フランシスコ=ザビエル: 東方布教に身をささげた宣教師 (日本史リブレット人 44)

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  • 山川出版社
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  • Amazon.co.jp ・本 (95ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784634548442

感想・レビュー・書評

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  • 日本史リブレットシリーズ
    分かりやすくて良い資料だと思う
    西欧がどういう状況だったのか、日本はどのような状況でどう受け入れられたのか。
    ザビエルの人生はこの二つを解説して初めて理解できると思うのだけど、
    両方ともきちんと書いている本はなかなかないので貴重

  • 日本にキリスト教をもたらしたザビエル・・・というのは、日本の学校教育を受けた人ならばたいがい知っていると思うが、その生涯となると意外と知られていない。僕もよく知らなかった。読んでみると、ザビエルがインドに向かったのは、当初インドに布教予定だったニコラス=ボバディーリャが急病のため代理としてであった、などという点は面白かった。人生というのは、どこでどう転がるかわからないものである(ザビエルからすれば、神の導き、ということになるのだろうが)。


    ザビエルは体系的な著作や、日記を残していないそうだ。ゆえに、書簡から彼の思想を類推し、行動を読み解き、そのほか状況証拠を積み重ねて彼の思想や足跡を明らかにしていかねばならないという。この点、意外と史料が少ないのかと思い、印象に残った。

  • フランシスコ・ザビエル(シャヴィエル・葡、ハビエル・西)の一生を書いたブックレットである。ザビエルは1506年、スペイン・バスク地方ナバラ王国の城主の息子に生まれた。父はファン・デ・ハッス、母はマリア・デ・アスピルクエタである。11年スペイン王フェルナンド5世がフランス王ルイ12世に宣戦、スペインはナバラに動員をかけるが、ナバラは拒否、スペイン王の怒りをかい、15年ナバラはスペインに併合された。こうしてザビエルが幼い時、父は失意のうちに死亡、家督を継いだ兄ミゲルはフランスにつき、21年フランス・ナバラ連合軍はパンプローナでスペインを攻撃、このとき守備側にいたのがイグナティウスだった。ザビエルの兄とのちの盟友イグナティウスは敵だったのである。サビエルは軍人か高位聖職者になり、家を再興することを期待され、25年パリ大学にいく。30年哲学修士となり講義を担当、母方のサラマンカ大学教授マルティンを通じパンプローナ司教の座をねらっていた。29年ザビエルはイグナティウス・ロヨラと同室になる。はじめはロヨラを嫌っていたが感化され、修道者になる「大回心」をする。34年仲間7人とモンマルトルの丘で清貧・貞潔・エルサレム巡礼(もしくはローマ教皇の命じる所に行く)という誓いをたて、イエズス会が創建される。37年叙階、38年ローマに行く。40年イエズス会が認可される。イエズス会の組織は「コンパニーア」(中隊)と名づけられ、「神の軍隊」を自認していた。教会は宗教改革によって新たな枠組みを模索しており、布教保護権(教会が植民地教会の設立運営、人事の権限をもつ)をもとにイベリア両国の国家事業に便乗、イエズス会はポルトガルの布教保護権下にはいるインドに進出、スペイン系托鉢修道会はスペイン布教保護下の南アメリカに進出した。ポルトガルは1488年に喜望峰に到達、98年ヴァスコ・ダ・ガマがインド、カリカットに到達、1511年にはアフォンソ・デ・アルブケルケがマラッカを占領した。ポルトガルが侵入した航路は明の鄭和が南海遠征をしたあとに放棄していたものだった。1493年教皇アレキサンデル6世はアソーレス諸島とヴェルデ岬沖諸島の西100レグア(500km)を経度で区切った(デマルカシオン)。94年イベリア両国間で「トルデシーリャス条約」が結ばれ、デマルカシオンの境界線が西にずれ、ブラジルの一部がポルトガルに入った。ポルトガル王ジョアン三世は教皇にインドへ宣教師を派遣することを要請、総長ロヨラはシモン・ロドリゲスとニコラス・ボバディーリャを派遣することに決めたが、ボバディーリャが熱病にかかり、かわりにザビエルが派遣される。リスボンでロドリゲス(ポルトガル人)が国内に残ることになり、ザビエルだけが副王とともにインドに行く。ザビエルがインドのゴアについたのは1542年5月6日である。ゴアは16世紀初頭までビジャプール王朝(ササン朝)の領土だったが、1510年アルブケルケが陥落させた。インド布教は1500年カリカットにきたフランシスコ会に始まり、同会は32年にゴアに来ている。48年ドミニコ会、72年アウグスチノ会がゴアに着く。1534年、喜望峰から日本までを管轄するゴア司教区が設置された。サビエルが来た当時のゴアは聖パウロ学院が完成し、14の教会施設があり、聖職者も100人以上いた。ザビエルはタミール語を学び、公教要理を翻訳、漁師海岸で村人を一ヶ所に集めて公教要理を説明する「集団改宗」で一ヶ月に千人以上を改宗させた。1545年、ザビエルはマラッカにむかい、アンボン、テルナーテ、モロタイ島で布教をした。47年、マラッカで日本人アンジロー(薩摩人)と会う。日本の布教に希望をもったザビエルは49年マラッカを発つ。ポルトガルが日本についたのは、従来、文之玄昌(1555-1620、薩摩の僧)『鉄砲記』をもとに1543年とされてきたが、ヨーロッパ史料の整合性を考慮すると42年説が正しいらしい。鉄砲はポルトガル人が渡来する以前に倭寇によって中国・朝鮮経由で伝来していたという説があるが根據が薄弱だそうだ。ザビエルはポルトガル船では明に拿捕されるので中国人アバン(泥棒の意)の船で日本に向かった。同行者はトーレス、フェルナンデス、アンジローである。49年9月に薩摩の大名、島津貴久に謁見し、僧侶忍室と話す。50年アンジローを鹿児島に残し、平戸で松浦隆信に謁見、同年10月山口で大内義隆に謁見、51年堺の豪商日比屋了珪と会い、京都に向かうが戦乱で荒廃しており、天皇から布教許可をもらうことをあきらめ、平戸にもどり、また山口に移った。大友宗麟はポルトガル貿易の利益からキリスト教を擁護していた。ザビエルが日本で布教をしたのは二年三ヶ月で、1551年11月豊後からマラッカに発ち、52年2月ゴアに帰還し、中国へ行く決心をした。シンガポールをへて、8月末広東省の上川島に到着、11月迎えにくる商人を待っていたが熱病に倒れ、1552年12月3日午前2時、中国人アントニオに看取られ死んだ。遺体が腐らなかったそうで、ミイラ化した遺体がゴアに保存されている。1622年列聖。ザビエルにはいくつか奇跡があったそうで、十字架を海で落としたら蟹が十字架を届けにきたとか、死者を蘇らせたとか、盲目を治したとかである。ザビエルは日本人を高く評価したが、アンジローが「神」を「大日」と訳したために、日本の本地垂迹にとりこまれ、誤解を招いた。この誤解は仏教者との対話を可能にしたが、結局、キリスト教を正しく理解させることができず、「デウス」にかえた。キリシタンはザビエルらに「神は慈悲深くない」と言ったという。死んでしまった祖先は教えを知らずに死んだので、地獄で苦しんでいるからだ。キリシタンらは自らの祖先のため涙を流し、喜捨や供養で祖先を地獄から救う方法がないかと問うたが、ザビエルは「ない」と答えるしかなかった。トーレスが「十戒」に違わない生活をした者であれば救いの可能性はあるとしたのである。ここに「十戒」の自然法的理解が生まれる。ただし、十戒は第三条までは神の関係を述べているので問題として残った。ザビエルは中国行きを恐れたフェレイラを退会させており、日本渡航を邪魔したマラッカ司令官アタイーデを破門している(1540年からザビエルは教皇特使に任じられ、破門の権限があった)。また、ザビエルは日本を去るとき、マテオとベルナルドという日本人をともなった。マテオはゴアで死んだが、ベルナルドは1553年リスボンに到着し、イエズス会に入会、ロヨラにも会い、はじめて欧州をみた日本人となった。コインブラ(ポルトガル)で勉学を続け、57年同地で没した。ザビエルは彼らを日本に戻して布教させようとしていた。ロヨラはザビエルの死を知らず、欧州に呼び戻し、次期総長にしようとしていた。中国への布教は日本を改宗させるためであった。全体の感想としては、奇跡の記述よりも、ザビエルの死後、九州の日本人女性が奴隷として売られていたという歴史(天正遣欧使節が書き残しているらしい)も書いてほしいと思った。キリスト教関係の本では偉大なことしか書いていないことが多い。1557年に海賊撃退の功績によってマカオがポルトガルに割譲されたことは詳しくない。76年マカオがマラッカ司教区から独立したことは書いてある。

