文明に抗した弥生の人びと (歴史文化ライブラリー 449)

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  • Amazon.co.jp ・本 (309ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784642058490

作品紹介・あらすじ

水田農耕や金属器といった大陸・半島からもたらされたあらたな技術や思想を、日本列島の人びとはどのように改変していったのか。縄文時代の伝統をひく打製石器や土偶・石棒など信仰遺物に光を当て、文明に抗う弥生の人びとの世界を読み解く。大陸文化の西進という固定観念にとらわれず、「日本」の成り立ちの認識、さらには文明論の再構築に挑む。

感想・レビュー・書評

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  • 著者の狙いは、野心的だと思う。
    今まで単純に思われていた縄文から弥生時代へと移る日本列島の姿を、弥生の定義含めてもう一度考え直そうという主張である。その背景には、弥生時代には日本列島に「国境」という概念はなかったという認識がある。朝鮮半島南部と北九州との関係は、近畿を含めた西日本の人々との関係と同じぐらい近く、尚且つ西日本とは遠かっただろう。

    弥生時代、稲作文化に付随して様々な「文明」がやってきた。本書は「西方から新たにもたらされた技術や思想に対しての在来社会側の反発や拒絶、或いは変化しなかったものの存在や理由」を明らかにする。

    図らずも、弥生時代晩期に展開する西日本統一の「謎」に対する私の「仮説」を、理論的に補強する内容になっていた。いやあ、松木武彦と共に、ファンにならざるを得ない。

    寺前直人さんの記述は、専門性を持ちながら仮説・検証・証明をわかりやすく繰り返す。以降注目したい考古学者になった。

    以下、参考になった部分をメモする(例によって考古学ファン以外には単なる知識の羅列なので無視してください)。



    ・縄文時代後期に植物栽培・管理の知識があったことは確実ではあるが、主なカロリー源になっていた可能性は低い。食材の自然回復以上のことはできていない(家畜がないので、肥料を得られない)。
    ・北海道千歳市キウス周堤帯墓2号墳(縄文時代後期末)の直径75m高さ5mは、縄文・弥生を通じてこれ以上の墓は、弥生時代晩期の楯築弥生墳丘墓を待たなくてはならなかった。副葬品の多さも特徴的。巨大な権力を持った首長なのか、それともレジェンドたる匠かジャーマンか。
    ・「瑞穂の国やまと」史観の影響か、98年の学習指導要領から、旧石器時代と縄文時代の記述が小学六年生の歴史の教科書から消えて「国のまほろば」として弥生時代の米作りから始まるようになった。(!)←今でもそうなのか?だとしたら、あまりにも歪つな歴史認識になる。しかも、事実は変えられないから、中学歴史からは旧石器時代が復活する。あまりにもせこい改変である。
    ・板付の水田‥‥木組の井堰、幅1mと50cm、高さ30cm.15cmの台状の畦、板材と杭で時々補強。
    中西遺跡‥‥10-15平方mに区切られた1800枚の水田。また他の遺跡で幅20mの河川から用水(幅3m)に引き入れるための堰が築かれる。全て労働力の集中が必要な作業ばかり。全て現代の水田と技術的にあまり変わらない。
    ・最古の鉄器は、弥生時代前期末、あるいは中期初頭(遅くともBC4)以降にしか認められない。つまり、弥生時代前半は少なくとも金属器が存在しない。水田稲作社会は、新石器時代として始まった。
    ・朝日遺跡では、シカ・イノシシを選択的に狩猟し全身骨格や皮が利用されているのに比して、タヌキ・キツネ・イタチ・アナグマ・テンが狩猟されていないのは害獣駆除・肉以外の資源獲得目的があったのだろう。
    ・山陰からは鹿角製アワビオコシが多く出土。海人と稲作集団との交流があった。
    ・磨製石製短剣は、弥生時代発祥のヒトを傷つけるための道具。半島経由の技術。一体式と組合式がある。主に北九州から出土。
    ・朝鮮大坪里遺跡(←行きました!)では、居住域と生産域の間に数十基の石棺墓が列状に連なって検出。4号石棺墓からは有茎式磨製石鏃が、10号石棺には丹塗磨研土器と一体式磨製短剣が副葬されていた。
    ・朝鮮検丹里遺跡(←行きました!)の環濠。長軸約120m、短軸約70m。環濠外には支石墓。紀元前10世紀?
    ・弥生時代に、物理的に戦い出し、武器が半島から伝わり、武器の所有が埋葬施設にまで反映して階層的秩序を作り上げていたのは、玄界灘沿岸では伺うことができた。一方、環濠は伊勢湾沿岸までは広がるものの、防御性は低下していく。つまり、実践的な武器の普及や武器を中心とした階層性は「玄界灘沿岸地域にとどまるのだ」(p132)←つまり、半島経由の平和についての価値観は、東に行くにつれて変化している。
    ・土偶の研究(136-156p)により、分銅型土製品の起源が、東北地方の縄文時代後期の屈折像土偶(出産に関する土偶)から影響を受けている可能性が高いとする。更には、西日本近畿の農耕開始期に流行する長原タイプ土偶が愛媛、香川、徳島の分銅型土製品或いは池島・万福寺遺跡の土製品に求められる。安産は新たな家族を迎えること。そのための祈りは決してなくなることは無い。
    ・近畿においては、東日本起源の儀礼体系こそが、弥生時代中期以降の銅鐸をはじめとする日本列島中央部における独自の「創造的」「平等な」な儀礼の基盤となったのではないか。(例)石棒についての研究
    ・吉武高木遺跡M3号墓(中期)の武器・装飾具は、朝鮮半島エリートと遜色ない「グローバルエリート」だった。福岡・佐賀で100人に1人の青銅器埋葬墓。
    ・細形銅剣をムラのハズレに埋納したのは、岡山・香川のみ。個人のものとはせずに、共同体祭祀道具とする。
    ・青銅器に対する人々の歓迎や反発、融合や妥協の苦心を読み取ることができる。
    ・何故青銅器武器が祭祀具になったのか?
    (1)石製品を用いた祭祀の影響を受けた。
    (2)青銅器を鉄製品が駆逐したので祭祀具化した。←しかし、これはそれに先行して細形銅剣祭祀具があるのでバツ。
    (3)朝鮮半島経由説。←朝鮮の青銅器武器の儀器と日本列島祭器が違いすぎる。
    (1)が有力。ただし、何故武器祭祀具が登場したのか。それは、石製石剣の祭祀化が石棒祭祀化の影響を持って出てきたのではないか?というのが寺前さん独自の「仮説」のようだ(石材獲得や製作の場面において、共通性がある。磨製石鏃も同様)。
    前期に始まった石剣祭祀化が中期の青銅器武器祭祀具になり、北九州のエリート化を抑制する契機ともなった。東部瀬戸内地域から大阪湾岸地域の「階層化に抗う人びとの巧みな企み」であった。
    ←支持します!!
    ・格差拡大に否定的な社会。前期の大阪湾岸から伊勢湾沿岸地域の土偶や石棒などの伝統的な儀礼具を用いて、従来の社会関係を維持しつつ、水田稲作を受容した社会。これらの地域が、銅鈴に伝統的な紋様を与えて、祭祀化し、大型化を図った。
    ←その流れに吉備地域は外れたが、やがて吉備は新しい神を見つける。というのが私の仮説のひとう。
    ・反動。中期以降、権力集約型社会統合の痕跡は近畿南部をさけるように東に拡大する。また、紀元後1世紀、弥生時代後期に、丹後に鉄剣を軸とする厚葬墓が発達、その墓は山陰、北陸に拡大、やがて鉄剣厚葬墓が拡大。近畿は大きな墓の空白期が生まれる。



