A2

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  • 現代書館 (2002年3月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784768476826

A2の感想・レビュー・書評

  • アーレフ(旧オウム) のドキュメンタリー映画「A」の続編「A2」の撮影日誌 と、映画のシナリオです。
    映画については未見です。

    信者サイドや住民サイドのいずれかに立つのではなく、
    事実と自分の思いを淡々と書いていくところが良いです。
    映画という形にまとめるに当たって、どこを入れどこを捨てるのか
    どう見えるように撮るのか、様々な逡巡が見て取れます。

    責任は取れない、
    最善は尽くすけれど他人のために闘う気はないというのも
    正直だなと感じました。

    横浜のオウム本拠地に抗議行動を仕掛ける人たちが、
    あまり攻撃的ではなく、森監督が書いた、信者と地域住民の共生関係についての
    週刊誌の記事を読んで、信者サイドの真意を尋ねようとするシーンなど
    当時マスメディアに取り上げられることが
    あまりなかった光景がここにはあります。


    結局何事にも言える事ですが、個人の信頼関係が重要で
    そこさえ解決できれば大方の揉め事というのは解決するのではないか
    と改めて思わされます。

    同じ人間同士で、しかし分かり合えないという状況において
    実は相互の理解が足りないだけというのはよくあること。
    わからないものが怖いというのは動物の本能です。

    わからない、怖い、だから攻撃する、遠ざけるというだけでは
    相互理解が生まれる機会を逸します。

    悪役だからといって、その子供の痛みを正当化する論理を持たない
    というのに共感しました。

    宗教団体だから、弱い人が来る。
    精神の病のある人も、宗教団体だから全て受け入れる。
    そして問題を起きる、というのも、確かにそういった図式もあるのかもしれないと思わされました。
    信仰が正しいか間違いかではなくて、
    信仰を通じて誰がなにをしようとしたのか
    その背景はなんなのか。そこが重要なのです。

    住民たちと信者たちが仲良くなって会話をすることもあるようになり
    笑顔で「脱会しろ」というシーンも印象的でした。

    "妥協でも譲歩でもないー共有ー"
    それが解決できる唯一のやり方なのかもしれません。

  • 集団に帰属することから来る思考停止と一意的な自主規制、そして定型化と堕落、、、こういう問題はマスメディアのみならず、医療の世界でも普遍的に見られる問題である。もちろん、日本固有の問題でもない。この思考停止、自主規制、定型化、堕落に頑なにノーをいい続ける森達也のオウム真理教取材記パート2.思考停止がどのように起きるのかを理解するケーススタディーとしても興味深い。現場でも応用可能。

  • 前作に続いて読了。
    魔女狩りを彷彿とさせる。

    正義を前提にしている行動こそが一番悪質だといつも思う。
    それは誰にとっての正義だろう。本当に正義だろうか。思考停止している人には届かない。

    シナリオ採録が読み辛いというか、雰囲気が掴みにくい。
    作品に対する森氏の方針故とは思うが…(本として読ませるための)ト書きはもっとあってもいのではないかと。。

    前作は「オウム」についてが内容の中心だったが、本作は「A2という作品」についてが内容の中心になっている。その点で前作よりも私の興味としては満足度が低い。

  • 警察は、私たちの生活を守ってくれるから好き。右翼は、街宣車がうるさいから迷惑。町内会の役員さんは話が長そうでちょっと苦手。オウムの信者は何考えてるかわかんないから不気味。
    …こんな風に単純に言い切れるわけないよね。

  • 図書館で借りてきた本。

    オウム真理教を内部から映したドキュメンタリー「A」の続編である「A2」の話。前半が映画に使われなかった部分を森氏が語り、中盤に映画「A2」の再録シナリオ、そして後半は「A」「A2」と森氏と共にカメラを回し、編集に関わった安岡氏の映画作りについて。

    「A」も「A2」も実は映像は見ていない(今、図書館の予約待ちなので近い将来見る予定だが)。しかもこれだけ本を読みながら、実は森氏のテレビの作品ももちろん見たことがない。

