修道院にみるヨーロッパの心 (世界史リブレット)

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著者 : 朝倉文市
  • 山川出版社 (1996年4月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (94ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784634342101

修道院にみるヨーロッパの心 (世界史リブレット)の感想・レビュー・書評

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  • 修道会の歷史的変遷を整理した本である。第一章では、日本人のヨーロッパ観が近代・都市・プロテスタントに偏っているので中世・農村・カトリックの理解が必要で、そこに自由・人権などを生み出した欧州文明の底力があると指摘している。第二章は「修道士の出現」である。ローマ時代、キリスト教徒は迫害されたが、ミラノ勅令(313)によりキリスト教が公認されると殉教者にかわり苦行者が出て「血を流さない殉教」がはじまる。つまり、荒野で暮らす修道者が現れ、彼らは経験深い長老のもとにあつまった。323年エジプトの廃村にできた集団が修道院の起源らしい。長老はパコミウスであった。外界から隔絶し、食事・典礼を共同で行い、衣類・労働も均一な生活を送った。第三章は、聖ベネディクトゥス(480〜550)とベネディクト会がテーマである。ベネディクトゥスはイタリアのモンテ・カッシノに修道院(529)をつくり、「西欧修道制の父」といわれる。ヌルシアの名門の生まれで、ローマに行き学問をしようとしたが多くの学生が堕落しているのをみて、学問を断念、財産をすて神への奉仕に生きた。ここに「学ある無知」という修道院文化の萌芽がある。ちなみに中世をモンテ・カッシノ修道院の成立からとする見方もある。彼の書いた『聖ベネディクトゥス戒律』(540?)は財産を放棄し手の労働で生活し(清貧)、生涯独身をとおし(貞潔)、酒・肉などを絶ち、共同で祈祷するというものである。学校や図書館の運営、薬学や神学書の研究保存(筆写)も事業であった。『戒律』を初めて採用したのは七世紀末のイングランドであった。イングランドはカンタベリーのアウグスティヌスらによって布教され、ウィルフリド(630-709)が『戒律』を採用した。修道士の役割に異教徒の改宗があり、ゲルマニアに布教したポニファティウスは743年、『戒律』の遵守をかかげて、747年ごろマインツ大司教となる。カール大帝(768〜814)の最初の勅令は修道院に『戒律』の遵守をもとめた「ヘリスタル勅令」(779)で、以後、フランク王国でも『戒律』が採用される。異教徒に宣教する修道士はみな文法学者であった。「文法学者」とはラテン語聖書をよむ能力を意味する。第三章は「クリュニー修道院」である。10世紀になると貴族たちが権威づけと財産の安定をもとめ、修道院に土地を寄進するようになる。カール大帝の死後、987年にカロリング朝が断絶すると、ノルマン人の侵入・イスラムの攻撃などで教会や修道院は略奪にあい、妻子や兵士をかかえた俗人修道院長もでた。909年、アキテーヌ侯ギヨームは自分の荘園内に「クリュニー修道院」をたて、ベルノンを院長とした。この修道院は以後200年の間にヨーロッパ各地に1500あまりの娘修道院をつくり、修道院連合(「クリュニー帝国」)をつくるにいたる。クリュニー修道院の役割は「代祷」であり、人々のために神に「とりなし」を行うことであった。当時の貴族は『戒律』に従う修道士と兄弟の誓いを交わして死後の救いを求めた。「煉獄」という言葉ができたのもこのころで、死後の魂が苦しむという民間信仰をキリスト教にとりこんだ。クリュニー修道院のもとには財産があつまり、修道士たちは一日中祈るだけで手の労働からはなれていく。また「美の奉納」という考えのもと、教会や典礼も荘厳になり、芸術も修道院のものとなっていった。一方、こうした変質に対する疑問もうまれ、ロッサのニルス(905?-1005?)ら隠修士らがあらわれ、ロムアルドゥスの設立したカマルドリ会などの修道院改革も起こる。ブルーノ(1030?-1101)らが設立した「シャルトルーズ会」(1084)はスタンダールの小説『パルムの僧院』で知られる。また、聖堂参事会員という人たちがおり、彼らは清貧・貞潔・服従の誓いを公にしていない司祭だが、彼らの中にも使徒的生活をする者がでて、『聖アウグスティヌス会則』(1067、ランス)がつくられる。旅には杖一本のほか何ももたず、パンも袋も金ももたず、下着も二枚着ないで、私有財産をもたず、財産は共有するという生活をした。第四章は「シトー会修道院」である。1098年、ロベルトゥスらが森林の奥シトーの地に修道院をつくったのがはじまりで、1106年認可される。シトー会は、外套・毛皮・頭巾・櫛・脂など『ベネディクトゥス戒律』にないものは何でも放棄した。ただし他の修道院と同様に10分の1税はとり、司教・小教区・賓客・貧者のために四分して使っていた。シトー会の娘修道院、クレルヴォー修道院長ベルナルドゥスは「贅沢にたいする論考」を著し、クリュニー会と論争した。また、第二回十字軍の勧説は多くの人を動かし、彼がやってくると母親は息子を妻は夫を隠したという伝説がある。第五章は「托鉢に生きた人びと」であり、ドミニコ会・フランシスコ会の「托鉢修道会」がテーマである。それまでの修道会は基本的に共住修道制をとっていたが、都市の発展にともない、都市住民が福音書を遵守する生き方に憧れをいだく。こうした憧れはときに「カタリ派」などの異端に走る傾向もあり、ここに旅をして説教する必要性がでてくる。ドミニクス(1170-1221)はスペイン人で、オスマ司教ディエゴの聖堂律修参事員であった。彼は南フランスでカタリ派の民衆運動を目撃し、教皇からカタリ派への説教を託される(1204)。ドミニコ会(「カトリックの貧者」という説教兄弟会)は1208年認可され、異端者を正統カトリック教会につれもどした。1215年、司教だけに認められていた説教をいつでもどこでもできることが許可される。ドミニコ会は「観想し観想の果実を他の人々に述べ伝える」ことがその精神であり、「個人的使命」「福音の宣教」「完全な清貧」(私有財産だけでなく共同財産も放棄して善意の施しに任せる)「巡回」(休まず旅する)、「共同体」(巡回に二人でいき、愛徳を実践する)などの特徴がある。基本的には修道院を基地にして旅暮らしの宣教生活をおくるのである。アッシジのフランシスコ(1181-1226)はイタリア中部の人、若い頃は騎士で、都市戦争に参加したが捕虜となり病を得たのを期に回心、ハンセン病者介護や礼拝堂再建の生活をはじめ、司教の保護にされた。11人の仲間とともに教皇のもとにいき、1210年「小さな兄弟会」の認可をうける。初期フランシスコ会は財産の共有も否定し手の仕事と托鉢で生計をたて、旅では野宿をしたり修道院の玄関をかり、日雇現物支給の労働だけで旅をつづけ、「金銭を小石以上につかわない」という生活を送った。しかし、会の発展にともない、1223年『第二会則』がうまれ、フランシスコは最初の仲間と会をはなれて山中に引きこもり没した。「太陽の歌」という詩がある。1230年、第二会則のみに従うことが宣言され、寄進された財産は「使用するのみで所有権は有しない」という原則をたてる。これらの托鉢修道院は福音書に原則をもとめ、そのまま生きようとした人々だった。第六章は「騎士修道会」である。聖ヨハネ騎士修道会(1120)・ドイツ騎士修道会(1190)・テンプル騎士修道会(1118)が三大騎士修道会であるが、前の二つは巡礼病院として認可され、十字軍とも関係があり、実際に戦闘も行った。中世では病気は罪であり、また神の試練であるから、病院には聖堂があった。テンプル騎士修道会は最初から修道会として認可され、シャンパーニュ伯ユーグらによって創設、クレルヴォーのベルナルドゥスに保護されていた。巡礼の保護、聖地防衛が任務であり、『アウグスティヌス戒律』に従い、清貧を守っていたが、13世紀になると富裕になり、フランス国王フィリップの援助で莫大な財産をもち金融業もした。1307年、フィリップ四世に招かれ、総長ジャク・ド・モレはテンプル騎士団を率い、パリにいくが、そこで国王顧問ギョーム・ド・ノガレに全員逮捕され、偶像崇拝・瀆神・不倫で弾劾、異端審問にかけられ、拷問のすえ火刑にされた。1311年ヴィエンヌ公会議で騎士修道会の廃絶が決議され、騎士階層も消えていった。全体として、なかなか複雑であった。現代の学校には時間割や制服といったものがある。仏教の伝統にもあるだろうが、日本が近代化の過程で参考にした西洋の教育制度にもこれらはあるだろう。そして、西洋の教育制度は修道院文化に根ざしているのである。また、ルターが聖書に依拠して起こした宗教改革もその母体は托鉢修道会である。ルターはアウグスティノ会(托鉢修道会)出身である。「禁欲」という概念について、原語であるギリシア語の「アスケーシス」はスポーツのトレーニングであり、これを人間的完成に移したのが修道院の「禁欲」で、その意味は「極めて積極的なことに集中する」ことを指すそうである。

