編集 -悪い本ほどすぐできる 良い本ほどむずかしい-

著者 :
制作 : PIE BOOKS  久野 寧子 
  • パイインターナショナル
4.07
  • (3)
  • (10)
  • (2)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 99
感想 : 5
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (408ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784756248220

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 300

    編集者も、自分自身の差別化をすべきである。「ちょっと変わっている」と思わ れてもかまわない。少しでも、ヒトと違うほうがいい。小説家や学者や画家などの 著作者に、「アイツは、ほかのヤツと、ちょっと違うな」と思われたほうが、密着 しやすくなるからである。 多くの場合、著作者は、編集者よりも、世の中のことを知っている人が多い。著 作者も編集者も、同じ時代を共有しているニンゲン同士だけれども、あるジャンル においては、専門家である著作者のほうが詳しい。ひとつの分野に詳しいというこ とは、ある深みを見ている、ということである。

    作品をそのまま盗めば罪になるが、アイディアを盗んでも罪にはならない。著作 権用語で、他者の作品を作り替えることを「改変」という。この改変を、うまくや ればいいのである。いま、中国は「パクリ天国」といわれている。これは、アイディ アだけではなく、出来上がりのカタチまで真似ているからである。


    集英社のモノマネがウマかったのは、アイディアを盗んで、改変することによっ て、自社のオリジナリティを出したことである。ここから得られる教訓は、「アイ ディアに著作権はない。ウマく盗んで、ウマく改変せよ」ということである。この ことさえ守れば、いくら盗んでもいい。


    アイディアであっても、他者の真似をするには、図々しさと図太さが必要である。 しかし、恥じずに、照れずに、堂々とやればいい。そこに「差別化」された個性が あれば、真似ではなくなる。

    編集者は、普段から、モノを見る時に、いつも、「色」と「線」と「形」を気に していたほうがいい。ただ眺めるのではなく、「色・線・形」それぞれの違いを気 にしないといけない。「色」の違いが分かる人は、人の気持ちの、ちょっとした違 いも読める。色は、そういう性質を持っている。「線」が分かる人は、きれいな線 と汚い線との違いを見極められる。きれいな線は、分かりやすいということ。汚 い線は、分かりにくいということである。「形」のいい悪いが分かる人は、「用」 と「質」の関係が分かる。すべてのモノの「色・線・形」は、そういうことに繋 がるのである。

    言葉は、音楽(旋律)である。だから、リズムがない言葉は、ギクシャクしてダ メである。文章も同じである。昔から、五・七・五・七・七の「韻文」が好まれたのは、 調子がいいからである。

    文章を書く以上、ボクは、自分の文章でなければ面白くない、と思っている。 言葉も文章も「音楽」である。百人百様の音楽である。十年も逢わなかった人なのに 、隣の部屋で話している声を聞くだけで、その人だと分かることもある。同じクラシック音楽でも、ベートーヴェンのような人もいれば、バッハのような人もいる。その人の個性をあらわす「リズム」がある。このリズムを壊すことで偉くなっ たストラヴィンスキーは、音楽理論から外れた音楽である(一九一三年に作曲され 『春の祭典』は、近代音楽の傑作として知られるが、複雑なリズムと不協和音に満ち、発表された当時、大騒動になった)。そういう音楽も、立派なクラシックとしてあり得るわけだから、どの章も、その人固有の「旋律」でなければならない。

    ボクは、左翼・右翼という考え方は野暮だと思っている。左でも右でも、どちらでもいい。ヒューマニズムに対しては、左から行っても、右から行っても同じであ る。いいモノは、いいからである。ボクは、舟橋さんは小説の達人だ、と思いながらよく読んでいた。

    「誰にも恨まれない評論というのは、本当の評論ではない。自分が傷つかない文章は、本当の文章ではない」と学生最後の夏に聞いた舟橋聖一の言葉を、文章を書くたびに、必ず、思い出している。

    舟橋聖一さんは続けた。 「人の批評をすること、また、人を批評する文章を書くということは、自分が傷つくことである。自分が傷つく批評は、正しい批評である。しかし、いま、舟橋聖一を叩いている批評家や新聞記者は、自分が傷つかない立場に立ち、防弾チョッキを着て、高い所から、低い所にいる裸の者に、鉄砲を撃っているようなものである。 そうではなく、モノを言うのなら、言ったコトに対して、必ず、自分が傷つくようなモノを言っている人のことを、私は、信じたい。いまの評論界で、私を正しく批評してくれるのは、二人だけである。ありがたいと思っている。しかしあとはみんな信じない。本当の批評というものは、言ったことによって、自分が傷つくものである。傷つきたくなかったら、『沈黙は金なり』という教えに従って黙っていればいい。それも、知恵である。何かを言う以上は、賛成者もいれば、必ず、 反対者もいる。その反対者によって、自分が傷つくかもしれない。たとえ、傷ついてもいいから、言いたいことを言う。それが、批評である」

    粋な人というのは、女性でいえば、「お俠」のことである。 その昔、芸者衆がいた東京の下町・芳町や柳橋、向島などでは、粋な女性のことを「小粋」といっていた。昔から、日本人は、「こ」や「お」という接頭語をつけるのが好きである。生意気なヤツでも、ちょっとした愛情を込めて、コナマイキ(小生意気)とか、コニクラシイ(小憎らしい)などという。少々お腹が空いたことを、 コバラ(小腹)が空いた、ともいう。女性の名前も、平安時代は、藤原定子、靴子と発音していたが、次第に、「さだこ」「あきこ」というように、「し」が「こ」になっていった。 「おきゃん」は、小生意気な娘のことである。親にしてみれば、素直に にしていて欲しいのに、逆らったり、跳んだり、跳ねたり、ハラハラさせられたる。しかし、世間から見ると、どんなにお転婆でも、おきゃんは、さり気なく気配りできる、行動派の可愛い女の子のことである。

    ボクは、共産主義を悪いと思っていない。理想的で、いい主義だと思う。ただ、 それを、いたずらに信望し、実行している者たちが悪い。「主義」と「人間」は違う。共産主義を実行する過程で、人間が悪くなっていくのである。ロシアと北朝鮮を見れば分かる。カストロを見ても分かる。主義に参じることで、人間の性質が変わっていく。共産主義というモノは、統制主義・国家主義である。国が決め 、それに倣う。国があって、人がいるのである。民主主義の日本は、そうではない。 人があって、国がある。このように、中国と日本は、国の概念から違うのである。

    ヨーロッパの国旗に対する思いは、押しつけられた不自然な愛国心ではなく、自然で、民族的な愛国心である。愛国心というのは、そのものがキザだから、下手な言葉で語ると余計にキザになる。この愛国心のために、間違って悪いことをするヤツもいる。戦争が始まったりもする。しかし、フランスの国旗は、エスノロジー(民族学)的な愛国心に基づく、民族の血としての旗である。心に、国家ラ・マルセイ エーズが、自然に流れているのである。

豊田きいちの作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
ジェームス W....
佐々木 圭一
佐藤 優
村田 沙耶香
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×