もういちど読む山川世界史

制作 : 「世界の歴史」編集委員会 
  • 山川出版社
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  • Amazon.co.jp ・本 (310ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784634640313

作品紹介・あらすじ

高校の世界史教科書を一般読者のために書き改めた通史。1冊で世界の歴史を明瞭・簡潔に叙述し、その全体像を示す。多数のコラムを設け、現代世界の理解に役立つテーマを解説する。日々変化する世界をとらえ、ニュースの背景がわかる社会人のための教科書。

感想・レビュー・書評

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  • 【感想】
    一点の曇りもないほどの、「世界史の教科書」。
    相当なボリュームの内容でした。
    世界史がテーマの本でも、これほどまでに作者の主観が一切排除されている本ってのもないので、イイ勉強になったと思います。
    (古代史から現代までなので、内容が薄くなってしまうのは致し方ないでしょう・・・)
    当たり前ですが、「日本史」と違って世界全体を各地域ごとに歴史を追っていく為、本当に読むのに疲れました。
    世界地図もザックリとしか頭に入っていない為、どことどこの国同士が隣り合わせなのかもよくわからないシマツ・・・
    (特に、ヨーロッパ史が本当に苦手!!)

    正直、1回読んだだけではしっかりと知識として頭の中に残らなかったような気がします・・・
    この本、いやこの教科書を、再度読むのはさすがに気が引けますが、歴史の勉強をもう少しガッツリと復習しなくちゃいけないなーと思った今日この頃でした。


    【内容まとめ】
    1.大河を利用する灌漑(かんがい)農法も進むにつれて、生産は増加し人口も増大した。
    大河の治水や灌漑には多数の人口の協力が必要なため、集落規模は大きくなり、都市が形成されていった。
    こうした流れの中で、大河流域にある「エジプト・メソポタミア・インド・中国」で高度の古代文明が開花した。

    2.ローマ帝政の成立と衰退
    前1世紀後半に地中海周辺から西ヨーロッパに及ぶ大国家となり、最初に皇帝として支配したのがオクタウィアヌス。事実上の独裁のため、これ以後をローマ帝政期という。
    五賢帝の時代に代表される帝政期の前半200年間はだいたい平和が続いた。
    しかし2世紀後半になると、東方のパルティアやゲルマン人がローマ領内へ侵入し始め、ローマの平和は破れ始めた。

    395年に帝国が解体し、ローマ国土を東西に二分した。
    このうち東ローマ帝国は約1000年続いたが、西ローマ帝国はゲルマン民族の大移動の最中、476年に滅んだ。

    3.ガウタマ シッダールタ(ブッダ)
    ヒマラヤ山麓の小国の王族として生まれたガウタマは、29歳のとき両親や妻子を捨て、真理を求めて出家した。
    そして苦しい修行を経て、35歳のときブッダガヤーの菩提樹の下で悟りをひらいた。
    これ以後ガウタマは釈迦牟尼(しゃかむに)、ブッダ(悟りをひらいた人)と尊敬されることになる。
    彼の教えは人生を「苦」とみてその苦を克服する道「解脱」を説くもの。
    また彼の死は「涅槃」と表現されるが、これは「輪廻転生の鎖から自由になった霊魂の静かな消滅」を意味している。

    4.中国古代統一国家の成立
    封建制の成立:殷(いん)、周
    前2000年中頃の黄河流域には多くの集落があり、これを統率する王朝が殷であった。殷は前11世紀頃、周に滅ぼされ、周は都を現在の西安付近においた。
    周は前9世紀頃から諸侯の反乱や周辺民族の侵入によって衰え、前8世紀前半に首都を占領されて洛邑(らくゆう)に移り、「東周」となった。以後は有力な諸侯が激しい争いを繰り広げた。
    一般的にこの時期から前5世紀末までを春秋時代、以後を戦国時代という。

    戦国の世は、咸陽(かんよう)を都にして発展した秦により、前221年に統一された。
    秦王の政(せい)は「始皇帝」という皇帝の称号を使用して権威を示したほか、法家の思想を取り入れ、郡県制を全国に実施し、官制を整えて文字や貨幣を統一するなど諸政策を行った。
    しかし、外征や大土木事業は民衆を苦しめ、始皇帝の死後間もなく、陳勝と呉広を指導者とする農民の反乱などが起こって秦は滅んだ。

