いかにして高次の世界を認識するか

  • 柏書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (286ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784760119943

作品紹介・あらすじ

神秘学の訓練の道筋を示した画期的書物。本書は著者と読者のあいだで交わされる対話である。

感想・レビュー・書評

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  • 霊的な研究と矛盾するような科学的な成果は存在しない。

    とらわれない態度で健全な判断力を働かせるには、人生のなかに無数に存在しているさまざまな偏見や先入観によって妨害されないようにしなくてはならない。

    人間は悟性をとおして思考するだけではなく健全な感情をとおして真理をとらえることもできる。

    特定の事柄に対する共感や反感によって駆り立てられることなく、とらわれない態度で超感覚的な認識を受け入れるようになると、私たちは感情をとおして適切な判断をすることができるようになる。

    霊視者が伝える認識を受け入れると、人生のあらゆる領域が変化する。また、このような認識が欠けていると、人生からさまざまなものが失われることになる。

    すべての人間のなかには、高次の世界を認識する能力がまどろんでいる。

    高次の世界において知識や能力を獲得する際には、それを真剣に求める人にとってはどのような障害も存在しない。

    第一の真実:高次の知識を真剣に求める人は世界の高次の秘密を手ほどきしてくれる秘儀参入者を探し出すのに、どんな苦労も、障害も、いとわないはずである。

    第二の真実:どのような状況のもとにおいても、認識を求めてふさわしい方法で真剣に努力する人には、秘密は明かされる。

    秘密を受け取る段階まで人間を霊的に成熟させる道は厳密に定められている。この道がめざす方向は霊的な世界において消すことのできない永遠の文字によって最初から示されている。

    霊的な神殿はいたるところに存在している。

    秘儀参入者から秘密を教えてもらうための手段は、私たち自身の魂のなかにしか存在しない。私たちはまず自分自身の中である種の特性を特定の高いレベルにまで発達させなくてはならない。その魂のある種の基本的な気分とは、恭順の気持ちである。

    自分よりも高いレベルの存在がいる、という深い感情を発達させない限りは、私たちは高みをめざして上昇するのに必要な力を自分自身のなかに見出すことはできない。私たちは恭順という門を通過することによって、初めて霊の高みに昇ることができる。

    現代の文明においては、人々は何かにつけて批判したり、裁いたり、断定的な評価を下したりしがちである。現代人が恭順の感情や献身的な尊敬の念を抱くことはほとんどない。

    献身的な畏敬の念は高次の認識へと到る魂の力を育ててくれる。一方、批判的な態度や断定的な判断は、畏敬の念に匹敵するくらい強い力で高次の認識へと向かう魂の力を消し去る。

    高次の知恵に関しては、人間を崇拝することが重要なのではなく、むしろ真理と認識を敬う気持ちを育てることのほうが大切である。

    高次の認識を求める人は、尊敬や畏敬などの感情を魂の中に吹き込む。このことは、学問的な研究をとおして実現するものではなく、人生そのものをとおしてのみ成し遂げられるものである。

    神秘学の学徒になろうと思う人は、恭順の気分を育てることをめざして、エネルギッシュに自分自身を教育していく必要がある。神秘学の学徒を志す人は、周囲の世界や自分自身の体験のいたるところに、崇拝や尊敬の感情を呼び起こすものを探さなくてはならない。

    例えばある人に出会った時、その人の欠点を批判的に見ると私のなかから高次の認識能力が奪われる。一方、ある人に出会った時に愛情をこめてその人の長所のなかに深く没頭するならば、私は高次の認識能力を自分自身のなかに蓄えることになる。

    経験を積んだ神秘学の学徒は、「いつも、すべての物事のよい面を見るようにし、人を裁くような判断を下さないようにすることによって、私はどれほど多くの力を発達させることができたか」ということを知っている。

    私たちは意のままに、自分自身を完全なものにしたり、時間の経過とともに自己をまったく別の存在に変えていくことができる。

    神秘学の学徒は、自分自身の意識のなかに現れる、軽蔑や否定的な批判と結びついた思考に注意を払わなくてはならない。

    私たちが静かに座り、自分自身の意識の内部を見つめ、そこに世界や人生を否定したり、裁いたり、批判したりするような判断が含まれていることに気づくとき、私たちは高次の認識に近づく。そしてこのような時、世界や人生に対する感嘆や尊敬や崇拝の感情で満たしてくれるような思考のみを意識に上らせるようにすると、私たちは早く向上することができる。

