幕末下級武士の絵日記―その暮らしと住まいの風景を読む

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著者 : 大岡敏昭
  • 相模書房 (2007年5月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (201ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784782407035

幕末下級武士の絵日記―その暮らしと住まいの風景を読むの感想・レビュー・書評

  • 忍藩(埼玉県行田市)の尾崎隼之介(字は石城)十人扶持。元は御馬廻役百石。29歳の時に藩政を論じたために蟄居。33歳独身。養子先の尾崎家を追い出され、妹夫婦の家に同居中。時々絵と文を書き、読み書きの手習いで生計を立てている。文久元年(1861年)より2年までの187日間の記録。

    本屋で半額セールになっていたので衝動買いしたのであるが、掘り出しモンだった。

    下級武士の日記史料ならば、元禄期名古屋藩の「鸚鵡籠中記」があるが、これはこれでなかり面白い。日記は時系列になっていなくて交友関係や住まい、食事、世相などを解説する中に史料的に扱われているにすぎない。それでも面白いのは、隼之介の描いたポンチ絵がふんだんに採録されているからである。


    隼之介の教養はなかなかのものだったようだ。一年で売り払った(更に買い戻した)書物の一覧(408冊もあったらしい)を見ると、四書五経、文選、史記等々の中国主要古典、万葉・古今・平家・徒然などの日本古典などを修めている。買い戻してはないが、切腹の書、天草軍記などの軍記もの、松陰日記等々おそらく当時のベストセラーも読んでいるみたいだ。それらを夜着を着てコタツに入ってさらに衝立で隙間風をよけて読んでいる。

    友人は中級・下級武士、僧侶、果ては近所の女子どもと、常に仲良く付き合っている。家は常に道に向かって開かれていて、友人はいつも庭からふらっとやって来て、縁側でお茶や酒を飲む。玄関や鍵という概念がないかの如くである。お金はないが、付き合いはある。やっても来るが、寄っても行く。肴を持って行くことも多いが、それでも互いに飲む時にはわりと豪勢な宴になる。普段の食事は、朝食はかゆと菜汁が多く、昼食は豆腐、里芋、いわしなど(何れも一品のみ)。夕食はしじみ汁、松魚汁、湯豆腐、鴨の汁、豆飯、茶漬けなど(何れも一品)。これが酒宴になれば、刺身、焼き魚、玉子、鶏肉、茶碗蒸し、松茸、田楽、寿司などと突然多くなる。なんとも楽しそうだ。

    近世の歴史家には、常識的なことが多いかもしれないが、絵がついていてかなり新鮮だった。私の関心領域は弥生時代なので読み飛ばすが、時代小説家やテレビプロデューサーならば、参考にするべきところがかなりあると思う。

    隼之介は尊皇攘夷思想にかぶれてはいたが、結局「英雄」たちの仲間に入る機会はなく、維新後は藩校の教頭、宮城県で役人として出世し、次の任地の石巻で47歳の当時としては一般的な歳で亡くなったらしい。1876年の頃。ちょっと酒を飲みすぎたのかもしれない。

    2016年7月24日読了

  • 江戸時代の普通の武士が、具体的に何を食べて、どんな本を読んで、どんな交流をしているか、それらの価格まで記されているだなんて知りたいことを知れて面白かったです。
    内陸なのに魚介類を結構食べてたり、毎日のような飲酒ぷりや、宴では町人や家族も一緒だったりと意外な日常でした。

  • 図書館より。
    下級武士のイメージがちょっと覆る。
    意外といい生活?してるよね。

  • 幕末の忍(おし)藩(現さいたま県行田市)の100石知行取り(年収約500万円)の中級武士が十人扶持(年収約110万円)に下げられ下級武士となり、蟄居させられて仕事がないので、毎日友人宅や近所の寺に入り浸り、毎日酒を飲んでいる様子が絵日記に書かれている。
    アルバイトの掛け軸、襖絵で収入を得てはいるが、貧窮した生活を送っている。 それでも同じ下級武士や寺の和尚、町人たちとの交わりがほのぼのと描かれている。 
    巻末にある江戸に住む母親からの手紙などはぐっとくるものがあります。

  • これは絵日記形式、と言うこともあり
    読んでいて非常に面白い本でありました。
    ここに出てくる主人公は訳ありの下級武士。
    実は彼は、政治批判をしたために
    降格をさせられたのです。

