『国家とはなにか』

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著者 : 萱野稔人
  • 以文社 (2005年6月17日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (283ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784753102426

『国家とはなにか』の感想・レビュー・書評

  • ネトウヨ勉強シリーズ。宇野常寛ら「ナショナリズムの現在」(朝日新聞出版、2014)に登場されていた萱野先生のナショナリズム論。萱野先生は、リベラルがゆえにナショナリストである。社会保障は国家という枠組みが前提だからだ。なぜ市民国家でなく、国民国家が成立したのかを学びたかった。
    p26「国家だけが合法的に暴力を行使することができる…国家がその地域の中で他を圧倒しうるだけの暴力を持っている」なるほど。
    p169「近代国家による暴力の独占は、ふたつの要因によって可能となった。貨幣経済の発達と、火器の発達である」。
    p187「国家の脱人格化…国家の存在を支えるものが、人間のあいだの主従関係から、非人証的な領土へと転換される」
    p198「(国民国家に統合され平等主義が実現される中で)住民たちに、国家への暴力への実践へと身を投じるよう強要することと引きかえに、政治的なものへの平等なアクセス権を保証したのである」民主化の中で政治参加の拡大で拡大されてきた。納税額、性別などの制限が撤廃されてきた。なぜ、住民でなく国民でその制限がとられたのかは分からない。一つの回答としては、国家という統合の物語の背景になったのが、文化的・民族的・人種的な近さを持つ「国民」だったからか。社会保障の充実、つまり再分配の強化の正当化は萱野先生ともに、国民間だから許される。そして、人々が自由に移住する中で、だれに最終的に守ってもらうか、ということから国籍/国民が意識されるようになったのだろうか。

  • 国家論の本。ウェーバー、バリバール、ドゥルーズ、ベンヤミンなどを解きながら、国家にとって暴力装置の独占は不可欠であり、その国民国家としてのナショリズムもまた不可欠であるとする。主眼は、「グローバリゼーションによって国家はなくなる」「国民国家システムは消滅する」などという人々に対するアンチテーゼ。

  • 知的な刺激が満載!!

    最近目新しいことがなくて。という方にはもってこい。

    普段あまり考えることがない、しかし身近に存在する国家について、国家とは何かを考察する本。

    国家とは誰のためのものなのか?必読

  • 「国家とは人びとの間にうちたてられる関係性である・・」という何となくアカデミックな前提に、正面から「それだけじゃないだろ」と問う。学会の権威に自分を合わせるのではなく、自分の頭で考えるというスタイルに非常な好感を覚えた。
    どこまでも平易な説明のスタイル。愚直なまでの反復、応答、問いの再確認の連続なのに、飽きがこない文章力も見事。
    意識してアカデミックなおごりを避けているのだろう。その点も異色な学者のデビュー作。

  • 国家とは暴力にかかわる運動であるという、著者の国家論。
    暴力の組織化による国家の成立から、近年の資本主義と国家との関係まで、大変興味深く読めました。

  • 121103朝日
    国家と暴力の関係

  • 図書館の社会学の棚にあったのだが哲学書だった。しかも予想外に面白かった。
    著者はマックス・ウェーバーから出発し、国家とは暴力行使という手段によって定義される、と提示する。すなわち国家とは「暴力の組織化」である。
    このテーゼは「死刑」や「戦争」が「国家」によってはじめて可能になることを思えば、半ば賛成できるものである。
    しかしウェーバーはじめ、フーコー、ドゥルーズなどやたらに引用が多く、この引用の多さは日本人による現代思想書の悪しき特徴だ。それでも、オリジナルな思考がないわけではないので、興味深く読み通すことができた。
    「国民国家」という近代の産物と、昔の西欧に見られた王権国家との断絶はどのようにして生じたのか、とか、「富の我有化」は国家誕生に際してそれほど重要なエレメントであったろうか、とか、読んでいて疑問を持ちつつも、それだけ自分の思考が刺激を受けたとも言える。
    時間がたったらまた読み返してみたいと感じるくらい、意外に優れた本だったと思う。

  • 国家を暴力の面から構成していく書。

    思想的には著者は左派に属するのだろうが、おそらく左派言論村では扱いに困るだろうと、読んでいて苦笑した。

  • 「国家とは暴力である」
    これを命題に国家を解説する
    いままでの国家に対する考えが先入観による誤りであったと気付く
    良い一冊

  • ここ数年来密度の濃い議論を展開している萱野稔人の著作。この著作で提示される、国家は暴力にかかわる運動であるという定義は、国家に従うことを自明視している人々の心性を鋭く抉るだろう。

  • だいぶラディカル。フーコーとアーレントの暴力-権力論と後ろの千のプラトーの話が特に面白かった。わかりやすいし。

  • 国家の概念規定から始まり、その生成、主権成立や国民国家の形成、資本主義との関係を論じている。暴力が組織化され集団的に行使されることのひとつの帰結として国家は存在し、暴力に先んじて国家があるのではないとする。また、一般的に理解しやすい”国家を必要悪とみなす考え”や”住民の生命や財産を守るため租税を負担すべき”という考え方を妥当でないとし、国家は自らの利益(富の我有化)を追求することで結果的に治安の管理に向かうとしている(”保護する故に拘束する”のではなく”拘束する故に保護する”)。国家と資本主義の関係やその親和性を説いた部分や、グローバリゼーションが国家が住民の生存について”面倒をみる”役割を低減させる方向に作用するといった指摘は特に興味深い。とてもおもしろい1冊だったが、理解できてない部分もあると思うのでそのうち再読する予定(また、引用がウェーバー、フーコー、スピノザ、ドゥールーズ、ガタリ他広範囲に及ぶため本当はそれらの書籍なども読んでのほうがよいのだろうけど…)。