    秦にかわって統一を実現したのは、漢の劉邦である。農民出身の彼は、楚の項羽を破って帝位につき漢王朝をたてた。(前202年)

    5.イスラームの普遍性と多様性
    7世紀、ムハンマド(マホメッド)が唯一神アッラーの啓示を受けたと信じ、アラビア半島に成立したイスラーム世界。
    時を経るに従って拡大し、今日では東南アジアから西アフリカに至る広大な地域がこの世界に含まれる。

    イスラーム教徒の信仰として「人は唯一神アッラーに絶対的に帰依し、定められた行動規範に従ってこの世に生きることによってのみ、最後の審判の裁きを経て天国に入れる」といったもの。
    聖典は「コーラン」。行動規範は「信仰告白」「礼拝」「喜捨」「断食」「巡礼」という五つの柱がある。

    6.ゲルマン民族の大移動
    西洋中世はゲルマン民族の大移動をもって始まる。
    農業が進み土地が不足してくると、土地を求めて移動するようになり、こうして彼らはローマ帝国への侵入を繰り返し、傭兵や小作人として平和的に帝国内に移住していった。

    7.近代ヨーロッパの形成
    ヨーロッパ史上、「近代」の起点をどこにおくかの問題は簡単でない。
    14世紀から始まる近代文化の幕開けとしての「ルネサンス」、
    ヨーロッパ民族が海外に進出する15世紀からの「大航海時代」、
    カトリックを批判し新たな教派が誕生した「宗教改革」などが、一般的には「近代の起点」と考えられる。

    8.ルネサンスとヒューマニズム
    現世の生活を楽しみ、合理的かつ現実的に物事を考え、文芸活動をのびやかに表現しようとする動きがあらわれた。
    この新しい精神運動は、ギリシア・ローマの古典文化を模範と仰いだ事から、古代文化の復興という意味で「ルネサンス(再生)」と呼ばれている。
    ルネサンスの根本精神は「ヒューマニズム(人文主義)」である。
    「古典古代の研究を通して自己の品性を高めていこうという教養人の人生観」を指す。

    9.3つのナショナリズム
    ナショナリズムの訳語としては「国民主義」「国家主義」「民族主義」の3つがある。
    ・国民主義:主権在民の原理に基づいて自由主義的な性格を持つ。
    ・国家主義:他民族の侵略や、国内の自由主義を抑える。
    ・民族主義:非抑圧民族の場合に用いられ、自由主義的ではあるが、外来文化に対して自国文化を尊重する保守的方向を取る場合もある。

    10.産業革命
    19世紀末、欧米諸国の経済は重化学工業を中心に飛躍的に発展、「石油」と「電気」を中心とする技術革新が起こった。
    この時代に、現代の生活でも必需品となっている化学繊維・プラスティック・染料・電話・蓄音機・自動車などの発明品が登場している。
    1890年以降、アメリカ合衆国やドイツの工業生産はイギリスを凌ぐようになり、列強の植民地獲得競争は激化の一途を辿った。

    11.義和団事件→辛亥革命、中華民国の成立
    キリスト教の布教活動に対し、風俗・習慣の違う中国民衆の反発を招き、反対運動が起こっていた。激化したこの運動は山東省での義和団の蜂起につながり、外国人を脅かすようになった。
    このため8カ国が保護を名目に出兵し、清は各国に宣戦布告したが敗北、連合軍に北京を占領されて中国は半植民地化した。
    義和団事件ののち、官僚や教育制度の改めなど諸改革をすすめ、1912年 南京で孫文を臨時大統領とする中華民国が生まれた。
    清朝は革命後に袁世凱(えんせいがい)を起用しこれに対処させたが、袁は革命勢力と密約を結び臨時大統領の地位を譲り受け、これによって清朝の支配は幕を閉じた。

    12.第二次世界大戦の流れ
    軍事拡張していくドイツに対し、イギリスとフランスはソ連との同盟を望んだがNG、1939年8月にドイツと独ソ不可侵条約を結んだ。

    1939年9月、ドイツ軍は突然ポーランド侵略を始め、これに対しイギリス・フランスはドイツに宣戦、第二次世界大戦が始まった。
    ドイツは中立国であるオランダ・ベルギーを強行突破してフランスに攻め込み、それまで情勢を見守っていたイタリアはドイツの優勢を見て参戦に踏み切った。