    安岡氏によると、森氏は文章は論理的だが、映像は直感的なんだそうだ。見たことがないので想像が付かないし、再録シナリオだけでは、当たり前のことだが全然判断ができない。しかし、この本に再録シナリオを載せた意味って一体何なんだろうか?と思う。だいたいあんなので分かるわけないじゃないか。この本は「A2」公開前(映画祭は除く)に書かれた本であり、もしかしたら「A2」の観客動員を促進するために出された本なのかなとあとがきを読んで思ったのだが。しかし、実際は「A」以上の反響を得られなかったようだ、というのはその後の森氏の本を読んで知っている。なぜなんだろう。この本を新刊で手に入れた人は観に行かなかったのか?それともこの本自体もあまり売れなかったのだろうか、、?

    森氏の書く文章というのは、面白い。一つのものを取りつつ、常にその対象との関係を考え、そして自分自身に問いかけ煩悶する。

    そして自分は決して「社会派」ではない、と言う。ただの「職業表現行為従事者」だと言う。決して森氏が自分のことを「ジャーナリスト」と名乗らないのは、おそらく「ジャーナリスト」という言葉を持つ権威性が嫌いなのではないか、と勝手に思ったりしている。そういう意味で森氏は自分の行なっていることを非常に過小評価している。いや、過小評価というとおそらく語弊があるだろう。そこには何か、、「戒め」のようなものをわたしは感じる。

    それに加え「カメラを回す」という暴力性も森氏は忘れない。その中で冷酷な問いを対象者に投げかけて今までの人間関係をすべて壊す、ような「業」があると森氏は言う。

    「ドキュメンタリーは嘘をつく」でも同じようなことをもちろん書いていたが、実はそこでそのことについてのみ語るより、映画を撮りながら、時折自分の「ポリシー」について語った方が魅力的だと思った。

    そして本では「長い旅を終えてきて出した結論」がもちろんある。それはこの前に書いた「職業欄はエスパー」もそうだったし、「死刑」でもそうだった。

    だが、そこには「著者の意見の押しつけ」が感じられない。「僕はこれこれこういう体験をしてきたんだけど、これを読んであなたはどう思いますか?」という森氏からの問いかけをわたしは感じる、だから、わたしは森氏というフィルターを通してしかそのことについては分からないのだが、わたしはわたしで結論を出す。それはなぜか森氏の結論とは違うことの方が多い。そういう点で、森氏の書く本、というのはとても不思議だとわたしは思う。

    って、全然この本の内容の感想ではなかったけれど(苦笑)

    最後に心に残ったこと。

    途中、右翼団体がオウムの信者と話し合う場面があるのだが、その右翼団体は(森氏が書いた)「週刊金曜日」や「週刊朝日」で「信者と住民がわかり合えている」という記事を読んで「自分たちも何も知らない。だから一度話そう」と思ったという。その話し合いは実現するのだが、そこで右翼とオウム信者が実は同じようなマスコミの被害に遭っている、「俺たちもさ、マスコミに散々な目に遭ってきたから分かるけど」という言葉が、なんというか、、彼ら(右翼)がオウム信者と話して「オウムの人も笑ったりちゃんと話せる人なんですね」と感想を語ったのと同じようにわたしも「右翼の人もちゃんと話が分かる人がいるんだなあ」と思った。それとともに「右翼で『週刊金曜日』とか『週刊朝日』なんてものを読むんだなあ」って(笑)わたしも物事に対する想像力がないことを改めて気が付かされたエピソードでもあった。

  • オウムを特別な存在、として排除するだけでは第二、第三のオウムを生んでしまうのだろう

  • ★「A」より、薄い★Aとは違い、こちらは映像を先に見た。改めて思うのは森達也は文章がうまい。ただ、映像と同様、Aよりも響かなかった。荒木氏を中心に据えた第一作より、「オウムと社会のすれ違い」という幅広な視点を軸にしたため事象が並列されて力点が分散したように思える。