    経験を積んでいる人は、このようなときにふだんまどろんでいる力が人間のなかで目覚める、ということを知っている。まさにこのことをとおして霊的な目は開かれ、私たちは以前は見ることができなかったものを自分の周囲に認めるようになる。その時、私たちはそれまでの自分がまわりの世界のほんの一部分しか見ていなかったことを理解し始める。そしてその時、私たちがいつも出会う人間が、それまでとはまったく違った姿を現すようになる。

    神秘学の学徒は、生活のなかに、一人静かに自分自身の内部に沈潜する時間を生み出すよう教えられる。このような静かな時間に、花や、動物や、人間の行為は、学徒が予想もしていなかったような秘密を解き明かしてくれる。

    神秘学の学徒は楽しみを、世界のためにみずからを高貴なものに変えるための手段とみなす。神秘学の学徒にとって、楽しみとは世界についてさまざまな事柄を教えてくれる情報提供者のようなものである。

    あらゆる神秘学に共通する一つの基本原則
    自分自身の知識を豊かなものにし、自己の内面に宝物をため込むために求める認識はすべて、あなたを正しい道から逸脱させる。一方、みずから気高い存在となり、世界の進化と歩調をあわせて成熟するために求める認識は、あなたを前進させる。

    理想とならないような理念はすべて、あなたの魂の力を殺す。理想となるような理念はすべて、あなたのなかに生きる力を生み出す。

    秘儀参入者三つの掟
    1. 高次の秘密を求める人間には、その人にふさわしい知識を伝えなくてはならない
    2. ある種の秘められた知識に関しては、能力が十分なレベルに達していない人には、明かすことは許されない
    3. どのような人間の自由な意思決定も侵害しないように、あなたの行為と言葉を整えなさい

    私たちは皆、日常的な人間(普段生活しているときの人間のことを、ここではそう呼ぶ)のほかに、内面にさらに高次の人間を持っている。すべての人間は自分自身の力をとおしてのみ、この高次の人間を自己のなかに目覚めさせることができる。この高次の人間が目覚めるまでは、すべての人間の中でまどろんでいる超感覚的な認識に到達するための高次の能力はずっと隠されたままの状態に留まる。

    「高次の人生」は少しずつ日常生活に影響を及ぼし始める。学徒が日常生活から切り離された時間に体験する平静さが、日常生活そのものにも作用するようになる。人間全体が落ち着いたものになり、神秘学の学徒は、自分自身の行動全てに自信を持ち始める。そして学徒は、どんな予期せぬ出来事が起こっても、落ち着きを失わないようになる。

    人間の中の「高次の人間」はたえず成長を続ける。高次の人間は、平静で落ち着いた気分をとおしてのみ、法則にかなった成長をすることができる。

    瞑想をとおして霊との結びつきを深めていくと、私たちは自己のなかの永遠性や、誕生と死によって制約されないものを自分自身の中に見出すようになる。このような永遠性に疑いを抱くのは、それを自分で体験したことのない人だけだということを知る。

    私たちは瞑想をとおして、永遠に変わることのない、決して破壊されることのない、自分自身の存在の核を認識し直感する。

    瞑想することによって、誕生と死のかなたに存在する体験についての記憶が生き生きとよみがえる。すべての人間は、このような事柄について知ることができる。

    霊的な訓練の手段は、以下の三つの段階から成り立つ。
    1. 準 備
    準備をとおして、私たちの霊的な感覚が発達する。
    2. 啓 示
    啓示をとおして、私たちのなかに霊的な光が灯される。
    3. 秘儀参入
    秘儀参入は、私たちが高次の霊的存在と交流する道を開く。

    1. 準 備
    準備の段階において、私たちはその他の外界の印象を自分の内面にいっさい入り込ませないようにし、花が咲いたり、繁茂する様子を観察するときに自分自身の魂が語ることだけを、忠実に感じ取らなくてはならない。

    成長と死滅を観察することによって生まれる感情に、はっきりとした意図をもって計画的に繰り返し身をゆだねると、新しい世界が開かれる。すなわち私たちの前に、魂の世界(いわゆるアストラル界)が、少しずつ姿を現し始める。

