あなたは今、この文章を読んでいる。:パラフィクションの誕生
- 慶應義塾大学出版会 (2014年9月13日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
- / ISBN・EAN: 9784766421620
作品紹介・あらすじ
円城塔、伊藤計劃、筒井康隆、辻原登、舞城王太郎、ジョン・バース、コルタサル、ジーン・ウルフ――
メタフィクションの臨界点を突破する、2010年代のための衝撃のフィクション論。
「フィクション」の「虚構性」を意識的に描き出そうとする、「メタフィクション」は、ゼロ年代に入り、ゲームとアニメ、インターネットの進化と連動しながら、あらゆるジャンルで著しい勃興を遂げた。しかし、世に氾濫する過剰な「メタ」は、或る重大な問題をはらんでいたのである。すなわち、フィクションが複雑化・階層化されるにつれ、物語の外部で操作する「作者」の絶対性は強化される、というパラドックスである。
ところがゼロ年代後半から、「メタ」の限界を乗り越えるべく構想された作品群が登場しはじめる。それらのテクストには、「読者」に「読む」という能動的行為を要求するプログラムが内包されていた。
本書では、そのプログラムを「近傍の/両側の/以外の/準じる/寄生する」という意味をもつ「パラ」を冠するフィクションとして名づけ、提言する。「読者」つまり「あなた」が読むたびに新たに生成されるフィクション、それが「パラフィクション」である。
感想・レビュー・書評
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虚構が現実を凌駕する瞬間もある。
無意識にでも物語を作って自分を守ったりすることもある。
だからこそ物語は、救いであり祈りであり呪いであり、希望で絶望でもあるかもしれない。
手法としても面白く、物語に深みを与えるメタ・パラは面白い。 -
思索
本の本 -
評論
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貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784766421620 -
個人的にはあまり完成度の高いとは思えなかった『虚人たち』「メタ・パラの七・五人」に関連する書籍。確かに筆者のいうようにメタフィクションというのは翻ってその「虚構性」を強めてしまう、という指摘にはなるほどと思ったものの、そこから敷衍される「パラフィクション」の概念については円城塔の作品の実例以外イマイチピンと来ず、それに読書中に読者にできることといえば「読むこと」以外にないのだから、そこからどこまで話が広がっていくのか、どういった文学的可能性が内包されているのかそこまで期待を持てなかった。
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「これは書かれたものである」という当然の事実を前景化する〈メタフィクション〉に対して、もう一つのごく当たり前の事実、「これはあなたに読まれている」ということを前景化する〈パラフィクション〉(著者による造語)という様相を持つテクストについて論じている。
とても刺激的で面白い。
円城とか舞城とか好きなんだな〜ってわかりすぎる推しっぷりだが僕も僕で大好きだしまあ。
本文中に出てくる小説みな面白そうだし読書意欲もりもり湧いてきたぞ。 -
【選書フェア2015】
資料ID:98150935
請求記号:901.3||S
配置場所:工枚選書フェア -
10/30 読了。
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筒井氏「モナドの領域」を読んで“パラフィクション”という概念に興味が湧き、手に取った本。パラフィクションを論じる前提として語られるメタフィクションについての論述も、そこから出てくる読者論とでも言うべき視点も、メタフィクションと読者論が重なることで生まれるパラフィクションという概念も、とても面白かった。何しろ、考察の対象となっているのは筒井氏を筆頭に、舞城王太郎(初めて知った名前だったので本書を読むのを中断して二作ほど作品を読みました)、そして円城塔、伊藤計劃、神林長平と、ものすごく私にフィットするラインナップ。本書で書かれているようなことを意識的に考えたことはなかったが、自分が「読書」というものに対して何を求めているのか、気付かされた。
私が「読書」に求めるもの、それは、もちろん気分転換やリラックスなどいわゆる「気晴らし」的な要素もあるが、それよりも、もっと能動的な、「読書」というアクションへの手応え、だったのだ。語られる物語の単なる傍観者であることから一歩進んだ、語られる物語を能動的に読み、読むという行為を自らの「経験」として自覚できる、その手応え。そうした欲求に応えてくれると感じられたからこそ“好きな作家”となったのが筒井康隆であり、神林長平であり、同じ意味合いで“面白い”と思ったのが伊藤計劃作品であり、円城塔作品だった。そして中でも、「言葉」の持つ力、それも「語る者」と「語られる事象」の間を仲介する独立した機能を持った存在としての「言葉」のあり方(リアル/アナログとバーチャル/デジタルの間を仲介するものでもある)を、30年間追い続けている“言葉使い師”神林長平が、その作品が、私はやっぱり好きだなあと再確認。筒井氏は「言葉」よりやはり「物語」のひとであり、円城塔は逆に「言葉」より「語る/読まれる行為」に眼差しが向いていて、そのどちらも面白いけれど、「語る」行為、語られる「物語」、「読む」行為を縦断的に貫く「言葉」そのものに切り込んでいく神林作品は、読んでいる時の作品世界への没入と同時発生的に起こる「いま、読んでいる」という意識の何とも言えない感覚(まさにパラフィクショナルな感覚)が、なお一層面白い(そして、名前としては円城塔の隣に置きたくなる伊藤計劃も、『ハーモニー』を読むと円城塔より「言葉」という有機プログラムそのものへの関心があり、「物語」への関心もあったと感じる)。
それにしても、漠然と感じていた自分の志向が、こうした論述によって解明するという体験というのも、めったにないものでとても刺激的だった。文学研究者を志しているわけではないので、これ以上この概念を(文学論の文脈で)追うことはないと思うが、読書に限らず、自分の中の好みや志向について、キーワードを繋げてくれる客観的な研究が存在しうるという貴重な気づきは、今後も忘れずにいたい。 -
2014 10/2読了。恵文社一乗寺店で購入。
円城塔を批評するために「メタフィクション」ではなく「パラフィクション」という概念を持ち出してきた、という本。
前半はメタフィクションの話、後半からパラフィクションを導出してメインの円城塔批評。
それが書かれたものである=作者がいることを意識させるメタフィクションに対し、それが読まれるものである=読者の存在を意識させるのがパラフィクション(すごい大雑把に)としている。
なるほどそれは円城塔っぽい・・・ただ、冒頭だと道化師の蝶批評っぽかったのに、後半それよりも屍者の帝国メインで、いやそこはもっと道化師の蝶の話してほしかったな、ということはある。 -
「筒井康隆」という4つの文字がいったい幾つ出てきただろう。平岡じゃあるまいし今さら筒井でもないだろうに。
ありきたりな筒井作品の考察と東のポストモダン論考の引用が中心の第一部は退屈だ。第二部だけでいいんじゃない?100ページも無いけど。低刺激の論文でした。