    1940年6月にフランスは降伏し、国土の北半分をドイツ軍の占領下に置かれる。
    この年イギリスではチャーチルが首相となり、ドイツ空軍の激しい空襲に耐えて抗戦を続けた。
    そのためドイツはヒトラーの意図に反して長期戦となった。

    1941年、ドイツ軍は大軍を動員して突如ソ連に侵入、たちまちモスクワ近くまで迫ったが、ソ連軍の抵抗により進撃を食い止められる。
    独ソ戦争の開始を機に、イギリスはソ連と軍事協定を結び、またアメリカも大量の戦略物資をソ連に送り、連合軍側の共通の原則としてナチス打倒の決意と戦後の平和構想を明らかにした。

    一方、中国で予想もしない長期戦を強いられた日本は、フランスがドイツに降伏したのに乗じて1940年9月にフランス領に軍事進駐、日独伊三国同盟を結んだ。
    しかし、連合国側の経済封鎖をして石油の欠乏に至り、1941年12月にハワイの真珠湾を奇襲、太平洋戦争が始まった。

    1942年なかばから連合国側の反撃が始まった。
    6月、太平洋でアメリカはミッドウェー海戦に勝ってから、太平洋諸島を次々と奪い返し、占領した島からの日本本土に対する空襲も激しくなった。

    1943年初め、ソ連軍がスターリングラード(現ヴォルゴグラード)でドイツ軍を破り、これを転機に戦局の主導権はソ連側へ移った。
    またイタリア本土で反ファシズム活動が強まり、ムッソリーニ政権は倒れ、イタリアは43年9月連合国に無条件降伏をした。

    1945年5月、ドイツ軍は各地で総崩れとなり、東西からソ連・アメリカ・イギリス軍がドイツ領内に進撃。ヒトラーは自殺し5月7日にドイツは無条件降伏をした。

    1945年2月に、アメリカ・イギリス・ソ連三国首脳はヤルタ会談でソ連の対日参戦とその条件について密約。
    7月には敗北が決定的である日本に対してポツダム宣言を発表して日本に降伏を呼びかけたが、日本政府はこれを黙殺した。
    アメリカは8月6日広島に、8月9日には長崎に原子爆弾を投下、ソ連も日ソ中立条約を破棄して対日宣戦し、中国東北に進撃した。
    日本は8月14日にポツダム宣言を受諾、9月2日に降伏文書に調印し、第二次世界大戦は連合国の勝利に終わった。

    13.キューバ危機
    1962年、アメリカのケネディ大統領は、キューバに建設中のソ連ミサイル基地の撤去を要求、ミサイルの搬入を阻止するため海上封鎖を行うと声明。
    ソ連はこれを拒否してミサイル輸送を強行しようとし、米ソ正面衝突の危機が迫った。
    しかし、まもなくソ連が基地を撤去したため、衝突は避けられた。



    【引用】
    もう一度読む山川世界史


    p8
    ・社会の発達
    初期の農耕は自然の雨に頼るだけで、肥料を施さない略奪農法であったから、人々は頻繁に移動する必要があり、集落も小規模であった。
    しかし大河を利用する灌漑(かんがい)農法も進むにつれて、生産は増加し人口も増大した。大河の治水や灌漑には多数の人口の協力が必要なため、集落規模は大きくなり、都市が形成されていった。
    エジプト・メソポタミア・インド・中国の大河流域で高度の古代文明を開花させた。


    p24
    ・古代ローマ帝国
    はじめは王政であり、一時期は北隣の先住民族エトルリア人の支配を受けたが、前6世紀末に貴族が中心となって異民族の王を追い、共和政を樹立、初期の共和政では貴族が政権を独占、最高官である2人のコンスル(執政官)をはじめあらゆる役職は貴族によって占められた。
    しかし国防の主力が次第に重装歩兵の平民たちに移り、それにともない貴族と激しく争ったため、前5世紀後半から前3世紀初めにかけて平民にもコンスル就任を認めるなど譲歩を重ねて身分闘争を終わらせた。


    p26
    ・ローマ帝政の成立
    前1世紀後半に地中海周辺から西ヨーロッパに及ぶ大国家となり、最初に皇帝として支配したのがオクタウィアヌス。事実上の独裁のため、これ以後をローマ帝政期という。
    五賢帝の時代に代表される帝政期の前半200年間はだいたい平和が続いた。
    しかし2世紀後半になると、東方のパルティアやゲルマン人がローマ領内へ侵入し始め、ローマの平和は破れ始めた。

