状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加

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制作 : 福島 真人  ジーン レイヴ  エティエンヌ ウェンガー  Jean Lave  Etienne Wenger  佐伯 胖 
  • 産業図書 (1993年11月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (203ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784782800843

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状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加の感想・レビュー・書評

  • LPPと言えばこの本。<br>
    仕立て屋なんかの例が載っている<br>
    学部時代図書館で一度読んだ。時間が経って、本屋で見つけて、パラパラとめくっていて、解説を読んで「買うしかない!」と思った。あとがきを読んで・・・強く共感した。<br>
    私としては本編よりも、解説&あとがきのほうが刺激的で、印象的だ。<br>
    ちょっと長いけど引用。<hr>
    <解説><br>
    p140 当然のことながら、我々は他者の心的構造などを直接観察する事はできないから、その構造の探求に関しては、結局我々に与えられているのは、研究対象の活動様式及びその活動の結果生産されたものの全体でしかない。<br>
     この際に、どういう手続きをもって、ある複雑なデータが比較的単純な構造的関係に還元されるかは、言わば研究者の直感に任せられる事になる。<br>
     しかしそうだとすると・・・研究者がそれ自体無秩序の対象から無理やりつくりだした幻想に過ぎず・・・我々が秩序とするものは全て我々の認識が作り出した幻想であり、現に存在するのは混沌に過ぎないという事になる。<hr>
    p142 だが・・・すべては分析者が作り上げた幻影に過ぎないとする事ではなく、寧ろある対象の構造的把握が可能となるとすれば、それは一体どういう条件下でなのか、という点を明確にする事なのである。<hr>
    当時、自分が一番気になっていたこと。認知科学は自己破壊的だということ。つまり、どんな記述も(所詮)観察者の主観的認識でしかない以上、真理なんてありえないじゃないか、ということに対して、ここでひとつの答えを提示してくれている(と感じた)。<hr>
    <あとがき><br>
    p183 従来・・・学習と呼んできたことは、ごく当然のこととして、特定の「与えられた」教科内容を、特定の子どもがいかにして理解に達するかということに焦点が置かれたものであった。<br>
     しょせん、理解に至るまでのプロセスの最適化が問題となるということは、「それ以外に考えようのないほど」自明のこととされてきた。<br>
     しかし、教育の問題を本気で考えるとすると、コトはもっと複雑で深刻である。端的に言えば、子どもにとって、「わかること」や「できること」の意義が見えなくなってきている、ということである。「わかって、何になる」、「できたからといって、それがどうした」ということである、こういう「わかって、何になる」式の不安と「先の見えない」閉塞感が、教室全体にかぶさり、教師も子どもも、それに圧し潰されていることがありありと観察できる。そこで子どもはやる気を失うか、受験という目の前の目標に自らを縛り付けて、「それ以外は考えないことにする」ということで当座を切り抜けようとしている。教師も同じであって、教材をどういじっても、教授技術をどう工夫しても、「先がない」状態での一時しのぎをしているのではないかという疑問と不安をぬぐい去ることはできない。そこでともかく日々、カリキュラムにしたがって、「これを教えるのだ」と自ら限定してカラ元気で動き回り、気をまぎらせているのが現状である。そういう状況に加えて教育問題を外側から眺める人びとから・・・注文ばかりどんどんつきつけられて、現場は混乱に陥っている。<br> 「考える糸口」がつかめない、というのがこれまでの現状である。本書がまさしくその「考える糸口」を提供しているように思われる。<hr>
    この後、LPPと従来の学習観の違いがいくつかのポイントでまとめられている。このような考え方はドーナツ論にもつながるものである。

