無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

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制作 : 西谷 修  安原 伸一朗 
  • 以文社 (2001年6月15日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (291ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784753102150

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考の感想・レビュー・書評

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  • 【目次】

    第二版への注記(一九九〇年)
    第三版への注記(一九九九年)

    第一部 無為の共同体
     注記
    第二部 途絶した神話
    第三部 「文学的協賛主義」
    第四部 〈共同での存在〉について
     Ⅰ. (〈共同での存在〉について)
     Ⅱ. (〈共同での〉の意味)
     Ⅲ. (〈共同での〉ということ)
    第五部 有限な歴史

    私たちの共通の果敢なさ(日本語版のために)

    訳注
    〈分有〉、存在の複数性の思考──あとがきに代えて

    *****

  • 最後に訳者がかなり丁寧に取り出してくれるように、
    共同体を全体性に回収せず、共同性のまま思考する論考だ。
    それは共同性の限界を探る試みである。

    少し前に読んだデリダの「死を与える」にも接するような部分があり、
    それは限界の典型としての死であり、無防備に捧げられたもののことだが、
    両者ともにほぼ同じ時代の論考であるところに、世紀末の気分を見ることができる。
    いや、それは軽く言い過ぎで、切迫した未来への恐怖なのだと思う。

    無為の共同体の「無為」はこの場合
    「捧げる」よりも前にすでに「捧げられている」ような、
    営み以前に訪れている共同性を呼び込むための形容詞であり、
    ナンシーはそれを灯し火に細く狭い道を粘り強く歩いた。

    この灯はかすかであっても見失わないようにしなければ
    ヒューマニズムは道徳へと堕落するだろう。

  • バタイユを通じて存在の共同性に迫る。
    近代=個人と社会 vs 反近代=共同体
    という単純な図式にとどまらない。

    分有は仏語で partage。
    英語では share と聞くとなんだかあっさり

  • 存在は「共に」しか存在出来ない。
    近代が獲得した個人の自律と国民国家との狭間で共同性のあり方を模索する。

  •  今回またこのような素晴らしい本に出会えて感激している。
     近代西洋的な意味での「個人」主義は倒錯であって、むしろ世界との未分化な一体感が起源にあり、そこから「他者」があらわれ、「他者」に名指されることによって「私」が誕生するのではないか、という私の近年の考えは、この本にもある程度重複してあらわれてくる。
    「共同体は、個人性そのものを拵えた後の個人の集合なのではない。というのも、個人性はそのような集合の内部でしか立ち現れないからだ。」(P202)
     しかしジャン=リュック・ナンシーの言う「共同体」や「分有」「途絶」などといった概念は、どうもはっきりしないところがある。一本道に進むのではなくてときどき立ち戻ったりするクセの強い文体や、あるいは翻訳のせいも少しあるかもしれないし、また彼の思考自体がややこしく歪んでいるためか、これはなかなか理解困難なところのある書物だ。
     そもそも冒頭の「無為の共同体」という論文はジョルジュ・バタイユの共同体概念をめぐって1983年に書かれたが、これを目にしたモーリス・ブランショは触発され奮起し、『明かしえぬ共同体』を同年に著す。そしてナンシーも後続の論文において、ブランショの書物に言及する・・・。ということで、この本をめぐるいきさつ自体が、バタイユ-ブランショ-ナンシーという三者の円環、いわば「共同体」的なものにおいて成立しているのだ。
     しかしナンシーが最終的にどのような共同体を欲したのかよくわからない。「共産主義」という、20世紀のフランス知識人すべてに多かれ少なかれ浸食した古い政治思想が、またもや影をちらつかせている。
    「分有」という語は原文でpartageとなっているらしいが、これは英語ではsharingに当たる。つまり普通に和訳すれば「共有」であって、フェイスブックなどで最近やたら見かけるようになったアレである。
     ただし、ナンシーはこのpartageに、分割divisionという意味をも同時に含ませているらしいので、それを踏まえて訳者は「分有」としたのだろう。しかし読んでいる限りでは、なにを「分割」するのか、どうもよくわからなかった。
     よくわからないながらも、私自身の関心と大幅にクロスする面があってすこぶる刺激的な読書であったが、不十分な読解のもとであえて反論してみると、ナンシーの言う「共同体」概念は、どうも全面的に合意できない。というか、日本語で書くと「共同体」は「体」という字がつく。つまり、それは「体」をなしていなければならない。すなわち、ゲシュタルトをもっているわけだ。
     ところが、このゲシュタルトが極めて明確で、人々があまりにも熱意をこめてこのイメージを共有してしまうと、結局(ナンシーも危惧したように)、「おぞましい」ナショナリズムやファシズムに陥ってしまう。
     私の考えでは、「共同体」の「体」はむしろ不要であって、人間が「共に存在する」というその「場所」が問題なのである。その「場所」こそが分割されるとともに共有されている。「(全)体」を共有する必要はまったくないし、危険ではないだろうか。「体」にこだわり続ければ、結局「個体(個人)」との対比ばかりが問題になってしまい、ナンシーは混乱していくほかないのではないだろうか?
     しかしこの本はやがてもう一度、読みたいと思っている。現在の私に、まさに今思考を凝らすべきテーマをあらためて示してくれた、卓越した書物だ。

  • 【目次】

    第二版への注記(一九九〇年)
    第三版への注記(一九九九年)

    第一部 無為の共同体
     注記
    第二部 途絶した神話
    第三部 「文学的協賛主義」
    第四部 〈共同での存在〉について
     ?. (〈共同での存在〉について)
     ?. (〈共同での〉の意味)
     ?. (〈共同での〉ということ)
    第五部 有限な歴史

    私たちの共通の果敢なさ(日本語版のために)

    訳注
    〈分有〉、存在の複数性の思考──あとがきに代えて

    *****

  • ジャン=リュック・ナンシー入門

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無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考の作品紹介

このところ「国民国家論」が興味を持たれていますが、本書はこの討論の先にある「共同体」とは何かを根源的に問うものです。アイデンティティとその帰属をめぐる問題です。

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