映画術 その演出はなぜ心をつかむのか

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  • イースト・プレス
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784781611006

感想・レビュー・書評

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  • 現役監督の映画の演出論。
    どれも印象に残る言語化で映画を見る目が変わるのを感じる。
    香港映画縦のアクションの動きが好きなものとしてはそのルーツが知れて興奮した。
    ショットの考えより、映画も文脈の積み重ねと考えると様々な作品の出会えた分だけ楽しいといえる。
    省略、伏せるの文脈は古典的手法としつつも魅力を大いに感じる。
    映画は音楽に嫉妬するを示した終章付近の話もおもしろかった。
    どの作品も見たいが座頭市物語は抑えたい。
    映画は動きを撮りたいのに、俳優に行き着くのが矛盾していて面白かった。
    顔の演技は戦争なんだ。

  • 立教出身の映画監督による映画講義。この本を読んで、学生時代つまらないと思ったブレッソンを見直そうと思ったし、カサヴェテスを見つけた。

    <動線>
    ・上辺で語られる物語がある一方で、それとは別の次元で、もう一つの物語が(監督の)スタイルとして語られている。二人が、一つ屋根の下でどういう風に距離をつめていくのか、どういう風に橋を渡るのか渡らないのか、語られる物語に対して複数の時限を作り出していく。それが映画における演出というもの。いくつもの水準で語っていくことによって、映画はある種の豊かさを獲得する。そういう映画こそが、世代や国境を超えてゆく。
    ・こう思っている、だからこう動いたという因果に陥っている動きは、説明にしかならない。「怒った」から「殴った」ではなく「いきなり走り出した」。「なんで突然走り出したの? あ、怒ってるからなんだ」という予想を超えた瞬間が世の中にはある。常に複数のエモーションがあって、何が出て来るかわからない潜在層が重なっている場合、人がただそこにいるだけで緊張感が生まれる。

    <顔>
    ・映画の中で最も重要なエモーションは、映画を観ている観客のエモーションに他ならない。つまり観客は映画を観ながら演技を鑑賞したいんじゃなくて、エモーションを感じたい。俳優が演技していることすら忘れて、映画や登場人物に没頭したい。
    ・自分の内面にばかり注意して、自分の気持ちを表情として外に出す演技ばかりしていると、本来生存本能において重要なはずの、目の前の危険な男とどう対峙するか、という観点が演技からすっぽり抜け落ちる。

    <視線と表情>
    ・ブレッソンの『スリ』という映画は、一人の青年が長い時間をかけて、その精神を呪縛する「独善」から解き放たれて、自分が本当に視線を注ぐべき対象を見出すまでの話。そこに至るまでの青年の人生の軌跡が、まさに視線の演出そのものとして、あるいは映画の形式そものとして描き出されている。
    ・「人は何かを見ている時には、別の何かを見ることができない」という原則が人間の独善を生み、その独善の行き着く先に共感の欠如、そして他者への不寛容(イントレランス)が生まれる。この感覚は、作品ごとに異なる主題を持つブレッソンの映画世界の底流となっている。
    ・映画とは動きの創造ではないか。映画とは動きを見出し、組み合わせ、一つの出来事を作り出すこと。それが映画という表現ジャンルの根幹ではないか。

    <動き>
    ・映画はアトラクションでしかない場面と、重要な芝居の場面があるわけじゃなくて、全ての場面が重要。決定的な「動き」を見出して、作り上げて、切り取って、組み合わせる。お客さんがそういう「動き」の意味に気づかなくても、無意識には伝わるはずで、そこを目指して作っていかなければ映画は作れない。(この言葉を聞いて映画の見方が変わった。小説も同じ。本来は、作品の中に無駄なものなど一つもないはず。そういう前提で作るべきだし、読むべきもの)