    395年に帝国が解体し、ローマ国土を東西に二分した。
    このうち東ローマ帝国は約1000年続いたが、西ローマ帝国はゲルマン民族の大移動の最中、476年に滅んだ。


    p30
    ・インダス文明
    インダス川流域を中心とする地域で、前2300年頃から前1700年頃にかけて、青銅器を持つ都市文明が栄えた。
    インダス文明がすでに衰退した前1500年頃、中央アジア方面から移動してきたアーリヤ人が定着生活を始めた。彼らは自然現象を神格化した多数の神々やわ信仰し、それらの賛歌や祭式の方法を編集したものが、バラモン教の根本聖典ヴェーダである。


    p33
    ・ガウタマ シッダールタ
    ヒマラヤ山麓の小国の王族として生まれたガウタマは、29歳のとき両親や妻子を捨て、真理を求めて出家した。そして苦しい修行を経て、35歳のときブッダガヤーの菩提樹の下で悟りをひらいた。これ以後ガウタマは釈迦牟尼(しゃかむに)、ブッダ(悟りをひらいた人)と尊敬されることになる。
    彼の教えは人生を「苦」とみてその苦を克服する道「解脱」を説くもの。また彼の死は「涅槃」と表現されるが、これは「輪廻転生の鎖から自由になった霊魂の静かな消滅」を意味している。


    p36
    ・中国古代統一国家の成立
    封建制の成立:殷(いん)、周
    前2000年中頃の黄河流域には多くの集落があり、これを統率する王朝が殷であった。
    殷は前11世紀頃、周に滅ぼされ、周は都を現在の西安付近においた。
    周は前9世紀頃から諸侯の反乱や周辺民族の侵入によって衰え、前8世紀前半に首都を占領されて洛邑(らくゆう)に移り、「東周」となった。以後は有力な諸侯が激しい争いを繰り広げた。
    一般的にこの時期から前5世紀末までを春秋時代、以後を戦国時代という。


    p38
    ・戦国の世は、咸陽(かんよう)を都にして発展した秦により、前221年に統一された。
    秦王の政(せい)は「始皇帝」という皇帝の称号を使用して権威を示したほか、法家の思想を取り入れ、郡県制を全国に実施し、官制を整えて文字や貨幣を統一するなど諸政策を行った。
    しかし、外征や大土木事業は民衆を苦しめ、始皇帝の死後間もなく、陳勝と呉広を指導者とする農民の反乱などが起こって秦は滅んだ。

    秦にかわって統一を実現したのは、漢の劉邦である。農民出身の彼は、楚の項羽を破って帝位につき漢王朝をたてた。(前202年)

    武帝時代、中央集権体制を確立し、外征も行い始めたが、多くの経費を必要とし財政は悪化、これを切り抜けるための増税は民衆を苦しめた。
    武帝の死後は官僚・宦官(かんがん)・外戚の権力争いが激しくなり、また地方の豪族も力を伸ばして漢の支配力は弱まり、8年に外戚の王莽(おうもう)に滅ぼされた。


    p48
    ・分裂と諸民族の侵入:魏、晋、南北朝
    後漢末に華北で勢力を伸ばした曹操の子・曹丕(そうひ)が後漢を滅ぼして魏をたてると、劉備が四川で蜀を、孫権が江南で呉をたて、中国は三権分立。
    魏が蜀を滅ぼし、魏の武将司馬炎が魏を滅ぼして晋をたてた。晋は呉を滅ぼし中華統一しあが、まもなく一族の争いによって衰えた。


    p50
    ・律令国家の成立:随、唐
    日本と大陸との交渉は深く、漢の歴史書に倭の名で見え、「魏志倭人伝」には3世紀ごろの邪馬台国の記事が見える。
    4世紀以後は大和政権による統一が進み、5世紀には東晋な南朝に使者を派遣、6世紀頃には儒学や仏教が流入、7世紀はじめから遣隋使・遣唐使を送るようになり、645年に大化の改新を行なって律令国家へと進んでいった。


