暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

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著者 : 國分功一郎
  • 太田出版 (2015年3月7日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (440ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784778314378

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暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)の感想・レビュー・書評

  • 退屈するとは何か、なぜ退屈に陥るのか、それは克服可能か、について論じられています。退屈は人類が定住生活を始めた頃から起きており、現代においては退屈をターゲットにした産業による消費社会が生じてより虚しくなる悪循環が起きている、という問題提起から始まります。ルソーやマルクスやユクスキュル、ハイデガーといった哲学者や他分野の学者の学説を吟味しつつ著者の持論の退屈論を展開しています。すごくかいつまんでまとめると、人間は本来的に退屈する存在であってそれを凌ぐべく気晴らしをしても結局退屈してしまう。適度に撹乱し、新たな刺激を得て今を楽しむのが大事だと僕は解釈しました。最後のほうはやや抽象的で退屈に対する処方箋がうまく読み取れませんでした。

  • 関係ないところで、一人称「俺」が引っかかったけど。

  • めためた面白かった!
    通読前提なので読みやすい。

  • 宗教の信徒は、いわば決められたルーティンをこなすことで、退屈をしのぎ、同時に心を落ち着けているのだな、ということを思い出した。

    P66
    先進国の生活が「幸せである」に疑問符が付くのは、「便利」と混同してるからだと思う。便利が幸せに結びつくのは、便利の前の「不便な状態」と今の「便利な状態」の差を知っているときだけ。

    P90
    定住の開始が様々な不和をもたらしているという印象を受ける。幸せの観点から言えば、昔の方がよかったのかも。でも、今こうして様々な知識に触れられること、それが可能になったのはつい最近で、それは先人たちの技術発展に支えられていることが僕の幸せにつながっている。

  • 間違いなく良著。今年一番かも

  • 著者のツイッターをリツイートしているツイッターでこの本を知った。
    タイトルに惹かれた。正に今の私にピッタリなタイトルではないか。私のための本ではないか。

    わかりやすい言葉で書かれているので、どんどんページが進んだ。でも、いちいち止まって考えることが多かったので、そんなに早く読み終えたわけではない。
    言葉はわかりやすいのだが、内容がそんなにわかりやすくはないので、どの程度私に理解できたのかわからない。でも、著者の言う通り、読み通したこと自体が「暇と退屈の倫理学」の第一歩、なのだろう(と書きつつ、あまりそれもよくわかってないのだけれど)。
    「自分を悩ませるものについて新しい認識を得た人間においては、何かが変わるのである。」
    私は「新しい認識を得た」のか。はなはだ頼りない。大丈夫か、私。

    最後についていた増補の部分もとても良かった。どの程度理解できたのか、こちらも怪しいのだけれど。

  • 國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を読んだ。大好きな本でこれまでに何度か読み返しているが、増補新版は初めて。なので、付録の『傷と運命』を初読み。國分さん知的態度にいつも学ぶのはハイデガーのような哲学の巨人にも当たり前のように批判的態度で臨み、ロジカルかつクリティカルにその誤りを指摘できること。そして、当たり前を人間本性に照らしながら思弁すること。学生の頃から、論よりその態度に影響を受けてきた。

    「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである」。(『人類史のなかの定住革命』33頁)いわゆる「文明」の発生である。p93

    人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。ボードリヤールは、消費とは「観念論的な行為」であると言っている。消費されるためには、物は記号にならなければいけない。記号にならなければ、物は消費されることができない。p152

    環世界論から見出される人間と動物の差異とは何か?それは人間がその他の動物に比べて極めて高い環世界間移動能力をもっているということである。人間は動物に比べて、比較的容易に環世界を移動する。p296

  • 前半では、暇と退屈について人類史的系譜をたどったり、「疎外」概念を現代によみがえらせることの必要性が論じられていますが、ハイデガーの『形而上学の根本問題』における退屈論を批判的に検討する後半の議論が、本書の中心となるように思います。

    ハイデガーはこの書の中で、ユクスキュルの環世界論や哲学的人間学の成果を批判的に継承し、人間と動物の間に絶対的な差異を認めることで、動物的な環境への「とらわれ」から自由になった人間が、そのためにかえって退屈に悩まされるようになったという筋道を描き出しています。その上で、この自由を積極的に受け止めなおすための決断主義が主張されていると著者は解釈しています。