  • 修道院の歴史の整理に良い。

  • ヨーロッパにおける修道院の移り変わりがよく分かる。淡々と書かれているので面白みはあまりない。

  • 物事の一つの結果には必ず外的要因と内的要因とがあり、従来の歴史教育では経済的・政治的な背景からの外的要因に主眼がおかれどちらかというと内的要因は無視されてきました。この本では、修道会の誕生から、修道会の代名詞とも言えるベネディクトゥス修道会、クリュニー修道会、シトー派修道会、托鉢修道会(ドミニコ修道会やフランチェスコ修道会)、騎士修道会(ヨハネ、ドイツ騎士団、テンプル)について教会内、キリスト教内からの刷新運動や個人の神へのあこがれという点から主導会を概観しています。こういう視点は逆に新鮮で面白く読むことができました。ただ、最初に述べたとおり物事への2方面からのアプローチのうち1つからしか述べてないので紙幅とともに内容も薄いのが難点です。

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修道院にみるヨーロッパの心 (世界史リブレット)の作品紹介

明治以来、日本がヨーロッパから学んだものは、技術中心の近代文明であった。人びとは、物質的な豊かさに達することによって精神的な豊かさを手にすることができると信じてきた。しかし、その豊かさを体験した今、人びとが手にしたのは心の荒廃であり、心の貧しさでしかなかった。今こそ私たちは、ヨーロッパの社会と文化を支えてきたキリスト教の精神に注目すべきではないだろうか。中世の修道士たちが聖書をいかに理解し、生きてきたか。その具体的な姿を時代の変化を通して描き、ヨーロッパの心を探究する。

修道院にみるヨーロッパの心 (世界史リブレット)はこんな本です

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