  • 学習者が実践者の共同体に参加することで、知識や技能を習得し、十全的参加者になるというプロセス、正統的周辺参加をテーマに挙げています。

  •  教える人がいて教わる人がいて,教える人が言ったことをちゃんと教わることで学習が成り立っている…なんて思っている教育界に一石を投じる本であることは確かです。
     実は,最初は,出てきている言葉の概念がつかめず,とてもわかりにくくて,なんどもなんども同じ場所をくり返して読んだりしていましたが,最後の方まで来ると,なんとなく,こんな私でも著者の言いたいことは伝わってきました。
     訳者である佐伯胖氏のあとがきを読んでから,本書を読むとよかったのではないか…と,今は思っています。佐伯先生の文章は,とても分かりやすいですし,なぜ,今(1993年),これを訳したのかがよく分かりますので…。
    「勉強<する>のではなく,何かを<する>ために勉強をともなうのだ」という発想が学校にあると,もっと子どもたちへの指導も変わるような気がします。子どもたちに勉強して欲しかったら,「子どもたちが○○したい」と思うような状況の中に子どもたちを置いてあげる必要があります。自分もその社会に参加したいとおもうような集団です。それがなくて,点数だけでの指導では,イヤになるだけだし,子どものアイデンティティーの形成にも役立ちません。
    「すべての学習がいわば,<何者かになっていく>という,自分づくりなのであり,全人格的な意味での自分づくりができないのならば,それはもともと学習ではなかった,ということである。」(佐伯胖氏のあとがきより)

     60ページ近くにもなる「解説」は,これまた専門的すぎて,一介の教師には理解できませんでした。

  • 向後千春先生の『上手な教え方の教科書‐入門インストラクショナルデザイン』(技術評論社)の「4.4正統的周辺参加」の参考文献。

  • Sun, 13 Sep 2009

    長らく待たせていた本書を読了した.

    間違うことない良書だ.

    すばらしい.

    人間の「学習」そして教育の本質を突いている.
    学校教育の「教育論では無い」と本書は言っているが,
    それは,学校教育に携わる人間が読まなくていいと言うことではない.

    むしろ,激しい論戦が本質と異なる部分で巻き起こる,
    学校教育論自体の論争に巻き込まれる事を嫌い,
    アジェンダの切替を行ったというところだろう.

    本書は学習を「徒弟制」から読み解く.
    親方の仕事の一部を任され,そこから,組織の一員となっていくプロセス
    それが正統的周辺参加だ.
    そして,その徒弟も十全的参加へと変化していく.

    学習とは知識を内化することではない.(と,断言すると語弊があるかもしれないが・・・)

    p27
    学習過程を歴史化するということは,「内化」を普遍的過程として,歴史性のないものとする見方が間違いであるとする.

    学校教育では,結局,学校という場における知識しか身につかないという事は良く指摘される.
    「テストの点の取り方を覚える」
    「歴史は年号を覚えること」
    「学校教育なんて当てにしていない.勉強は我が社に入ってからやってもらいまうす.」

    と,
    経験や活動と結びつかない言葉の意味は、参加者がその意味を自らの行為の中に意味づける事を困難にし,ただ,教科書・学校の言葉・活動を再生産する活動へと組み込まれる.
    しばしば,学校教育は自己目的化する.

    「じゃあ,どうすればいいの?学校なんてない方がいいの?それも変じゃない?」

    と,いわれる.

    学校教育のはらむ矛盾と,それに対する問題意識は良く口にするが,
    そのたびに上記,指摘に明確な返答を示せない.
    学校教育は人類史的にも比較的,最近出来た構造物なので,理解は難しい.
    国家概念との関係も切り離せないので,ややこしい.

    本書は,だからこそ,学校教育の本ではない と,かなり丁寧に,一線を引き,そこへの提言と見せかけないようにして,本質的な議論をしようとするのだろう.

    解説の福島が指摘するように
    本書のアプローチは認知科学的であり,社会科学的であり,文化人類学でもある.

    ことば についても重要な指摘がある.
    ・・・というか,記号について考える者にとっては,究極的に重要なのだが・・・

    p.68
    ことばは実践の一部であり,人びとが学ぶのは実践のなかである.
    (中略)
    中心的問題が活動だろうとことばだろうと,学習に関して重要なことは,
    教授行為へのアクセスではなく

    学習の資源としての実践へのアクセス
    の問題である.