    これに対して著者は、人間と他の動物との間に絶対的な断絶を認めず、せいぜいのところ人間は、他の動物に比べて比較的自由に環世界の移動をおこなうことができるというべきではないかと主張します。しかし、比較的慣れ親しんだ環世界に突如として「不法侵入」のように衝撃がもたらされ、それによって人間が「とりさらわれ」、その対象について思考することしかできなくなると著者は述べ、ここに暇と退屈という人間の条件とうまく付き合っていくためのヒントを見いだそうとしています。

    前半の労働論やポストモダン的な消費社会論の限界を批判している箇所は、大いにうなずきながら読んでいたのですが、私自身の頭がよくないせいなのか、けっきょくのところ著者の立場がこれらの問題をどのように克服しえているのか見通すことができずにいます。あるいは、絶望することなく、決断主義に走ることもないやり方と言えば「逃走」することしかないのではないか、という先入見があるせいなのかもしれません。著者の主張の持つポジティヴなメッセージがはっきりとつかめないもどかしさを感じています。

  • 退屈の第一形式がいけないのはなぜ?
    一時的なものであるので、また没頭に戻れるのでは?
    ものを考えられなくなるというが、考えられるのでは?立ち止まって考えることはできる

    これは退屈とは言わないかも。
    熱中しつつも新たなことを考える余裕がある最もいい状態?

    ドゥルーズの局所的自我と仏教の自我は似ている

    サリエンシーと予測モデル。恋と衝突は大きなサリエンシー、トラウマにもなり得るし新たな予測モデルの構築にもなり得る

    自らの傷跡よって人は退屈の感じ方が違う。幸せや不幸せの感じ方も違う。心の穴。

  • 曖昧なもの、曖昧な関係、曖昧な状態、曖昧な印象を、その割り切れなさのままに、留保し、ありのままに受け止める能力、それをつけていきたい。何に置いても。

    僕が行っている「感覚」とか「自然」というのは、単なる「盲目」に過ぎない。節穴なくせに、一切その外部を許容しない傲慢な態度が、ここのところ続いている。全く良くない。もっと真摯に世界と向き合う「気概」を持つこと。わからないことを、わからないと認めて、その溝を埋めて行く作業をしていくこと。謙虚な気持ちを持ちながら、偉大な作品な質を知覚できる努力をすること。てんでダメだ。

    ここ数年、僕は忍耐力がなくなってきている。大学4年の時は、もっと真摯に「わからない自分」を認めていた。もっと必死だった。判断せずに、わからないままに保留していた。今の僕はうぬぼれている。生き甲斐や将来よりも、楽しさや喜び。そこには絶対的に「反発」や「未知」「わからなさ」がある。そこから逃げていてはいけない。

    ともかく、「ためになる」ことでも、「正解(に見える)」ことでもなく、今の自分がどうにも惹きつけられること、気になる事、やっていて楽しいこと、そういうことに、毎日瞬間瞬間、従事しよう。「間違」っているのを恐れるより、楽しさの方が正しい。全てにオールマイティーで、欠点を消していく必要はない。専門性を磨く。

    「自分」は「今」、「愉しいこと」「面白いこと」に注力する。「欠落している部分」を埋めるために苦行するのではなく、「今の充足」を最優先する。つまり人の目を気にしないこと。「名声」や「安定」や「職業」や「将来」を気にしても、今は輝いてこない。「今の自分」を輝かせることが何よりも大事。間違っているなら、そのうち内部生命が修正してくれる。とにかく正解は今にしかない。そこからしか積みあがっていかない。


    〇以下引用

    不思議だったのは、彼が楽しんでいるようには見えないことだった。彼の声は明かに周囲にいる人たちに向けられていた。それは何というか、自分を見て欲しいとの思いが込められた声だった。自分はサッカーの試合に集中している、と、彼が全力で周囲に訴えかけている、そんな風に見えた

    →自分も同じようなことをしている気がする。アートを、それだけ真には観れていない。


    その番組を見て、番組が進める場所に行って、金銭と時間を消費する、さてそうする人々は、「好きなこと」をしているのか?