    p60
    ・モンゴル帝国の成立
    10世紀、中華周辺の諸民族は唐の刺激を受けて文化的に向上し、民族意識に目覚めて独立し始め、特にモンゴル高原から強い勢力が現れた。
    モンゴル系諸部族は次第に勢いを増し、13世紀初めにチンギス・ハンが高原を統一してモンゴル帝国をたてた。(1206?1388)
    当時アジアは分裂のため強大な国がなく、モンゴルの強力な騎馬兵はたちまち各地を征服、最大領域としてロシアやヨーロッパを含む東西にまたがる強大な大帝国を築いた。

    フビライ・ハンの代になると、国号を「元」と称し、1279年に宋を滅ぼして中国全土も完全に支配、さらに日本・ベトナム・ジャワなどに遠征軍を出したが、これは失敗した。

    元はやがて王室の相続争いや財政悪化などで衰え、農民反乱の中から明が起こって大都市を攻略したため、元はモンゴル高原に退き、モンゴル民族の支配時代は終わった。


    p69
    ・華僑
    中国人の海外移住は唐、宋時代の南海貿易の発展期にも見られたが、元を経て明(ミン)代にかってから更に多くなった。
    華僑は中国への朝貢使節の任が役割で、それが華僑の海外移住・進出の背景である。
    彼らは「バン」という相互扶助意識を持ち、同郷・同族意識が強く、これが生業の基盤となった。
    また勤勉さや進取の気風があるとされる。


    p73
    ・イスラームの普遍性と多様性
    7世紀、ムハンマド(マホメッド)が唯一神アッラーの啓示を受けたと信じ、アラビア半島に成立したイスラーム世界。
    時を経るに従って拡大し、今日では東南アジアから西アフリカに至る広大な地域がこの世界に含まれる。
    初期を除くと政治的に統一されることはなく、各地域がそれぞれ独自の歴史的発展を遂げてきたが、イスラームという共通の信仰と法を受け入れ一つの世界としてまとまりを維持してきた。


    p75
    ・イスラーム教徒の信仰と生活
    「人は唯一神アッラーに絶対的に帰依し、定められた行動規範に従ってこの世に生きることによってのみ、最後の審判の裁きを経て天国に入れる」といったもの。
    聖典は「コーラン」。
    行動規範は「信仰告白」「礼拝」「喜捨」「断食」「巡礼」という五つの柱がある。


    p91
    ・ゲルマン民族の大移動
    西洋中世はゲルマン民族の大移動をもって始まる。
    農業が進み土地が不足してくると、土地を求めて移動するようになり、こうして彼らはローマ帝国への侵入を繰り返し、傭兵や小作人として平和的に帝国内に移住していった。


    p114
    ・近代ヨーロッパの形成
    ヨーロッパ史上、「近代」の起点をどこにおくかの問題は簡単でない。
    14世紀から始まる近代文化の幕開けとしての「ルネサンス」、ヨーロッパ民族が海外に進出する15世紀からの「大航海時代」、カトリックを批判し新たな教派が誕生した「宗教改革」などが、一般的には「近代の起点」と考えられる。


    p117
    ・アメリカの名前の由来について
    コロンブスは困難な航海の末アメリカ大陸の一部に上陸し、この地域をインドと思い込んでいたため「インディオ」と名付けた。
    しかし、やがてアメリゴ・ヴェスプッチの探検で、この場所がアジアとは別大陸であることがわかり、彼の名にちなんで「アメリカ」と呼ばれるようになった。


    ・マゼラン
    ポルトガル出身のマゼランは、スペイン王の命令で1519年から西方への大航海に乗り出した。彼は南アメリカ南端の海峡・マゼラン海峡を通って太平洋に出て西進し、フィリピンに達した。
    マゼラン自身はフィリピンで戦死するが、残った少数の部下はさらに航海を続け、アフリカ周りで1522年に帰国。
    この最初の世界周航で、大地は球体であることが実際に証明された。


    p118
    1500年代のスペインによる征服以前のアメリカ大陸には、メキシコ高原のアステカ文明と、アンデス地方のインカ文明が栄えていた。
    これらの文明の担い手はコロンブスがインディオ(インディアン)と名付けた人々で、彼らはベーリング海峡がまだアジアと地続きだった古い時代にアメリカへ渡来したと推定される、モンゴロイド系の人種。


