃的だった。そしたらまた『<帝国>』で政治の自律性についてシュミットが考えているということを知り、これは読んでみようと思ったのだ。

    というわけで、随分前フリが長くなってしまった。政治的なるものの概念については、美術の概念が美醜、経済の概念が効率・非効率であるように、「友・敵」であるということだそうだ。まあこれじたいは色んなところで引用されている議論なので、ああそうなんだ、という感じだ。

    むしろびっくりしたのは、「個人的自由主義」を徹底的に攻撃しようとしているスタンスだ。なぜ「個人的自由主義」を批判するかというと、「結局はすべて、ただ倫理・経済の両極をめぐるだけの、このような定義や論理構成をもってしては、国家・政治を根絶することはできず、世界を非政治化することもできはしない」(p101)からだという。

    要するに、個人主義になると、みんな我侭勝手に「金が全て」と金儲けに突っ走る人と、道徳的にそれはどうかなあと言う人のぶつかり合いになって、そこには解決はありえないという考え方なんだろうと思う。具体的にはp91あたり参照。

    そういう風に個人主義を批判しておいて、国家をこそ「単位であり、しかも決定的な単位」(p44)としてみる(「決定的な単位」というのはよくわからないが、要するに戦争に人びとを実際に連れていけるのは国家だけだ、という生殺与奪の権限をもつ国家の強力さを言っているのだと思う)。そう考えると、交戦権をもつのは国家だけである。それゆえに、国家は「国家およびその領土の内部において、完全な平和をもたら」す(p48〜49)。そこには、明確には語られていないけれど、国家が個人を超越するような論理が垣間見られる。

    国家が個人に勝るような考え方は僕としては嫌なのだけど、それでもシュミットが今日にまで読み継がれているのはなぜか。それは、やはりひとつは「個人的自由主義」への懐疑が、今日においても存在しているからなのかなあ、と思う。まあ、本当に国家が個人に勝るべき、と考えている人も居ると思うけど。

    もうひとつシュミットが読まれる理由は、「友・敵」論を知って克服することによって、完全な自律した個人による社会へ近づけるのでは?という点にありそうだ。

    完全に自律した個人を至上の価値としてみなす場合、とるべき道はふたつある。ひとつは、その完全なところへむかって努力するか。もうひとつは、諦めて不完全なままで妥協の道を探るか、シュミットは後者の立場だと思う。そして、シュミットは国家への依存へその方向を見出していこうとした。

    だけど、前者の立場の人にとっても、シュミットが示したイメージは途中までは共通していると思う。今のところ、自律しえない弱い不完全な人間によって世界は構成されている。そうなると、人間は味方と敵を作らざるをえない。そこで、味方を守るために国家を作ると、シュミットの考え方に行ってしまうので、「友・敵」論という考え方を逆説的に利用してみたらどうなるか。

    つまり、不完全な人間は味方とか敵とかを作り出してしまう、というのならば、味方とか敵とかを意識するのをやめてしまえば、完全に自律した個人によって構成される社会へと一歩近づけるのではないか、ということだ。このヒントを与えてくれているからこそ、シュミットが今日においても読まれる価値があるものとして評価されているのではないだろうか。

    しかし実際に経済的な側面や、倫理的な側面での「友・敵」観念を排除するのは容易なことではない。マルクスの場合、本書でも触れられているように、この「友・敵」観念をプロレタリア対ブルジョアジョーの闘争に全て一元化し、前者が後者を倒すことによって「友・敵」論を揚棄しようとしたわけだが、なかなかそういうわけにはいかなかった。一人の人間が、ラスキの言う以上に、多元的な所属を持つ存在である以上、多元性を維持しうつつどうやって「友・敵」観念を揚棄していくか。問題はあまりにも巨大で、どうしたらいいのか僕のような凡人は呆然とならざるをえない。ほんと、どうしたらいいんだろ。

  • 小樽商科大学附属図書館電子ブックへのリンク
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  • 有名な友敵理論について書かれた本です。 友と敵とを区別して対立する、それが政治だとするシンプルな見方なので、共同的な行為に対する目線がないという批判がありますが、時代状況を考えれば厳しい時代ほどシュミットの論が必然性を帯びてくる、という状態であり、今のような時代こそ必要な論考であるといえます。