    <古典ハリウッド映画>
    ・昔のハリウッド映画は、省略と行動だけだった。省略して伏せられたことの不在が、人物や物語世界に強い影響を与えていた。
    ・昔の俳優の演技はとてもシンプルで外面的。作劇があくまで行動を描いていくということもあって、人物の複雑な内面をいかに演技するか、みたいなことはあまり考えられていないようにも見える。ところが実際は、そういうシンプルで外面的な演技が、人間の複雑さとか、人間と人間の結びつきの複雑さ、不可解さのようなものまで見事に描き出していた。
    ・アクターズ・スタジオ出身のマーロン・ブラント(代表作『波止場』、『欲望という名の電車』)が、ハリウッドの演技を変えた。人間の複雑な内面を複雑な手続きを無視して演技する、映画の演出技法なりカメラワークなりそういう映画の話法を無視して、ただ俳優の演技だけを通して全てを語ろうとする、そういう演技を始めた。ところが、映画というものには独自の話法があって、動線だとか、衣装や美術の設計だとか光の明暗だとか、とにかくありとあらゆる演出の技術と、それから作劇の技術が相まって、一つの世界を創り出していく。その作劇と演出と演技が映画史上、もっとも単純かつ強力なかたちで結びつきあっていたのが、ハリウッドの古典的な話法というもので、そうした協力関係の中では、たとえ俳優の演技がシンプルで外面的でも、映画はものすごく多くのことを観客に伝えることができた。この話法の核心にあったのが、省略と行動だった。

    <喜劇役者>
    ・ある悲劇的な出来事が起こったとする。ことと次第によっては悲劇でしかないような場面。それを異化する存在が喜劇役者。本来ならひどい話なんだけど、笑っちゃう話しにすり替えていく。「場」を異化する。その時一番大事なのは、その場のエモーションを共有しないこと。涙のシーンで全然泣かない。みんなが怒っているシーンで平然としている。喜劇役者の役割は、いかにその場のエモーションとずれたエモーションで居続けるかということに尽きる。
    ・寅さんは別におかしいことをしていない。多少やるけれども、基本的には「ずれている」ことが大事で、常に他の人とは違うエモーションで生きている。そのことを人生のスタイルとしている。その場で感じたことを人より大仰にリアクションすることが喜劇役者の役割ではない。

    <音楽>
    ・言葉を反復するだけで、別の次元、ある魔術的な次元が開けていく。
    ・『曽根崎心中』の増村監督にとって、台詞は情念を加速させる装置。情念を加速させたり、増殖させるために言葉を反復させて歌のようにしている。グルーヴ感とはそういうこと。
    ・音楽とは、一つの感覚なり、感情なり、体験なり、そういうものに一つの形を与えて、永遠に記憶したい、反復したい、持続させたいという、そういう欲望の「形式」の発見である。その形式は、抽象的なはずなのに一度形を持ってしまったら、その抽象的形式=音符の連なりが、人の心を動かす。リアルに存在するものになる。一度リアルになると、もともと土台にあった現実との対応関係がなくなっても、音楽は平然と存在できてしまう。
    ・全ての映画は音楽に憧れる。
    ・演技というものがある瞬間、現実の単なる形態模写であることを超えて、あるかたちを持った時、それが現実の反映だから力があるんじゃなくて、最早現実を超えて、ひとつのかたちがかたち自身の表現としての強さによって、あるリアリティを持ってしまう。その時、演技は人の心を動かす。

