芸術の陰謀―消費社会と現代アート

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  • Amazon.co.jp ・本 (209ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784757142770

作品紹介・あらすじ

いまや芸術は「無価値・無内容」なのか?ボードリヤールによる挑発的現代アート論。

感想・レビュー・書評

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  • 芸術は「無価値・無意味」となったとするジャン・ボードリヤールの過激な小論文と、それに対するインタービュー集を収録。

    あらゆるポルノの氾濫の中でポルノへの欲望の幻想が失われてしまったのと同様に、現代アートもあらゆるものごとを美的な凡庸さに上昇させるトランス・エステティック(「美」と美的判断を超えた状態)となってしまった故に、芸術が持っていた美に対する幻想への欲望を失ってしまった。モノ自体が有用性から切り離されたガジェットであっても消費社会では一般に流通し、また、テクノロジーの進歩で誰もが疑似的に容易くモノを製作できるキッチュが横行する中では、凡庸で日常な製品を素材とし、主題としての美ではなく客体としてのモノをコード化して表現・主張する現代アートは、もはや意味を持たないモノ=オブジェそのものであり、芸術は美と醜という観念を超えたハイパーリアルな世界となってしまっている。
    そして、そうした現代アートは凡庸で日常的なものを組み合わせて、それが芸術だと言い張るが、実は誰もが作成可能なオリジナルのないコピーというシュミラークルの世界に過ぎない。ここでは製作者のみならず観客も、このような「無価値・無意味」なモノが本当に「無価値・無意味」であるはずがないという逆説的な意味と捉え、芸術の「無価値・無意味」化に共犯として加担しているが、美術界全体がこのようなモノに驚愕すべき価格をつけることでさらに「無価値・無意味」であるはずがないという二重の陰謀となっているとしている。

    こうした論考の中でもアンディ・ウォーホルについては、現代アートの表現の主観性の喪失という事態に、むしろイメージの中心部に虚無を再導入したとし、ボードリヤールの絶え間なき興味の対象として別格扱いしているのは興味深い。
    確かに解説にもある通り、きょうびパソコンやデジカメとちょっとした技術があれば誰でもプチ・ウォーホルになれる世の中だ。誰もが主張し、そのものの意味を持たないオブジェに過ぎなくなったモノが世界へ拡散されていく社会において、「芸術」とされるモノ=オブジェに対するボードリヤールの視点はあくまでもアイロニカルに溢れ、辛辣に核心をつく言説となっている。しかし、凡庸なる人々(自分も含めて)が持っていたに違いない漠然とした不安感をこのように世の中にさらけ出さずして、芸術への審美観念の再生が行われるはずがない。(再生するとすればだが。)ボードリヤールの亡き今、もはや次なるステップへの導きがないということは誠に残念な話だ。
    ボードリヤールの文章は詩的で比喩に飛んでいるため、なかなか真意が掴みにくいが、その華麗なる筆致には今回も魅惑させられた。解説が読者の理解によく意を払っているのも良かった。

  •  現在いたるところに氾濫しているポルノの中で、欲望への幻想が失われているとすれば、現代アートの中で失われているのは、幻想への欲望である。

  • 「泉」などで有名なマルセル・デュシャンや「キャンベルのスープ缶」などで有名なアンディ・ウオーホルなどをイメージさせながら、芸術においてオリジナル不在のシミュレーションの台頭、芸術におけるオリジナル性に起因する特権の剥落、高騰する現代アートのマーケットと不釣合いな「無価値・無内容(nul)」な現代アートの数々という刺激的な内容が続いている。フランス思想系の本は読んだことがなかったので読みにくさはあるものの、現代アートに対する理解としては非常に納得感のある本であった。

  • 現代アートにとっては、それが無内容・無価値であることに意味があるという。無内容・無価値であるにも関わらずあたかも隠された何かがあるように感じられるのは、芸術には理解すべきことなどなにもないということが理解できない人々をあてにすることで成立する。そしてそれぞれの作品はもはやひとつのアイディアに過ぎず、固有の存在感を持てない。「私たちはもはや芸術を信頼しているのではなくて、芸術の観念を信頼しているだけである。」
    一方で彼はウォーホールを評価する。その理由として、彼は美的なものの概念をそれがもはや美的特質をもたなくなる限界まで推し進め、そのイメージが少しも変形することなしに、純粋な形象へと高めることに成功している。つまり、それはもはや超越性の表現でなく、記号の出力の上昇そのものなのである。その上昇を通して、現実を美的なものや芸術から解放したのである。
    現代アートは個人的にも興味深いが、「意味のないことに意味があるかのよう」な作品については、アーレントが指摘したように「大衆に文化を任せられない」と危惧する知識人が自らの立場をもってして、本来は娯楽に使われる消費財に対し知性を与えることで生まれるのではないだろうか。ウォーホール論としても、自分の研究においても、楽しめる作品だった。