    p120
    ・ルネサンスとヒューマニズム
    現世の生活を楽しみ、合理的かつ現実的に物事を考え、文芸活動をのびやかに表現しようとする動きがあらわれた。この新しい精神運動は、ギリシア・ローマの古典文化を模範と仰いだ事から、古代文化の復興という意味でルネサンス(再生)と呼ばれている。
    ルネサンスの根本精神はヒューマニズム(人文主義)である。古典古代の研究を通して自己の品性を高めていこうという教養人の人生観を指す。


    p124
    ・ルターとカルヴァンの宗教改革


    p146
    ・アメリカの独立革命
    イギリスは17世紀初めから北アメリカで活発な植民活動を行い、18世紀前半までに13の植民地を建設した。
    北部は自作農業のほか造船・製材などの産業の多様化が進み、南部は黒人奴隷を使う大農業制度(プランテーション)が盛んだった。
    自由な気風が強い点で、次第にイギリス本国の態度を自治権の侵害と受け取り、紛争が絶えないようになってきた。

    1773年には茶の販売権を巡って対立、ボストン入港中の東インド会社の船を襲って茶箱を海中に投げ込むいわゆる「ボストン茶会事件」が起こり、情勢は緊迫した。


    p147
    ・独立戦争
    1776年7月4日、愛国派の結集と外国の支援を得るため、ジェファーソンの草案による独立宣言を発表。権利の平等な新しい政府をつくる権利を高らかに宣言した。
    愛国派の独立軍は総司令官ワシントンの指揮の元に善戦し、やがてフランスの参戦をはじめ列国の支援を得てイギリスを孤立させ、1781年ヨークタウンの戦いで決定的な勝利を収めた。
    1783年、イギリスはパリ条約でアメリカが独立する事を承認した。


    p169
    ・3つのナショナリズム
    ナショナリズムの訳語としては「国民主義」「国家主義」「民族主義」の3つがある。

    国民主義
    →主権在民の原理に基づいて自由主義的な性格を持つ。

    国家主義
    →他民族の侵略や、国内の自由主義を抑える。

    民族主義
    →非抑圧民族の場合に用いられ、自由主義的ではあるが、外来文化に対して自国文化を尊重する保守的方向を取る場合もある。


    p175
    ・ビスマルク
    首相就任後の議会演説で、「現在の大問題は言論や多数決ではなく、鉄と血によってのみ解決されるのだ」と述べた為、「鉄血宰相」と呼ばれた。
    鉄は軍備、血は国民の犠牲。つまり、税金による軍備増強を指している。


    p189
    伝統的なインド社会には、バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラ・被差別民という大きく分けて5つの大きな階層が存在し、カーストの数は2000を超える。
    各カーストの成員は、自分と同じカーストの者と結婚し、それぞれのカーストに固有の職業に励み、他のカーストの者とは一緒に食事しないなど、カーストの慣行を遵守した。

    が、16世紀ごろからの植民地時代に入ると、この排他的なカーストを基礎とする社会は政治・経済・社会の変化と共に崩れた。


    p191
    ・アヘン戦争
    中国は古くから物資が豊かで、日用品の輸入を必要としなかった。
    イギリスは茶を買い入れるにあたって中国に銀を支払わなければならなかったが、18世紀末頃から銀に代えてインド産のアヘンを持ち込むようになった。


    p203
    ・ベルエポック
    1870年代以降のヨーロッパ、大きな戦争も起こらず好景気が続いた空前の繁栄期のこと。


    p203
    ・産業革命
    19世紀末、欧米諸国の経済は重化学工業を中心に飛躍的に発展、「石油」と「電気」を中心とする技術革新が起こった。
    この時代に、現代の生活でも必需品となっている化学繊維・プラスティック・染料・電話・蓄音機・自動車などの発明品が登場している。
    1890年以降、アメリカ合衆国やドイツの工業生産はイギリスを凌ぐようになり、列強の植民地獲得競争は激化の一途を辿った。


    p210
    ・義和団事件→辛亥革命、中華民国の成立
    キリスト教の布教活動に対し、風俗・習慣の違う中国民衆の反発を招き、反対運動が起こっていた。激化したこの運動は山東省での義和団の蜂起につながり、外国人を脅かすようになった。
    このため8カ国が保護を名目に出兵し、清は各国に宣戦布告したが敗北、連合軍に北京を占領されて中国は半植民地化した。