    <ジョン・カサヴェテスと神代辰巳>
    ・シンプルで一貫した行動原理によって登場人物が動いて、その動きを通して世界を見せていく。それがアメリカ映画の基本だった。それに対してカサヴェテスは全然違うものを出してきた。
    ・カサヴェテスは性格ではなく感情を主役にした。感情の一挙手一投足にフォーカスした。
    ・チャールズ・ブロンソン主演の映画がある人物、あるキャラクターを通して一つのドラマを描いていくとしたら、カサヴェテスの映画は、人物そのものがドラマである。被写体としての人間そのものをドラマとして捉えている。
    ・人間の内面に強烈にフォーカスを当てているけれど、それでもカサヴェテスの映画が世に山ほどあるいわゆる「人間の内面を描いた映画」に比べて圧倒的に面白いのは、行動することを忘れないから。あくまで行動を通して感情を捕まえようとしている。
    ・それまでのアメリカ映画は、「この人物はこういう性格だからこう動く」だった。カサヴェテスは、「今こういう感情だからこう動く」とした。性格を感情に置き換えた。
    ・一人の人間が5分後に同じ感情である保証はない。人間の感情は揺れ動く。
    ・フラー、フライシャー、アルドリッチの映画は、出来事を一つの主題の基に卓越な順番で配置した。一つ一つのシーンが「ここで二人は決裂しました」とか「ここで彼らの利害関係は一致した」とか明快にわかれていた。ところがカサヴェデスはそうしない。感情が揺れ動くから、一つのシーンがどんどん長くなる。構成はあるけれど、構成よりも、一つのシーンの持続によって観客の興味を引っ張る。作劇のサスペンスではなく、シーンが持続していくなかでの臨場感というか、登場人物達の行動が一瞬後にはどこへ向かっていくかわからないというハラハラドキドキによってサスペンスを生み出していく。そういう風に映画を作ることが可能なんだということは、革新的で驚くべき発見だった。
    ・内面だけに注目すると感情が一つに固まって揺れない。行動も生まれない。複雑な感情を次々展開させるには、人物を内面と外面の両方から見つめる必要がある。
    ・内から溢れ出るものと、ひたすら外から見つめることによって蓄積してきたものがスパークした地点に立ち上がるものを、魂と呼ぶ。単なる感情芝居ではなく、魂で観客を揺さぶる。
    ・人が映画を撮ろうと思った時、最初に撮りたいのは俳優ではない。何よりもまず俳優の演技を撮ろうとは思わない。何か動くもの、面白い動き、面白い出来事にカメラを向けようと思うはず。にもかかわらず、最後に頼るのは俳優である。最初に撮りたいものは俳優ではないのに、最後に頼るのは俳優。それが、映画と演技の関係性。

  •  想像以上に面白かった!
     映画というものの見る目が変わる。
     機械的な技術ではなく、見る人のために、どこまで気を配るか、そういった気遣いを感じた。これは面白い。

  • めっちゃくちゃおもしろかった。


    こういうひとからもっともっと話聞きたいとほんと思う。映画の見方が変わったかも。でも、気付けれるかな〜、演出とか

  • 現役の映画監督による、「映画と演出の出会う場所から映画を再考する」という視点からの連続講義。映画学校で生徒を前に講義した内容を原稿化したものである。

    ところで、『映画術』という表題を持つ本には、すでに晶文社刊『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』という大著がある。晶文社には、その道の先達による後身に対するガイド本として「○○術」という表題を冠したシリーズがあるが、これはその中でも別格に位置する。フランソワ・トリュフォーによるヒッチコックへの単独ロングインタビューを山田宏一、蓮実重彦両氏が訳したもので、巨匠のフィルモグラフィーの時間軸に沿って、五百枚を超える写真を駆使し、その卓越した映画技法を監督自らが明かす、マニア垂涎の一巻である。そのひそみに倣ったのだろう、本書においても、本文に付された写真資料が講義に説得力を増す役割を果たしている。

    映画を見るのに理屈はいらない。好きなように見ればいい。しかし、映画を作る立場に立てば、そうも言っていられない。何事につけても物にはやり方というものがある。大工には大工の、料理人には料理人の長年にわたって先人が積み重ねてきた技術や理屈の蓄積というものがあり、それを知らずして一朝一夕にして事がなるわけがない。映画には映画の文法というものがある。先に述べた晶文社の本がまさにそれで、あの本を読んであるのと読まないのでは、監督としてのスタート地点で大きな差がついているだろう。