     興味深かったのは製作者の安岡卓治の森評で、フィルムの作法を知らないからビデオカメラの単独撮影という手法しか取れなかった、カメラの扱いがずさん、と指摘する。いわばプロとしての基本がなっていないことが、傑作を生んだのかもしれない。

  • やはりよむたびに暗くなりますが考えさせられます。言葉でうまく伝えられない…。

  • 予告編を見ただけで、長いこと積んでいた「A2」を見たあと、「A」に対する『「A」―マスコミが報道しなかったオウムの素顔』のように、「A2」にも撮影記録の本『A2』があることを知って、図書館で借りてくる。映画の本篇で落としたエピソード、採録シナリオ、そしてプロデューサーとして森と二人三脚で「A2」を撮った安岡卓治のテキストが収められている。

    イスラムのドキュメンタリー監督・モグラビとの話のなかで、森が「ドキュメンタリー」について書いているところがある。

    ▼断言するが、ドラマとドキュメンタリーの差異など実はほとんど存在しない。台本の有無や、登場人物が俳優か素人かなど、作品の本質にとっては実に瑣末なことでしかない。もちろん絵コンテに従って撮影を重ねてゆくドラマと違い、ドキュメンタリーは撮った映像をベースにストーリーを構築するという手順の違いはある。しかし逆に言えばその程度だ。その境界はラインではなく曖昧なゾーンとして存在すると僕は考えている。(p.31)

    ここを読んで、ああそうなのかと思った。私の中にも、ドキュメンタリーは「ホンモノ」で、ドラマは「ツクリモノ」という意識があるなあと思った。そんな私の認識は、どうやってできたのだろう。

    森のいう「ドキュメンタリー」のストーリー構成は、取材をしてきた素材をもとに記事を書く、という文字の仕事にも似ている気がした。

  • 『オウム=悪』と言う一元的な価値観に(確かに、やっちゃいけないことをやったんだけどね。教団としてのオウムと言う団体は)、集団になってオウム出て行けと叫び続ける人々。その末、オウム信者の家への電話敷設の妨害。
    そんな人達だけでなく、オウム信者と話すことを禁止し、オウム信者の荷物に手を触れることも禁止し……禁止しながら、オウム信者自らに荷物を開けさせて彼らの荷物検査までする団体も存在していた。
    一見、住民側が力の無い信者達の妨害をしていると映る。が、オウム真理教という実体の見えない(報道によってよけいに見えないようにイメージを増幅されたのもある)強大なものを相手にしていると言う意識が住民側にある限り、責めることは出来なかったのかもしれない。
    しかし、つくり出された価値観のモトに枠にはめ込まれた報道。それを鵜呑みにし、何も考えずに(考えたとしても、手段しか考えられないなら考えてないも同じだ)周りに賛同する人たち。そして、その人たちが集まって、集まることによって一個人では到底抗えない程の大きな力になっていく。
    そして、その実体を持たない大きな力がマスコミ、警察までもを飲み込んでゆく。
    その力がいくら大きくなって、世界に強大な陰を落としても、土台を持たずに作られてしまった力だけにその根本を見つけ処置する事など出来やしない。
    最悪の悪循環がここにあった。いや、有り続けている。