  • 国家論全体を暴力の哲学として理論的に、および主権から資本主義の関係として系譜論的に、捉えた画期的な1冊。体系だった記述、バランスの良い目配り、引用文献の良さ、さらに論理的展開など政治哲学の啓蒙書として文句ないレベルにあると思われる。すばらしいの一言。

  • 読み進めると、ふむふむ。ほーほー、なるほど、うーんという感じ。辞書引きながらでないと、知らない言葉が多かった。

  • 国家を暴力行為という手段によって定義し、
    組織、個々について論じる一冊。

  • ヴェーバーと合わせてさっさと読みっ切っちゃいたい。

  • 国家を「暴力行為という手段によって定義する」、非常に刺激的な一冊。社会契約論的な国家観を明確に否定し、国家を形成する原動力である暴力の独占をいかに国家が正当化してきたかということを、資本主義との関係に留意しつつ、理論的に解明していく。そしてその理論は、国家の先にあるものを見据えようとしている。

    この本のすごいところは、論理が明快なのはもちろんだが、文章が平易なところがすごい。理論書でありながら、卑近な例を駆使しつつ僕のような頭のよくない人間にもわりとわかった気にさせてくれる。これはすごい。

    理論的な側面では太刀打ちできないのだけど、やはり気になるのは、歴史学の成果、あるいは歴史の問題が軽視されているのではないか?という点だ。歴史をやっている人間の贔屓目に過ぎないのかもしれないけれど。

    具体的に言うと、この理論で日本における近世国家から近代国家への移行が説明できるのか?ということだ。4章以降は「国家が現在のようなあり方になってきた歴史的なメカニズムが考察される」(p7)。しかしそこで語られる「歴史的」とは、なんというか実態のないイメージの歴史で語られている印象を持ってしまう。

    どういうことかというと、まず「脱団体化」(p174)に触れたくだりで考えてみる。

    「こうした「脱団体化」は、近代日本において主権が確立されるプロセスのなかにも観察されるだろう。つまり、士農工商の身分制を廃止して、主権者としての天皇の身体に住民を直接的にむすびつけたプロセスである。そのむすびつきを制度的に体現したのが戸籍制度にほかならない」(p175)

    戸籍制度が「天皇の身体に住民を直接的にむすびつけたプロセス」という理解は不勉強にして初めて聞いたのだけど、果してそうだろうか?明治4年の戸籍法制定以後も、「中間団体」として近世村の存在は無視できない(実質的な徴税単位としてもしばらく機能したし、地租改正の単位でもあった)。天皇との結びつきはともかく、「個」として制度的に住民があまねく平等になっていくのは、政治的平等を見るだけでも普選以降ということにならないだろうか。

    あるいは政治的平等で語るのは不適切かもしれないので、本書の論に即して「富の徴収」という観点から考えて話を元に戻してみる。徴税単位として明治政府が個人を把握するのは、やはり地租改正以降ではないか。それまでは国家が唯一国民を徴税単位として把握できる国税である地租が存在しないのだから。まあそれは細かいところだ。

    もうひとつ疑問なのは、日本における近世国家から近代国家への移行の問題だ。近世においては、各藩がもっている土地は藩あるいは藩主の私有ではないと考えられていたはずだ。その近世的国制は、本書が想定する「王や皇帝はすべての領土を一元的に支配しているわけではなく、ただ間接的にのみ、つまりある地域を支配している武力集団のリーダーをみずからのもとに従わせているという仕方によってのみ、支配しているにすぎない」(p167)とする前近代国家観とは異なるものだ。

    先述したような日本の近世的国制が、暴力の独占が完全ではない明治4年までの段階(すくなくとも西南戦争までは、明治政府は暴力の独占がかなりの程度達成されていたとは思えない)で、廃藩置県と身分制の撤廃を一挙に遂行できた大きな要因になるというのが歴史学のひとつの成果(鈴木正幸『国民国家と天皇制)だ。少なくとも、暴力の独占のみが主権確立の唯一条件であるとする本書の想定では、日本における主権確立過程を説明できない気がするのだ。

    しかしこの点は著者の日本近世史・近代史に対する理解の不足(というよりは、ヨーロッパ国制の一般化かもしれない)によって、等閑に付されている。おそらく、現在の一律な国家形態から、逆に国家の歴史を敷衍していく... 続きを読む

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『国家とはなにか』の作品紹介

いま、「国家とはなにか」と改めて問われても、何を問われているのか分からないほど、私たちは国家というものを身近なものと感じ切ってしまっています。本書は、この身近と思っている国家は、基本的には「暴力に関わる一つの運動態である」という、あまり身近と思いたくない概念規定から論を始めています。
近年、グローバリゼイションと同時にナショナリズムやレイシズムへの関心も高まってきて、その意味では国家にかんする議論は広く行われていますが、本書は先の基本的概念から初めて、昨今の「国民国家論」に至る、現代思想の主要なテーマ系にも十分配慮した、新鋭による書き下ろしです。

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