  • 公法学者であるカール・シュミットが、そうした法や法秩序としての国家、経済的領域としての社会などは、すべて「政治的なもの」によって基礎づけられているのであるという主張を展開する。その「政治的なもの」の徴憑は「友―敵関係」である。こうした視点であらゆる対立を観察すると、すべてが「政治的なもの」のうちに回収されていく。しかし中でも、決定的事態に際して決定する権力としての「主権」を有する政治的単位=国家こそが、「政治的なもの」の中でも特に重要である。政治の価値をいかなる基準によって判定するか、ということを考える際に、このシュミットの「政治的なもの」をめぐる議論は無視できないに違いない。

  •  (公)敵の概念は、日本ではなじみの薄いものであるように思われる。確かに戦前は軍国主義であったし、戦後も冷戦に巻き込まれて赤狩りを展開した。しかし、戦前のそれは宗教的含意と私情が濃厚なものであったし、戦後のそれは半分お遊びのようなものであり、命を賭けて戦うものではなかった(敵の側には命を落とすことまで命じる用意があったのかもしれないが)。
     シュミットのいう政治的なものの標識は、ヘーゲルのいわゆる国家を慎重に考慮しつつ、一般的にいわれるところの国家とその機能としての政治とは切り離されたものとして、提示される。これは、あらゆる領域が政治的なものの範疇に含められる可能性と、政治的なものの消滅が逆説的に国家の消滅を意味するという結果を表す。
     この帰結は自由主義批判と国連批判として非常に強力である。国連が存在する限り、普遍的世界は訪れないし、自由主義は非政治的であろうとするがゆえに政治的である。
     シュミットの思想は、洗練され、鋭敏であるゆえに、人を惹きつけるものがある。しかし、彼の政治標識が西欧で広く受け入れられるものであるとすれば、それはやはり恐ろしいことであり、政治的なものを無条件で肯定することの危険性は明白である。同時に、政治的なものが無尽蔵に生じ続けることの必然性を示している。

     個人的に面白かったのは、法学について、誰が権力を握っているかだけだろう、ときって捨てているところ。身もふたもないw

  • 資本主義や共産主義の負の面を解決した思想がある!
    知りたいかな?かな?答えはシュミット先生に聞こう。
    その思想は、残念ながらナチズムに利用されちゃいました。あうあう

    本の題の「政治的なものの概念」とは、所詮仮のものにすぎぬ・・・
    実は、人が他の人をなぜ支配するのか?を考察してます。
    なんか不気味なキーワード、「友・敵」を使って。
    支配されている大多数の人。これを読んでどう思う?
    ちゃんと反論できますか?あうあう

  • 12/05/03、神保町・澤口書店で購入。(古本)

  • 読了—1月4日
    【まとめ】
     国家という概念は、政治的なものを前提としており、国家の政治的な行動や動機の基になる特殊政治的な区別とは「友敵」区別である。これは経済の「利害」、道徳の「善悪」に類いする標識であるのだが、友•敵区別こそが特殊政治的なものであり、この特殊な対立を、(倫理や経済など)他の諸概念の対立から分離し、独立的なものとしてとらえることができるそのことによって、国家を主権国家たらしめる。
     友/敵、闘争という概念の背後には、戦争の現実可能性が常にある。政治的なるものは、戦争という例外状況において、だれが自分たちの敵なのかという友/敵区別を独自に行なうことを可能にする主体、すなわち常に人間の生命を支配する権利をゆうすという意味で、他の諸団体よりも優位にある政治的単位、つまり「主権をもつ」単位である。

    【感想】
     まとめると非常にシンプルになったが、難しかった。不思議と読んでいくと面白く、破壊力があるように感じる。
     特殊政治的区別である友/敵区別は、敵か味方かという二者択一を迫る理論に、戦争の現実可能性を前提とする政治的なものの概念は、好戦的であると解されるという弱点があるようにも見受けられる。また、自分が破壊力があるように感じる理由の一つに、友/敵結束によって追放、殲滅という戦争まで想定した相手、敵との間には、やるかやられるかしかないように感じるからだ。つまり、国家の最低限の機能、政体を保持したままで戦略を変え、友/敵結束を組み替える発想が本書では伺えない。状況に照らし合わせ、敵が味方に、味方が敵になる流動性が感じられず、ナチズムに見られたように自己破壊装置を内蔵した概念にも思える。
     このシンプルかつ破壊力のある政治理論へたどり着くまでに、政治的思考における法解釈や多元的国家論批判、自由主義批判があり、いままで政治学といえば欧米系の権力の配分や政治システムを考えていたものとしては、多々ショックを受け、それゆえ興味深い理論だと思った。ナチズムとの関係など、ますますシュミットに興味が出てきた。

  • カールシュミットの代表作。

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