- Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
- / ISBN・EAN: 9784780303919
作品紹介・あらすじ
現実に立ちすくむ若者たち、家族という不思議への問い、そして死の準備とは…希望や幸福を語ることをためらわぬ著者の、社会に向けられた真摯でしなやかなまなざし。最終講義「子どもの本のもつ力」を収録。
感想・レビュー・書評
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ー 襟を正される
という 思いを いつも させられます
清水眞砂子さんの「エッセイ」を読み返すたびに
思うことです。
この人に出会えたから
自暴自棄にならずにすんだと、
そう思われるひとりに
いつの日かなって欲しい
この人に会ったから
この人に出会えたから生きていられたという、
そういうひとりになってほしい
(中略)
子どもの本がしてきたような仕事、
そういう子どもの本の一冊に、
皆さんおひとりおひとりがなってくれたら、
と願っています
最終講義で
若き学生たちに
呼びかけた言葉が
静かに 深く 沁みわたっていきます -
文学
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上野千鶴子と気が合いそうな人です。きっと、ジェンダーの話で盛り上がるのでは。
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彼女の最後の講義での「この人に出会えたから生きられたという、そういうひとりになってほしいということです。あなたがいてくれてよかった、おかげで人間なんて、どうせ、と云わずにすんだという、もっと言えば、子供の本がしてきたような仕事、そういう子供の本の一冊に、皆さんおひとりおひとりがなってくれたら、と願っています」うん~良かった・・・
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久しぶりに清水真砂子先生の講演会に行った。講演内容の中で「学校の先生は忙しい、忙しいと言う。そうよね、忙しいっていいことよね。忙しければ授業の準備をしなくていいし、本を読まなくてもいいし、お芝居を見なくても済むじゃない?」そう言って、清水先生はギラギラと笑った。・・・しばらくぶりの講演会だったし、清水先生の書かれた物を最近読んでいなかった。あーー、清水真砂子だぁ・・と思ってぞくぞくした。 本の目次を見てみると講演会の内容がここに入っているようだ。 とりあえず、講演会で紹介された佐野洋子さんの『死ぬ気まんまん』を借りて読みました。
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(2011-3-4 再読)
しばらく前に読んだ、清水眞砂子の『不器用な日々』がまた読みたくなり、さいわいにして図書館であいていたので、また借りてきて再読。
前に読んだときに、この本を読みたいと思ったギュンター・グラスの『玉ねぎの皮をむきながら』を数日前から少しずつ読んでいる。それで、清水はどう書いてたっけなと思って、この本をちょっと借りてきたら、また読みはじめたのだった。
34年勤めた短大での最終講義で、清水は学生にこうよびかける。
▼ 今日は最後に、特に学生さんにお願いしたいことがあります。この人に出会えたから自暴自棄にならずにすんだと、そう思われるひとりにいつの日かなってほしい。この人に会ったから、この人に出会えたから生きられたという、そういうひとりになってほしいということです。(略)あなたがいてくれてよかった、おかげで人間なんて、どうせ、と言わずにすんだという、もっと言えば、子どもの本がしてきたような仕事、そういう子どもの本の一冊に、皆さんおひとりおひとりがなってくれたら、と願っています。もちろん一様である必要はない。子どもの本にもさまざまな本があります。そんなさまざまな本の一冊に皆さんがなってくださったら、と思うのです。
皆さんにも、有名無名を問わず、また当人は支えているという自覚を持たず、皆さんを支えてくれた人達がたくさんいてくださることでしょう。別の言葉で言えば、皆さんをこの世につなぎとめてくれた人達がいた。私にもたくさんいました。そのおかげで今日まで生きてこられたのです。だからこそ今度は人々をこの世につなぎとめるひとりになりたい、そして、皆さんにもなって頂けたらと思うのです。(pp.230-231)
この本はまた読むだろうと思う。買おうかな~
(2011-1-13 了)
夏に読んだ『本の虫ではないのだけれど』には、「日常を散策する I」とついていた。『不器用な日々』は、それに続く2冊目。
子どもの頃、同級生をいじめた経験や妹に意地悪をした経験をふりかえって清水はこんなことを書く。
▼…私は我慢して「いい子」「いい人」をやっている人が、そうしていない人をいじめたくなる気持ちがわかる。わかるが、それは何とも貧しい、情けない行為だ。耐えることは必要だけれど、我慢するな、と私が折ある毎に若い人たちに言うのは、我慢している人は、他者にもその我慢を強要してしまうからである。…
…かわりに私は憤ることができるようになった。憤りを言語化することが、少しずつ、できるようになった。我慢しないで主張することを覚え、不当な抑圧に抵抗するいくつかの手段、方法を覚えた。それは自分を解放していく道筋でもあったろう。解放されると人はたぶん意地悪である必要なんかなくなる。それでも今なお、自分の意地悪さが刺激されるときがある。他人の卑屈さにふれるときである。(pp.85-86)
「解放」ということばは、こういう場面で使われると、しっくりくる気がした。「部落解放」とか「女性解放」とかの言葉は私の近いところにあるけれど、解放されるってどういうことか、解放された部落はどんなところか、解放された女性はどんな人かと、私はなんども考えることがあった。
他人の卑屈さにふれると、私もいらだつことがある。そのいらだちが、意地悪さを連れてこないうちに、距離をおくことを大人の清水はおぼえたと書く。そういうのが生きていく知恵かなあ。
戦争を生きのびるより、平和を生きのびるほうが難しいのではないかと清水が発言して、ずいぶん非難されたという話を読んだのは、10年くらい前。たしか『学生が輝くとき―何か、こわい、この時代に』だった。『不器用な日々』でもこのことが書かれている。戦争のあとに平和が来るのではなく、平和が生きのびられなくなった時、私たちは戦争を招き寄せるのではないか、戦争を防ぐためにはまず何より平和を生きのびることが肝要だと清水が初めて口にした国際会議の場面を読み、清水がもう30年前に、ゼミの学生から「戦争を体験した人がうらやましい、語ることがいっぱいあって、自分たちにはそんな風に語れることが何もない」と言われてショックを受けた話を読み、戦争と平和をどう語るのか、語っていくのかと思う。
読んでみたいと思った本
『児童文学最終講義』
『わたしは歌う』
『玉ねぎの皮をむきながら』
『冥途の家族』
『波うつ土地』
『逆髪』
『日本語が亡びるとき』など
以前、別の本でも「フェミズム」というのを見たことがあるが、この本にも「フェニミズム」という、ぱっと見わかりにくい誤字があっておかしかった。 -
北朝鮮生まれの作者。
長年教育者として子どもたち、親たちを見る。
主に教育、子ども、家族、死について。
やはり、教育者が書く本はおもしろい。
学生もおもしろい。
自分は先生から見たらどんな生徒だったんだろうか。