    講義の相手は、役者志望の若者である。それだけに、講義はどこまでも実践的。名作とされる映画の一コマ一コマを取り上げ、比較し、監督の意図や演者の表情、視線がどこにあるかを精細にチェックしてゆく。特に、一つのシーンを分解して選び抜いた十枚、十五枚の写真を時間の順序に配列し、その演出意図を分析するあたりは、さすがに現役監督ならではと感じさせられた。

    なかでも、冒頭に置かれた第一回目の講義「動線」が素晴らしい。成瀬巳喜男の『乱れる』を例にとり、こえてはならない「一線」が、どのように映像化されているのかを解説する、その手際があざやかだ。その前に予習として取り上げた溝口の『西鶴一代女』における、身分の差のある男女を区切る「一線」とは、座敷と庭を区切る上下の区別だった。知ってのとおり、『乱れる』は、高峰秀子演じる死んだ兄の妻に思いを寄せる加山雄三の愛が成就するのかどうか、という一点に観客の関心はある。そこで、成瀬は高峰秀子に奇妙な演技をさせている。

    警察からの呼び出しを受けた高嶺秀子は電話のある場所から店先に移動するのに土間に敷かれた渡り板の上を歩いている。また警察からの帰り道、いっしょに渡ってきた橋の歩道の最後のところで、高峰秀子は反対側に移る。それは何故か、というのが筆者の問いである。答えは、その橋がこえてはならない「一線」を象徴するものだからだ。橋は最後の温泉場のシーンでも再び登場する。戸板に乗せられた加山を追おうとして渡りかけた橋を、高峰は何故か立ち止まり、遠ざかる加山の死体を見送る。

    ここでは橋が二人を隔てるものとしての役割を振られている。観客がそれに気づこうと気づかずにいようと、それは構わない。ただ監督としては、観客の無意識に訴えかけるように、何度も渡り板や橋の映像を提示する。われわれ観客は、反復される橋の横断に対する躊躇を無意識の裡に見ることで、はらはらどきどきしつつ、二人の関係の行方に引き込まれてゆくわけである。

    評者のように一映画ファンに過ぎない者にも、この講義は面白かった。成瀬巳喜男の映画が好きで、何度繰り返し見ても、そのたびに胸打たれるものがあるのだが、その理由が、こうした演出の一つ一つにあったのだな、とあらためて教えられた。

    第四回「動き」では三隅研次監督『座頭市物語』を取り上げている。勝新太郎と天知茂の出会いの場面(横並び)、交誼の場面(天知の背に勝)、勝負の場面(勝の背に天知)のそれぞれを見比べながら、二人の位置関係を確認し、二人が互いの顔を見合す位置にないことを指摘する。互いの力量を知る者通し、顔と顔を見合わせること、つまり斬り合いになることへの忌避がそこにある、という分析にも驚かされた。教えられることの多い一冊である。

著者プロフィール

1961年生まれ。立教大学在学中より自主制作映画を作り始める。83年、黒沢清監督『神田川淫乱戦争』に助監督として参加。同年『ファララ』がぴあフィルムフェスティバルに入選する。その後、大和屋竺のもとで脚本を学ぶ。99年、初の長編映画『月光の囁き』がロカルノ国際映画祭に出品、同年第24回報知映画賞新人賞を受賞、同年『どこまでもいこう』『月光の囁き』で日本映画監督協会新人賞、2000年第9回日本映画プロフェッショナル大賞新人監督賞。01年『害虫』でナント三大陸映画祭審査員特別賞および主演女優賞(宮﨑あおい)。04年『黄泉がえり』で第27回日本アカデミー賞優秀監督賞・優秀脚本賞。05年『カナリア』でレインダンス映画祭グランプリを受賞。主な作品に『どろろ』『抱きしめたい -真実の物語-』『風に濡れた女』(ロカルノ国際映画祭若手審査員賞)などがある。

「2019年 『映画「さよならくちびる」公式ブック』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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