  • レイアウトの余白が多くて字が少なくて薄い本なのに2,400円もするし巻頭からいきなり1990年のウォーホルについてのインタビューで、今頃出版されるには内容が古いんじゃないか。書店で手に取ったけど買わなかった。でも今でも六本木の国立新美でアメリカンポップ・アート展(~2013/10/21)なんてやってるので、そうかもう時代が一周してまた見直されているもんなのかなと思ったりしている。本編のインタビューや散文はまとまりがないが、後半の訳者によるキーワード解説は親切丁寧、文章も読みやすい。現代美術はニュルニュル。価値がある人たちだけのもの。

  • 「まったく同様に、理論とは、観念=発想を抱くこと(真理と戯れること)ではなくて、意味が容易に捕まるほど単純素朴だと思い込んで、疑似餌や罠を仕掛けることなのだ。幻想をつうじて、根源的な誘惑の形態を再発見すること」

    社会科学における「理論」とは何なのか考えることが最近多い。それは自然科学における「理論」とはやはり性質が異なっている。自然科学における「理論」にも例外はもちろんあることが多いのだと思うけど、社会科学における例外の多さはそれとは比べ物にならない。むしろ、社会科学における「理論」というのは「説得性」とか「魅力」とか「美しさ」とか、そういうもので完成度が測られていて、それが正しいことのようにも思えるのだ。

    そうした中、この引用にあるような認識というのは社会科学における「理論」とはどういうものなのかをもう一度捉え直す上で興味深い。おそらく、人間に関連している限り、社会科学の理論は「幻想」から逃れることはできない。そのことを踏まえて、あえてその理論を組み立てる。その意義は、なんらかの発展的な認識をもたらすことであり、そしてそれが絶対のものでないという形で懐疑主義を貫く――これが社会科学の「理論」の立ち位置になるのではないかと思う。

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784757142770

  • 印象に残った文章
    49「芸術を保護するわけにはいかない。文化保護主義的傾向が強まるほど、ゴミのような作品が多くなり、偽りの成功や偽りの価値の高等が増えてくる。」
    50「これまで、芸術は、世界を超越しようという意思、事物【事象的世界】に例外的で、崇高な形態をあたえようとする意思をもつという意味で、思い上がったことがらだとされてきた。芸術は、精神世界を支配するひとつの論証となった。」
    80「私は、芸術がますます思い込みが激しくなっていると感じる。芸術は、生活=人生そのものになろうとしたのだから。」
    182「これからの現代アートは、色褪せて有毒な多幸症的雰囲気の中を漂い、明晰さの稲妻に痛ましくも貫かれ、睡眠状態で夢遊病的にふるまうだろう。完全に死に絶えたのではないが、ほとんど生きているとはいえず、それでも永遠の花盛りを装うのだ。」
    184「現代アート~ 実際に「無価値・無内容」になってしまったという事態を、メディアや大衆に隠し通すために、あえて「私は無価値・無内容だ」と言い張ることで、「そこには何か意味があるにちがいない」と思わせるという「芸術の陰謀」」
    199「その先の可能性について、ボードリヤールは何ひとつ語ってはいないが、彼の、いわば無責任な挑発を受けたアーティストたちから、予測不能な未知の提案がなされることを、JB(ジャン・ボードリヤール)は秘かに期待していたのだ」
    200「JBは、一見そう思われるように、消費社会論から出発して、その後現代アート論に到達したということよりはむしろ、彼の消費社会論自体が、最初から現代アート論の要素を含んでいたことになる。」
    204「私はもはや進歩的で肯定的な行動を求めはしない。極端な現象の中に、否定的あるいは逆説的な除反応を求めるのだ。それは挑発という戦略であり、もはやユートピアや想像力の世界を祈祷するたぐいの戦略ではない。」
    206「彼がたどりついたのが「世界とは、われわれが考えているようなものではない。逆に、世界のほうがわれわれのことを考えているのだ」というアイディアだったのではなかっただろうか」

  • やや難解。

  • 現代芸術の一消費者として、とても刺激的な論考。塚原さんの解説部分も秀逸。
    今日の芸術は無意味であることをおおっぴらにすることで、とはいいつつ、ホンマはなんかあるんでしょ?理解できない僕らが未熟なだけで、と思わせることに成功した、という第一の陰謀と、さらにもう一つ。改めてJBを読んでみれば、それも理解できるだろうか。

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著者プロフィール

【著者】ジャン・ボードリヤール :  1929年生まれ。元パリ大学教授(社会学)。マルクスの経済理論の批判的乗り越えを企て、ソシュールの記号論、フロイトの精神分析、モースの文化人類学などを大胆に導入、現代消費社会を読み解く独自の視点を提示して世界的注目を浴びた。その後オリジナルとコピーの対立を逆転させるシミュレーションと現実のデータ化・メディア化によるハイパーリアルの時代の社会文化論を大胆に提案、9・11以降は他者性の側から根源的な社会批判を展開した。写真家としても著名。2007年没。著書に『物の体系』『記号の経済学批判』『シミュラークルとシミュレーション』(以上、法政大学出版局)、『象徴交換と死』(ちくま学芸文庫)、『透きとおった悪』『湾岸戦争は起こらなかった』『不可能な交換』(以上、紀伊國屋書店)、『パワー・インフェルノ』『暴力とグローバリゼーション』『芸術の陰謀』(以上、NTT出版)、ほか多数。

「2015年 『消費社会の神話と構造 新装版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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