    生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と語りかけ、それを買わせるようにしている

    文化産業が支配的な現代においては、消費者の感性そのものがあらかじめ制作プロダクションのうちに先取りされている

    暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのかわからない。何が楽しいのか判らない。自分の好きなことが何なのかわからない

    なぜ暇は搾取されるのだろうか、それは人が退屈することを嫌うからである。人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。だから与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る

    →このところの平日の自分の日常はまさにこれだ。まったく消費しているだけ。そこには「わからない」ものに対しての免疫の欠如がある。「わからない」ものや、違和感のあるものを、そのままに享受する、判断せずに浴び続ける、あの大学4年生の時の方がよほど、自分は世界に対して真摯だったような気がする。今はうぬぼれている。そしてひねくれている。「わかった」とか「愉しい」ところには必ず、摩擦やそれだけのストレスがかかてくる。それがあるから、楽しいし、わかった時の「!」という世界の開口が愛おしくなるのだ。今の自分は環境に甘えて、そういう摩擦を一切排除したところで、ダラダラ環世界の中で退屈しているだけだ。そこに喜びがない... 続きを読む

  • ぼんやりした退屈を考える体験をすることで、退屈を考える足場ができる。

  • 2015年9月20日に開催された第1回ビブリオバトル全国大会inいこまで発表された本です。予選D会場発表本。

  • 有名な哲学者(ラッセルやハイデガーなど)の主張をベースに、著者がそれに異議を唱えながら、「暇」と「退屈」を哲学的に考えていく。哲学の本にしては、具体例も多く、わかりやすく面白かった。
    考え方の過程が書かれており、著者の脳内を覗いているようだった。哲学には、答えはなく、様々な考え方がある。全てを飲み込むのではなく、自分で考えること、人に流されないことも哲学をすることなのだと思う。
    著者の講演を聞いたが、めんどくさそうなオッサンだなと思った。他の人の考えに触れること自体は面白い。比較的、読みやすく書かれているところは評価出来る。哲学するってこういうことなのかな。

    暇と退屈とは何か。国や社会が豊かになれば、そこに生きる人たちには余裕がうまれる。ひとつは金銭的な余裕。もうひとつが時間的な余裕。われわれは裕福になり、暇を得た。
    人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。このままでは、暇の中で退屈してしまう。なぜ人は暇の中で退屈してしまうのだろうか?そもそも退屈とは何か?
    こうして、暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いがあらわれる。〈暇と退屈の倫理学〉が問いたいのはこの問いである。

  • 南青山のインテリアショップCIBONEで、海外の洒落たデザインのハンドクリームや石鹸と一緒にディスプレイされていた、この本。
    「暇と退屈」という言葉が醸す、今っぽい空気感が気になっていた。調べたら本のセレクトがBACHの幅允孝さん…やっぱりなぁさすがだなぁという感じがした。

    哲学者の人が書いた本なんて初めて手に取ったし、読み切れるかどうか全く自信がなかったけれど、難しい言葉が具体的なイメージをもてるように説明してあって非常に読みやすかったし、考えるポイントがたくさんあった。本としての穫れ高が高かった。

    気になったポイント
    ◉定住革命と退屈の関係。
    ◉余暇すら労働の中に組み込まれていること(フォーディズム)。
    ◉消費と浪費の違い(豊かな社会」とはなにか)。
    ◉ハイデッガーの退屈論からの、退屈の第一〜第三形式。
    ◉環世界…主体の違いによる、世界の認識の違い。時間とはなにか、時間をとらえる感覚の違いに着目することから見えてくる、主体ごとの環世界の差異。

    結論としては、人はベースとして第二形式の退屈を生きながら、時に何かの対象に〈とらわれ〉てみて、楽しみながら思考しながら生きていくのがいいんじゃないの、という提案と受け取った。

    ものを楽しむためには、それをしっかりと受け取るための訓練が必要だというのは身をもって実感するところ。感覚と知識の両方をフル稼働させて対象と向き合わないと、ほんとうに楽しむというところまで行かない。
    自分は音楽や美術が好きだけれど、観たもの聴いたものをちゃんと受け取れているかどうか、消費してしまってはいないか、というのは気にしておきたいと思った。