  • 学生時代にぼちぼち読んだ「日本史リブレット」もテーマ史から人物評伝へ切り替わり、「日本史リブレット人」のシリーズでの刊行が進んでいる。その中のフランシスコ=ザビエルである。

    本書を手に取ったのは年初の島原・長崎旅行、5月の連休に神戸で見た南蛮屏風展を目にするにつけ、イエズス会の布教活動、織豊期のキリシタン受容に興味を寄せたからだった。
    そして、神戸市立博物館の物販コーナーで本書を手に取ってみた。

    内容は至極シンプルで、ザビエルの生い立ちからゴア赴任、日本への布教開始と早世までをざっと紹介している。
    日本での布教当初に神を「大日」と意訳していたが、仏教の一派と勘違いをされたために後に「デウス」と言い換えたという点は面白い。
    それに、キリスト教布教以前に帰依していなくとも、十戒の自然法部分さえ守っていれば、現在の信徒だけでなく亡くなった人までも、神の加護を受けられるということを説明しようとする理屈とその矛盾点など、ヨーロッパから遠く離れた異国の地での布教活動ならではである。

    史実と伝説が入り交じるザビエルのエピソードの中から、史実を抜き取っていくことの難しさを何となく感じられた。

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著者プロフィール

慶應義塾大学文学部教授。1962年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了。東京大学史料編纂所助手、同助教授などを経て現職。専門はキリシタン史。代表的な著書に『キリシタン時代の偶像崇拝』(東京大学出版会、2009年)、『フランシスコ=ザビエル――東方布教に身をささげた宣教師』(山川出版社、2011年)、『概説キリシタン史』(慶應義塾大学出版会、2016年)、『キリスト教と寛容 中近世の日本とヨーロッパ』(慶應義塾大学出版会、2019年)など。

「2022年 『キリシタン時代の良心問題』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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