    神秘学を探究する人は、「個々の事象は何を意味しているのか」ということばかり考えるべきではない。なぜなら悟性を働かせても、私たちは正しい道から逸れてしまうだけだからである。神秘学を探究する人は、まず新鮮な気持ちを抱いて、健全な感覚と鋭い観察の才能を働かせながら感覚的な世界を観察し、そのあとでみずからの感情に身をゆだねるべきである。私たちは、個々の事象が何を意味しているのか、ということを悟性的な思考をとおして理解するのではなく、事物そのものに語らせるべきである。

    物質的・感覚的な世界における机や椅子と同じように、感情や思考は現実的な事実である、ということを完全に理解するとき、私たちは高次の世界において自分の位置を確認することができるようになる。物質的な世界における感覚的な事物がお互いに作用し合うのと同じように、魂の世界と思考の世界では、感情と思考は相互に影響し合っている。

    でたらめに撃った銃弾がものにあたると、それがこの銃弾の作用を受けるのと同じように、私たちが抱く誤った思考は、思考の世界で活動するそのほかの思考に対して破壊的に作用する。

    神秘学において、私たちは物質界で一歩一歩の歩みに注意を払うのと同じように、みずからの思考や感情に心を配る場合にのみ、前進することができる。

    神秘学の学徒の訓練においては、他の人の話にどのように耳を傾けるか、ということが特に重要な意味を持っている。学徒は、人の話を聞くときに、自己の内面を完全に沈黙させる習慣を身につけなくてはならない。

    たとえば通常の場合には、ある人が意見を述べるのを聞くと、聞いている人の内面には、さまざまな同意や反論が湧き上がってくる。このとき、多くの人はすぐに賛成や反対の意見を述べたいという衝動を感じる。しかし神秘学の学徒は、賛成や反対の意見をすべて沈黙させなければならない。

    神秘学の学徒は、さまざまな機会に自分とは正反対の意見に耳を傾け、そのときあらゆる賛成意見や、とりわけあらゆる否定的な判断を、完全に沈黙させる訓練を自分に課す。この場合、あらゆる悟性的な判断だけではなく、不快感や、拒絶したいという気持ちや、さらには同意したいという気持ちまでも、すべて沈黙させることが大切である。このような態度で子どもが話す言葉に耳を傾けるのは、すべての人に有益な結果をもたらす。すぐれた賢者ですら、子どもたちから、計り知れないほど多くのことを学ぶことができる。

    この訓練を続けるうちに、私たちは、自分自身の人格や、自分自身の意見や感情をすべて排除して、完全に無私の態度で相手の言葉に耳を傾けることができるようになる。

    私たちは言葉に耳を傾けることをとおして、自分以外の人間の魂のなかに入っていく。このような訓練を続けることで、初めて音声が、魂と霊を知覚するのにふさわしい手段となる。

    無私の態度で耳を傾ける訓練を行うことによって、個人的な考えや感情を働かせることなく、自己の内面をとおして静かに言葉を受け入れられるようになった人に対してのみ、神秘学でいうところの高次の存在者たちは語りかけることができる。私たちが、静かに耳を傾けるべき相手に対して、自分自身の思考や感情をぶつけている限りは、霊的な世界の存在者たちは沈黙し続ける。

    2. 啓 示
    私たちは啓示の訓練を、特定の方法でさまざまな自然の存在(たとえば透明で美しい形態を備えた水晶などの鉱物や植物や動物など)を観察することから始める。

    集中的に以下のような思考に没頭し、鋭い注意力を鉱物や動物に向けるとき、私たちの魂のなかに、二つのまったく異なった種類の感情が現れる。
    「鉱物には形態がある。動物にも、形態がある。鉱物は自分のいる場所に静かに留まっているが、動物は居場所を変える。動物は衝動(欲望)をとおして、居場所を変えるようにうながされる。動物の形態は、この衝動に仕えている。動物の器官(動物にとっての道具)は、この衝動に従って形成されている。それに対して、鉱物の形態は衝動によってではなく、衝動を持たない力によって形成されている。」
    すなわち、鉱物からはある感情が、そして動物からは、それとは別の感情が私たちの魂のなかに流れ込んでくる。