    決して裕福ではない生活、
    お金を借りることもままありますが
    それでも落胆することはないです。

    そして結構な割合で出てくるのが
    「酒」。見事にコテーン!となる光景も
    よく見受けられます。
    飲みすぎですよ、石城さん。

  • 現在の埼玉県行田市にあった忍(おし)藩の下級武士、尾崎石城が書いた絵日記をもとに、中級~下級武士の暮らしと住まいを伝える一冊

    ・部屋の造りや、道具類、宴会風景や寝込んでいる風景まで、いろいろな絵があり、パラパラ見るだけでも楽しめる

    ・毎日のように寺に遊びにいったり、町の人やお坊さんを交えての宴会など、なにげない普段が興味深い。

    ・家の入口をどの方角にもうけるかの移り変わりを追った記述を特に面白く読んだ(以下大雑把な要約(ほぼ引用)と引用)
    『 武士の住まいの源流は古代貴族の住まい。奈良平安の上級の住まいはどれも南入りで南向きで、これは南方位を重視する中国の住まいづくりの影響。「中国の上級の住まいの特徴は南面性と左右対称性および南正門にあり、はるか殷の時代から近代までの約三千年以上の間そのような考えでつくられつづけてきたが、それは儒教の冠婚喪祭(かんこんもさい)における儀式様式にもとづいてきた。」平安後期にはしだいに東または西入りの住まいも現れるが、建物は南向きであった。中世から近世初期の京都の貴族と武士の住まいでは、東西南北のあらゆる方位に住宅入口ができ、建物も入口の方向に向けて建てられるようになった。
     中世から近世初期にみられる住宅入口の変化は、日本独自の方位観によるものではないか。
     「中国の住まいをつよく規定してきた儒教は飛鳥以前から日本に伝来し、近世の武士の間にも普及していたが、それは哲学精神面が主であって、礼制や実生活にはほとんど影響を及ぼさなかった。日本古来の土着信仰(山岳宗教や古神道)と融合した仏教が日本人の実生活と精神のなかに深く入っていたからである。その仏教にみる方位観は、平安の浄土教によってもたらされた西を浄土とみる西方位観であったが、中世にかけてはあらゆる方位を尊重するという全方位観に変化している。それは仏陀の説く「四方仏性(しほうぶっしょう)」をさらに自然化し、東西南北のあらゆる方位の自然や人びとや物にまで仏性[ほとけ]の存在をみた道元などの中世仏教や、また古来からの山岳信仰の影響を受けて近くの霊山を聖地とみる山中浄土観の普及にある。そこでは、それまでの特定の方位観は消滅し、あらゆる方位を尊重し大切にするという考えに変化している。それが中世から近世初期にかけての貴族武士や民衆に広く浸透し、寺檀制のもとで近世末まで持続したからであろう。」』p109-111

  • 尾崎石城という侍が書いた絵日記を解説したもの。
    当時29歳だったこの人は独身で、埼玉県行田市の城下町にある妹夫婦の家に居候している。年俸100石の武家に養子に行ったのに、藩に「上書」して下級武士に落とされてしまったので、絵描きのバイトをしながら暮らしている。
    もちろん丁髷の月代( さかやき)の手入れもかかさないし、道場で剣術のお稽古もするし、江戸のお母さんにお歳暮(キャッシュ)も送っている。
    毎日友達の武士やお寺の住職が次々遊びに来る。また彼もお寺や友達の家に頻繁に訪問し、パーティ三昧である。
    座敷でご馳走を食べて、踊ったり歌ったりしている。そこには犬も猫も赤ん坊も女性達も商人も左官もいて、おおらかに人生を楽しんでいる。
    絵が上手で描写が細かい。友達の家に行って、皆で座敷でゴロ寝。お風呂に入ったり泊まったりもしている。友達と読書会を開いたり、旅回りの歌舞伎や浄瑠璃を楽しむ。入場料はキャッシュでなくお米である。
    のんびりして何とも楽しそうな日々。本当に江戸時代の暮らしってシビアだったんだろうか?

  • 武蔵忍藩の下級武士である尾崎石城が記した幕末(文久元年〜2年)の絵日記をもとに、その生活の様子を描き出す一書。

    日記の記述で目につくのは、石城がとにかくやたらと酒を飲み、酔っ払っていること。とくに4月8日の花祭りの前日は、相当酔っ払ってしまったらしく、寺の戸や障子をぶっ壊し、さらには床の根太まで打ちぬいた、なんて話は思わず笑ってしまった。

    あるいは料理屋で飲んだ帰りに、酔っ払って堰の中に落っこちてずぶ濡れになった、なんて話も笑える。「おとろきて目さめはい出たれとも、衣類狼藉の躰ゆへ、側の井戸にていさゝかそゝきはしりかへりぬ、アゝ寒し寒し」(p160)。現代にも通じる笑い話だ。その様子を示した絵も、ほっかむりをして顔を隠して井戸の水で身体を洗っている石城の姿が描かれていて滑稽だ。ちょっと脚色してんじゃないの?という気すらしてくる。

    他にも飯を炊いたり、内職めいたことをしたり、生活感出まくりの記述が続く。とは言え四六時中酔っ払っているわけではなく、難しい書物を読んだりもしていて、決して自堕落な生活というわけではなかったようである。まさに無聊をかこつ、と言ったところ。

    ただし日記の作者である尾崎石城は、日記を書いている時期には蟄居の身分であった。どうも上書して藩政を論じたため、藩から処分されてしまったようだ。ゆえに本来100石の中級武士だったが、日記を書いている時期は十人扶持の下級身分となっている。これが「下級武士の絵日記」一般ではない、ということは注意しないといけないのかもしれない。

    あと、この日記はいったい何のために書かれたのか、ということもちょっと気になった。他人に見せる気があったのか、日記はこの部分しか残されていないのだとしたらそれはなぜか、とか…。書誌学的な位置づけがどういう感じなのか、気になるところである。

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