     けれど……色々考えることによって、人はそのループになってしまった中から自分で出口を見つけられると言うことも判った。
    考える時間って大切なんだよ。
    そして、その時間のなかで、人は何かに気がつくことが出来るはずなんだけどな。
     と言うのも、最初はループの中でオウム出ていけとオウム施設を監視していた人たちと、監視されているオウム信者の壁が無くなって、友達と言えるような関係を持てはじめたようにね。
     情が移ったと言うそのおじさんは、隠しているように見えた。自分に対する照れを……
    一人のおじさんが言っていたんだ。自分が判らないって。
    オウムが自分たちの住んでいる地域に引っ越してきた時は、殺人集団オウム追放 とか言う節の看板を作り、オウム出ていけと叫んでいた彼が、数ヶ月の間オウム真理教の個人と人としての関わりを続けた末に、ついに立ち退くことになった彼らの健康を心から心配するようになった……
    それで良いんだと思う。
    答えなんていらないんだよ……たぶん。答えなんて出せなくても、あのおじさんはもう、タダ流されると言う事はもう無いはずだもん。
     オウム真理教の中で、オウム排斥運動の団体の中で、右翼団体の中で……そんな人の集まりの中で考え、考えを持った自己と言う一人の自分を見つけて居る。
     個人主義をうたい、群れる人々を白い目で見つめ、自分は神を信じないと胸を張り、群れるのは嫌いだとニヒルな笑いを浮かべる。
    そうしながらも、結局自分をもててない人達……。
     矮小な人の輪の中に入りその小さな世界に流されてもいいんじゃないかな?
    小さな価値観の中に居るからこそ、その果てにある壁が見えることによって、その先を見ようとし、壁にぶつかり、その反動で自分を確認することができるんだから。
    世間と呼ばれるこの輪は広すぎるよ。広すぎて、広すぎるから……何処まで行っても何に触れることも、ぶつかることも出来ず、自分の姿を確認できず……そんな世界じゃ自分を見つけるのは難しいんだから。
    あなたは、……あなたは何処にいますか?
    自分が今何をしているのか、しようとしているのかを考えて下さい。
     どんな事であれ、どんな風に見えても、行動した人達を笑うことは出来ないよ……
    いくらその姿を見て、悲しくなったとしてもね…………。
    メディアが問題だと言う。が……そこに逃げてはいけないはず。
    テレビ局がああなってしまうのは、資本主義社会の性なのだから?
    ただ、個人への販売と言う形をとっている新聞……これはもう少ししっかりして欲しかったけどね。
    電波をただ流しているテレビと同じなのは悲しいものがある。
    ああいう報道をしても、その新聞を買い続けてしまう我々にも問題があるのだろうが……
     でも、メディアのせいでも、人間の性でも、宗教のせいでも無い。
    流されて、周りと同じ早さの中に流されてしまったって、見えるモノは変わらない。
    考えることによって、たまには流れに逆らわないまでも、少しの間でも立ち止まって、その流れが何に向かっているのか。時間をおいて見て考えることが出来たのなら……少しは自分の向かう方向が見えてくるんじゃないのかな。
    なんて、外部から言ってる自分って……結局、人権団体や、オウム出ていけと叫ぶだけの人達と変わらないんだな……
    でも、
    最初は一緒でいいじゃん(開き直り(笑))。その後に色々考えられたんだから……

     意識的には、環境保護団体の人々や、地元住民が原発の建設予定地に座り込みをする事や、軍艦の前にゴムボートで立ちふさがり入港を拒否する事に見られるように、大概は運動する人々の側の方が小さな力なのだ。
     そう、今までは確かにそうだったのだ。例え無理だと判っていても、小さい力が団結して、強大な力に対抗していく。しかし、その状況が変わってきたのはこのオウム事件の後だったような気がする。オウム真理教の信者が借りたという一件の家の前に大人数が押し掛け、電話の敷設、電気の通電を阻止する。
    それが、オウム真理教のやったことと、それに対するマスコミの煽り、そしてオウムに対する増大した恐怖感から、このような風になったのはなんとなくわかってはいるんだけれどね……やるせない気持ちにはかわりがないです。
     が、自分が本当に許せない思いだったのは、地元に集まった人達ではなく、自治体側や、政府の対応かな。地方自治体がオウム信者の図書館への入館を禁止したり、住民票を受理しなかったりするのは、許されないよね?
    その延長が、今現在北朝鮮籍の船の入港を阻止するために条例を作っている東京都……だんだんだんだんエスカレートしていないか?
    そして、つい先日も……
    ドンキホーテの火災事件で、買い物籠を持ち帰ったとして窃盗容疑で○○を逮捕したと警察が発表。 そして、それをそのまま当然のごとく放火犯の容疑者のように取り上げるマスコミ。

    考えてみる材料は、流れてくる情報は途切れることはないんだから。

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