本の虫ではないのだけれど―日常を散策する〈1〉 (日常を散策する 1)

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著者 : 清水眞砂子
  • かもがわ出版 (2010年5月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (251ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784780303421

本の虫ではないのだけれど―日常を散策する〈1〉 (日常を散策する 1)の感想・レビュー・書評

  • エッセイとしては上質だと思う。ただ、ゆっくり読んでいたら図書館の返却日に間に合わず、残り20ページほどは読んでいない。

  • 「ゲド戦記」の翻訳者。大学教授でもあった著者の最後の講義内容、子どもに「イヤ」なことははっきりそう言えるようになりなさいと手紙を書いたり、昔話の「残酷さ」は心配する必要はないと言ったり、考えさせられる文章も多い。
    児童文学者でもある彼女の子どもに対する思い、児童文学に対する思いが、人柄とともに伝わってくる。本の紹介もたくさんある。

  • ゲド戦記の翻訳者さんのエッセイ。
    昔話には正体不明の怖さを感じていたのだけれど、なるほど、そういう怖さがあるのか。

  • 人柄と知性がにじみ出る文章。謙虚で、温かく、しかし辛辣でもある。
    子どもを持たないからこそ、子どもの所作と表情に細やかに気づく人だと思う。退職される前に一度だけ、公開講義を聴きに行く機会があったのはとても幸運だった。手元に置き、折にふれ読み返したくなる本。

  • 「ゲド戦記」の翻訳者。児童文学にしなやかなまなざしを向け、日常の不思議におどろき、善き人たちとの邂逅をつづる著者のエッセイを、はじめて集成する。三十余年にわたり若い人たちに語り続けた大学での、「最後の授業」も収録(「BOOK」データベースより)

    清水さんは、菅沼姓で児童文学の講座を受け持っていました。
    私は他学科だったにもかかわらず、一度だけ先生の授業を受けていた友人に頼み込んで授業にもぐりこませていただいたことがあります(先生、ごめんなさい)。
    この本を読むと、その当時の事が様々と甦ると同時に、再び先生を目の前に授業を受けているような、そんな心持になりました。
    子供に幸せを語る難しさとその尊さ。
    真摯に語る先生の言葉を、もう一度胸に刻んでいきたいと思いました。

  • 清水さんの感覚が好きです。山田太一さんのお父さんの言葉もいい。私たちはひとりひとりuniqueな存在ですが、one of Themでもあるわけです。掛川にお住まいだとは知りませんでした。

  • 6月のなかばに、たまに行くわりと大きい本屋をぶらぶらしていて、この『本の虫ではないのだけれど』を見かけた。読みたいな~と思ったが、図書館の本も立て込んでたし、控えておいて図書館へリクエストしていた。

    数日前に図書館に届く。

    今年1月にあった青学での「最後の授業」の記録をはじめ、古いものは1976年、さまざまな場で機会があって書いた、テーマも長さもばらばらの文章群が、本になったもの。必ずしも本の紹介や書評ではないのだが、この本を読んでいる間に、ああこれは読んでみたいなと思った本や、むかし読んだことがある本でまた読みたいなと思った本が多くあった。

    シンガーの『よろこびの日』に登場する洗濯ばあさんのような、はなばなしい大きな仕事ではないが、すみっこの目立たない仕事をきちんと果たしている人々のことを清水は書きとめている。「こういう人たちのおかげでこの世は辛うじて崩壊を免れているのだ」と、そういう善き人々のすごさを描いた物語の力にずっと気づかずにきたと、清水は記す。それは、別のページで書き抜いてある、大村はまの言葉「人間、やりたいことをやるのも大事なことだけど、やりたくないことでも、やるべきならするようでないと、世の中困ってしまうでしょう」にも、あるいは山田太一にふれて書かれている「凡庸に着地すること」にも通じるように思った。

    子どもの頃、夢中になって物語を読んでいたときの幸せを、大人になって「物語を通して、希望という足場をたしかめ、しかと踏みかためていたのかもしれない」という清水は、子どもにとって、情報化社会を生きていかざるをえない自分たちにとって、本とは何か、何でありうるかと問いつつこう書く。

    ▼今、子どもたちはどうやって「外部」と出会っているのだろう。どうやって空間をこえ、時間をこえて、人とつながっていっているのだろう。人間への信頼がぐらついた時、呼吸している世界が空気が薄く、たしかなものとは感じられなくなった時、希望など手ばなしてしまえ、と「どうせ」という言葉が耳もとでささやく時、どうやってその声に抗い、信頼の糸をたぐりよせているのだろう。(pp.66-67)

    「最後の授業」のなかで、自分の子ども時代をふりかえってこうも書いている。

    ▼子ども時代の私にとって、本は窓だったのだと思います。閉じ込められて、部屋に入れられて、子どもは息苦しいわけです。外を見たい、いろいろなものを見たいと窓辺に寄って窓を開けると、つまり本を開くと、そこにいろいろな世界があり、いろいろな人たちがいる。私はかすかに記憶しているのですが、「そうか、遠い国にも私たちと同じ人がいるのだな」と思ったものです。笑ったり、泣いたり、怒ったり、悲しんだりしている人間が、他所の国にもいるということを知ったのは、私にとって大きな力となりました。後から考えて整理して言えることなのでしょうが、子ども時代の本は広い世界への窓、あるいは不思議な世界への窓の役割をしてくれたのだろうと思います。(pp.31-32)


    読んでみたいと思った本
    『ゾリ』
    『灰色の畑と緑の畑』
    『愛について』
    『じゃがいも』
    『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』
    『つばさの贈り物』
    『夜』
    『片手いっぱいの星』
    『幼い子の文学』
    『火を掘る日日』
    『さらば卓袱台』
    『言葉の海へ』

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「ゲド戦記」の翻訳者。児童文学にしなやかなまなざしを向け、日常の不思議におどろき、善き人たちとの邂逅をつづる著者のエッセイを、はじめて集成する。三十余年にわたり若い人たちに語り続けた大学での、「最後の授業」も収録。

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