    おそらくこのような訓練は、最初はうまくいかない。しかし本当に辛抱強く訓練を行ううちに、このような感情が少しずつ姿を現すようになる。私たちは、ただ繰り返し訓練を続けるだけでよい。

    最初のうちは、このような感情は鉱物や動物を観察しているときにだけ生じるが、訓練を続けるうちにこの感情は観察を終えたあとでも作用するようになる。このような感情と、このような感情と結びついた思考のなかから、私たちが霊視するための器官が形成されてゆく。

    このような観察の対象にさらに植物を加えると、私たちは「植物から流れ込んでくる感情は、その性質と程度において、鉱物と動物の中間に位置している」ということに気づく。このようにして形成される器官が霊的な目である。

    日常的な言葉は、本来物質的な事柄を言い表すという目的だけのために生み出されたものである。

    決して物質的に受肉することのない高次の世界の存在たちが、とてもすばらしい(あるいはぞっとするような)色あいをおびて現れることがよくある。このような高次の世界の色彩は、物質的な世界の色彩に比べてはるかに豊かである。

    「霊的な目」をとおして霊視する能力を身につけると、私たちは遅かれ早かれ、物質的な現実のなかにはけっして足を踏み入れることのない、人間よりも高次の存在者たちと(場合によっては、人間よりも低次の存在者たちと)出会うことになる。このような段階までたどりつくと、私たちがさらに多くの事柄と出会う可能性が生じる。

    神秘学の学徒になる人は、崇高で善なる人間としての特性を少しでも失ってはならない。その人は、自分自身の道徳的な力や内面的な純粋さや観察能力をたえず高める努力をしなくてはならない。

    さらに、神秘学の学徒は人間や動物の世界に対する共感や、自然の美しさに対する感覚をたえず高めるように努めなくてはならない。

    私たちは、いま自分が置かれている人生の立場と義務から判断して、自由に使うことが許される以上の時間と力を訓練にあてるべきではない。神秘学の訓練の道をたどることによって、私たちが一瞬でも、ほんの少しでも、日常生活の状況を変化させるようなことがあってはならない。最高の意味において(そして最良の意味において)待つことを学ぼうとしない人は、神秘学の学徒となるには適していない。

    私たちはたえず一つのことを考えることによって、自分自身を強めるように努めなくてはならない。すなわち、「期待しているような進歩がなかなか現れないとしても、しばらくすると、いつの間にかいちじるしい進歩を遂げていることもある」ということである。このことを理解しない人は、容易に忍耐力を失い、全ての試みをすぐに辞めてしまうことになる。

    多くの人々が、神秘学の小道に足を踏み入れてから、進歩が早く現れないという理由で、すぐにこの小道を去っていく。最初の高次の経験が現れ、自分自身、それに気付いたにもかかわらず、それを幻覚と見なしてしまうこともある。

    すべての学徒は、まず最初に「私自身の感情と思考の世界のなかに、最高の秘密が隠されている。私はいままでは、これらの秘密に気づいていなかっただけなのである」と考えなくてはならない。

    人間は体と魂と霊をともなって活動している。神秘学の学徒は、通常の人間が自分の体を意識するのと同じように、魂や霊を意識するようになる。

  • ルドルフ・シュタイナーの著書は、語り口が独特なため難解でとっつきにくい印象。自己啓発書など、端的な表現が好きな人は、特にイライラするかもしれないけど、臨床心理学とか哲学が好きな人は読んでみるといいかもしれない。誤解をおそれず言えば、スピリチュアル系の科学だと思う。神とか霊的なものを、こういうふうに洞察するする本は希少。

  • 04018

    02/29

  • 修行中

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著者プロフィール

ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)
哲学博士。オーストリア生まれ。ウイーン工科大学で、自然科学・数学・哲学を学ぶ。ゲーテ研究家・著述家・文芸雑誌編集者として世紀末のウィーン・ワイマール・ベルリンで活躍。帝政ロシア生まれのエレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー創唱になる神智学協会のドイツ支部事務総長就任後、袂を分かち、人智学=アントロポゾフィーを樹立。スイス・バーゼル近郊ドルナッハに自身設計した劇場と大学を含む「ゲーテアヌム」を建設し、普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)本部とした。

「2023年 『人間発達論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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