    この本の中で、今の自分が最もひっかかったのは「待ち構えること」というフレーズ。この半年間くらい、様々な場所で「待つ」ということに引っかかる。個人的なテーマなんだと思う。
    本書での言葉の使われ方とは異なるかもしれないが、「待つ」ことや感じることのクリエイティビティに興味がある。一見受動的に思う「待つ」という行為が、実は創造的な行為なのではないか。対象についてどれだけ待つことができるか、どれだけ寄り添うことができるか。
    楽しむことは、思考するだけではなく、感じ取ること自体が楽しむことなのではないか。ランナーズハイやスイマーズハイのように対象に没入するようなことも、楽しむことになるんじゃないか、などなど……引き続きいろいろ考えてたい。

  • 退屈とはどういうものであるのかが丁寧に書かれている。
    結論は単純かもしれないが、それまでの部分を読んだあとなら、理解の度合いが違い、ストンとこころに落とすことができる。

  • 友人の勧めで読み始めた一冊。
    教えてもらってなかったらまず読んでなかったろうと思う。
    最初から最後まで突き放すことなく丁寧にガイドしてくれて、前述の議論をさりげなく振り返り「あぁ、そういやそういう話だった」と思い出させてくれるのでストレスなく読み進めていくことができました。
    これは(あとがき読む限り)たぶん編集者さんの手腕なんやろうなと。うーん。凄い。

    肝心の内容について。
    結論部分から言えば、
    「そうそう!!学ぶ楽しみってこういうことだよね!!」
    ってこと。
    その楽しみは訓練しないと手に入れられない。
    みたいな話も腑に落ちる。
    これからの思考にあたって色んなエッセンスを貰った気がします。
    それ以外の部分では、これまで哲学が議論してきたことが載っており、少しだけ哲学の世界に触れられたような気がします。
    おもしろいなー。

    今年はほんとにいい本と良く出会う。
    嬉しい。

  • 『人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾れねばならない。 ウィリアム・モリス 』
    p27
    ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいわけではない。
    『「ウサギ狩りに行くのかい?それならこれをやるよ。」そう言って、ウサギを渡すのだ。
    さてどうなるだろうか?その人は嫌な顔をするのに違いない。
    答えは簡単だ。ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいのではないからである。
    人は獲物が欲しいのではない。退屈から逃れたいから、気晴らしをしたいから、ひいてはみじめな人間の運命から目をそらしたいから、狩りにいくのである』
    P36

  • はじめは面白く読んでいたのだが、三章あたりで事実と意見の意図的な混同があるように感じられて、危うさを感じたため読むのをやめてしまった。

  • 暇とは、何もすることのない、する必要のない時間。客観的。
    退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分。主観的。

  • 「暇と退屈の倫理学」なんて、名前からしてユニーク。しかし、これを真面目に深堀していくと、思いがけず面白かった。読書とは素晴らしい体験だと感じることができる一冊。
    時間に蝕まれなよう、時間に追われず、時間を追わず、感受性豊かに過ごしたいものだ。

  • まえがきを読んだ時から、とんでもない本と出会ってしまったと感じた。こういう実感は、かなり稀有なものである。何年かに一度あるかないかだ。そのくらい、ぐっと私の心に直接入り込んでくるものがあった。たまたま欲していたこともあるのかもしれない。
    詳しくは、また今度書きます。

  • 面白かった。何度も寝落ちしながら、最後まで通読。最後に熊谷先生と繋がっていたり、色々な方面とリンクしているのも興味深い。倫理だけに留まらないし、例が具体的で分かり易い。きっとこれは先生自身の為の勉強だったのでしょう。あとは読者の人生にどう落とし込むか、読者次第。哲学を読者の幸福に繋げられたら、素晴らしい。
    暇と退屈は、持っている前提だけど、次世代はもっと低燃費で、自然と、浪費も消費も、うまい人生のやり過ごしを知っている気がする。そう感じると、さとり世代は必然⁈の進化なのか?

  • 最初は興味深く読んでいたけど、途中で力尽きた…。

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暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)の作品紹介

旧版『暇と退屈の倫理学』は、その主題に関わる基本的な問いを手つかずのままに残している。なぜ人は退屈するのか?-これがその問いに他ならない。増補新版では、人が退屈する事実とその現象を考究した旧稿から一歩進め、退屈そのものの発生根拠や存在理由を追究する。新版に寄せた渾身の論考「傷と運命」(13,000字)を付す。

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)はこんな本です

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