    ‥‥では、激動の弥生時代後期から晩期ににおいて、西日本はどう動いたのか?何故銅鐸は埋納されたままになったのか?一切書いていない。ここからが面白いのに!

    次回を期待したい!


  • 想定より専門的に書かれていたので、読了までに随分時間がかかってしまった。
    その分、得る物も多かった。
    弥生時代を語るのに縄文時代の話から始まった時は戸惑ったが、本書は「そこ」に至るまでの過程を事細かに丁寧に書き切っている。
    故に必要な流れ。
    そこから稲作とそれに伴い広がっていった文化も流れに沿って丁寧に丁寧に書かれている。
    歴史の授業では大雑把にまとめられていた弥生時代にも地域差はもちろんあったし、大陸文明を受け入れるか否かで葛藤もあった。
    想像以上に複雑で、だからこそ面白い弥生時代がここにあった。
    ただ本人も書いているとおり、弥生時代の概説本ではない。
    もっと深く深く掘り下げた本のため、ある程度弥生時代について語れる程度の知識は必要。
    そうでないと、自分のように混乱することになる。
    土器や銅鐸の分類や紋様などが分かっているといいぞ。

  • この本から新たに得た知見は3つ。
    1.縄文時代、弥生時代というが、なにをもって決定するのか。
     支配的な勢力であろうか、支配的な文明であろうか。当時の日本にはいずれも存在しなかったと思われる。縄文式土器のトレンドは東日本から九州まで伝播したと見られている。金属器は大陸から九州北部近辺に伝来し、東へ伝播したと見られている。支配的な勢力を通じて伝わったのではなく、点々と伝わったことが発掘調査から見いだせる。
    2.日本の古代を考える素地となった背景・思想。
     明治以降、日本という国のアイデンティティーを求めるために、ナラティブが必要になったという側面からの要求。マルクス主義の農村観。政治や思想が学問に影響を与え、長く固定観念となったこと。
    3.想像力の学問
     遺物の観察という根拠を持つにせよ、記録のない過去に形を与えるのは想像力しかない。史学とくに考古学は書籍上で他の研究者にどやる傾向が高く、そうした文章を読んでいると、ぼくの考えた最強の設定比較に見えてしまい、学術ではなく主張を読まされている気になる。

    ところどころ言葉の選択に誇大感があり、タイトルについてはいささか書き過ぎと感じる。「田舎にスーパーがやってきたが、父母世代は地元商店街との付き合いを大切にするようなものである」というようなことを引き合いに出されて「文明に抗した弥生」と対照する。そんなんいつでもどこでも起きてることで特筆すべきことではない。針小棒大である。
    多くの著書を引いているが、タイトルには”岡本孝之 1993「攻める弥生・退く縄文」『新板古代の日本』七、角川書店”から着想を得たものか。

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著者プロフィール

大阪大学文学研究科埋蔵文化財調査室 助教

「2010年 『武器と弥生社会』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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