    義和団事件ののち、官僚や教育制度の改めなど諸改革をすすめ、1912年 南京で孫文を臨時大統領とする中華民国が生まれた。
    清朝は革命後に袁世凱(えんせいがい)を起用しこれに対処させたが、袁は革命勢力と密約を結び臨時大統領の地位を譲り受け、これによって清朝の支配は幕を閉じた。


    p216
    ・日露戦争
    義和団事件以後、ロシアは中国東北から朝鮮への支配を広げようとし、日本はこれに脅威を覚えた。
    1902年、日本とイギリスはロシアに対抗するために日英同盟を結び、アメリカもこれを支持した。
    一方ロシアの背後にはフランスとドイツがおり、日露戦争はこうした国際対立を背景に引き起こされた。
    開戦後約1年間、日本は中国東北で連勝し、ついで日本海海戦でロシア艦隊を破った。
    しかし日本の戦力はここで尽き、ロシアも国内ぇ革命が起こった為、アメリカの斡旋により1905年にポーツマス条約が締結された。


    p247
    ・第二次世界大戦
    軍事拡張していくドイツに対し、イギリスとフランスはソ連との同盟を望んだがNG、1939年8月にドイツと独ソ不可侵条約を結んだ。

    1939年9月、ドイツ軍は突然ポーランド侵略を始め、これに対しイギリス・フランスはドイツに宣戦、第二次世界大戦が始まった。
    ドイツは中立国であるオランダ・ベルギーを強行突破してフランスに攻め込み、それまで情勢を見守っていたイタリアはドイツの優勢を見て参戦に踏み切った。
    1940年6月にフランスは降伏し、国土の北半分をドイツ軍の占領下に置かれる。

    この年イギリスではチャーチルが首相となり、ドイツ空軍の激しい空襲に耐えて抗戦を続けた。
    そのためドイツはヒトラーの意図に反して長期戦となった。

    1941年、ドイツ軍は大軍を動員して突如ソ連に侵入、たちまちモスクワ近くまで迫ったが、ソ連軍の抵抗により進撃を食い止められる。
    独ソ戦争の開始を機に、イギリスはソ連と軍事協定を結び、またアメリカも大量の戦略物資をソ連に送り、連合軍側の共通の原則としてナチス打倒の決意と戦後の平和構想を明らかにした。

    一方、中国で予想もしない長期戦を強いられた日本は、フランスがドイツに降伏したのに乗じて1940年9月にフランス領に軍事進駐、日独伊三国同盟を結んだ。
    しかし、連合国側の経済封鎖をして石油の欠乏に至り、1941年12月にハワイの真珠湾を奇襲、太平洋戦争が始まった。

    1942年なかばから連合国側の反撃が始まった。
    6月、太平洋でアメリカはミッドウェー海戦に勝ってから、太平洋諸島を次々と奪い返し、占領した島からの日本本土に対する空襲も激しくなった。

    1943年初め、ソ連軍がスターリングラード(現ヴォルゴグラード)でドイツ軍を破り、これを転機に戦局の主導権はソ連側へ移った。
    またイタリア本土で反ファシズム活動が強まり、ムッソリーニ政権は倒れ、イタリアは43年9月連合国に無条件降伏をした。
    1945年5月、ドイツ軍は各地で総崩れとなり、東西からソ連・アメリカ・イギリス軍がドイツ領内に進撃。ヒトラーは自殺し5月7日にドイツは無条件降伏をした。

    1945年2月に、アメリカ・イギリス・ソ連三国首脳はヤルタ会談でソ連の対日参戦とその条件について密約。
    7月には敗北が決定的である日本に対してポツダム宣言を発表して日本に降伏を呼びかけたが、日本政府はこれを黙殺した。
    アメリカは8月6日広島に、8月9日には長崎に原子爆弾を投下、ソ連も日ソ中立条約を破棄して対日宣戦し、中国東北に進撃した。
    日本は8月14日にポツダム宣言を受諾、9月2日に降伏文書に調印し、第二次世界大戦は連合国の勝利に終わった。


    p252
    ・第二次世界大戦の性格と結果
    第一に、「民主主義vsファシズムの戦い」という性格を帯びた。
    民主主義国家が戦後の平和構想を打ち出すなど普遍的な理念を提示したのに対し、ファシズム諸国は自国民の優秀さを誇示したり、占領地に対して暴力的な支配を行なった事から、各地で抵抗運動が起こり、世界からは支持されなかった。

    第二に、アジアやアフリカなどの枢軸国の占領地では民族主義(ナショナリズム)運動が高まり、植民地からの解放運動のかたちをとった。

    第三に、資本主義と社会主義の両勢力は「打倒ファシズム」という名目で連合国を形成したが、対戦中もその対立は見え隠れし、勝利が確実となると深刻なものになった。
    戦後になるとヨーロッパの地位は大きく低下し、アメリカ・ソ連の二国に国際政治の重心は移った。


    p263
    ・キューバ危機
    1962年、アメリカのケネディ大統領は、キューバに建設中のソ連ミサイル基地の撤去を要求、ミサイルの搬入を阻止するため海上封鎖を行うと声明。
    ソ連はこれを拒否してミサイル輸送を強行しようとし、米ソ正面衝突の危機が迫った。
    しかし、まもなくソ連が基地を撤去したため、衝突は避けられた。

  • 今読めば面白いかと思ったけど、やっぱ教科書はつまらん。ひたすら単語を羅列するばっかりでさっぱり状況が理解できん。そして、読んでる時に無意識のうちに人名とかを記憶しようとしてしまう。。恐ろしい条件反射。ちなみに、自分らの頃より、字が大きくなって中身が減ってるような気が、、、気のせいか?

  • 高校の山川世界史教科書の社会人版(2009年出版)。30数年振りにこういったものを読むのも悪くない。

  • 本村教授についで、山川世界史を読んでみたが、これはいけない。教科書だと思って読むのならよいが、大人になって、世界史を覚えるのではなく勉強したいと思っている人は読まない方が良い。
    勉強するとは、その史実が起こった背景、そしてそこから得られる教訓を学び、自分の現在に繋げることだと思うが、本書は起こったことを記述しているだけであり、学びの本ではない。深く洞察できる情報がないのが悲しい。

  • 基本的にはよい本だと思います。高校時代を思い出しました。,約300ページで、人類の誕生からオバマ大統領の誕生までざっと追えるので、その点は非常に良いです。,,2点ほど気になったことが。,○図が少ない。特に古代・中世などは結構チンプンカンプン。これはページ数の関係から難しいのかもしれないが。,○カタカナの読みが、慣れ親しんだ読み方でないものがある。例えば、「ターリバーン」「セオドア・ローズヴェルト大統領」「リンカン大統領」とか。厳密にはこちらが正しいのかもしれないが、日常生活で触れる(TVや新聞)とは異なることに違和感を持った。一般的な読み方で統一した方がよいのでは。

  • この本は、出版された「2009年」までの人類誕生から2009年までの世界史の教科書です。

  • タイトルの通り。
    これだけを読んでも世界史は理解できないが、
    個別的に歴史を知っている人が、
    これを読むことで全体像が改めて見えてくる。

    総覧としてさすがに良くまとまっている。

  • 山川の世界史Bをライトにした内容。いい復習にはなったものの、世界史Bの教科書買えばよかったかな。教科書と比べて優れてる点は、一般の書店に流通してることくらいか。

  • 山川の世界史の教科書を今も持っていて、歴史に詳しい人にはあまり必要ないかも。ざっくり世界史を思い出すにはいいかもしれない。

  • 2014年50冊目。

    高校時代のめり込んだ世界史。
    あれから月日が経って改めて読み返すと、
    歴史教育がいかに浅いものか思い知らされた。
    もちろん、世界史を広く浅く概観するのには適しているが、
    あらゆる出来事が、なぜ、どのように起こったのかは書かれていない。
    2行で済まされた事件や人物の中に、どれだけのストーリーがあったか、
    何百万人の死という数字の中に、どれだけ尊い一人ひとりのストーリーがあったか。
    そこまで及ぶようになると、教科書では全く物足りなくなっていた。

    繰り返しに鳴るが、一度「概観」する分には適している本です。

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