    自分の議論のしかたに引き寄せると,
    知識の伝達というシャノン&ウィーバー型のコミュニケーションモデルにとらわれすぎた頭では,教育とは,情報伝達と化してしまう.しかし,ことばの意味は まさに実践の中にあり,その環境の中に入らない限りは,ことばの意味は本質的には見いだされない.
    ことばの獲得はしばしば手段ではなく,十全的参加へいたった証しであったりする.

    本書の理解は,非常に本質的であり,
    人間の学習のプロセスについての議論を行う上で,基本に置くべき基準を与えてくれるといってもいいのではないだろうか?

    新参者は何時か古参者にとってかわる時がくる.
    そして,その間に衝突が起きることもある.
    それらが置き換わっていき,しかし,組織は継続していく.
    それが正統的周辺参加のダイナミックな流れだ.

    その活動全体を,ある種,文化人類学学的に捉える事が,学習の理解にとっては不可欠であることを教えてくれる.
    学習は至極,集合的なものであるのだ.


    久しぶりにベタボメの一冊です.

    とはいえ,この本の「ことば」をどのように理解出来るかどうかも,
    この手の本を支える 文化への「参加」が前提となり,
    環境適応とことば・記号・コミュニケーションの関係について,頭を捻ってきた自分だから感動した面もあるのは否めない.

    もっと,早く読んでおけば良かったと思う一方,
    あまり早く読んでも,よくわからなかっただろうなと思ったりもする

    ジャケ買いはなさそうな一冊ですが,オススメです.

  • 生きる気力が湧いた。

  • 2度目の読書である。レイヴの引用を越境した学習が行っているので読んだ。具体例として職人の学習の例があるのでわかりやすい。

  • 状況に埋め込まれた学習

  • 訳者があとがきで書いてあるように、学校を中心とした学習観に一石を投じる本だ。正統的周辺参加という概念は色々な現象を分析するのに興味深い視点。

    ただ、序文は本当に必要だったのか(興味の異なる読者を排除してしまったのではないか?)、解説も大変優れた論考だが、本当に必要だったのか、と思う。訳者後書きが今の日本における問題をえぐり出す優れた文章だった。本文がシンプルなだけに、これほど、付属品に左右される本も珍しい。

    ・正統的周辺性というのは、権力関係を含んだ社会構造に関係している複雑な概念。
    ・学習観の対立と転換(P16)
    ・正統的参加は家族や共同体の成員であることを通じて、分散して行われる。
    ・学習のカリキュラムと教育のカリキュラムとを区別せざるを得なくなる。学習のカリキュラムは新しい実践の即興的展開のための状況に埋め込まれた機会からなっている。
    ・学校の子どもたちは正統的に周辺的である。しかし一般的に社会的世界には参加しないようにされているのである。
    ・共同体と学習者にとっての参加の価値の最も深い意味は、共同体の一部になるということにある。
    ・正統的周辺参加に見られるディレンマ、コンフリクト(P102)
    ・学習は「個人の頭の中でやること」ではない、社会的実践の一部である。
    ・LPPでは学習は、アイデンティティの形成過程であるとする。知識の獲得、蓄積ではない。

  • ○共同体という小宇宙の無分別智から後得智の発揮?
    ○co-createからco-inovateへ発展できる?

  • 学習は実践の共同体への参加の過程である。ここでいう参加とは当初は正統的且つ周辺的だが、次第に関わりを深め、複雑さを増していく。

  • 選択科目「ナレッジ・マネジメント」で参考書として使用。
    専攻シラバス:
    http://www.gsis.kumamoto-u.ac.jp/curriculum/19/syllabus_19.html

  • 確立されている世界へ参入していく学び方。参加し、参加者が学んでいく。ネットの世界も正統的周辺参加・・・ですよね?

  • 状況主義は、注入主義における抽象性の高い非現実的場面での知識や脱文脈化した断片的知識を批判し、それぞれの状況ごとの知識のあり方を重要視している。
    その中で学習とは、社会・文化的な概念とされ、他者とともに営む社会的実践として捉えられる。そして、そのためには実践共同体への参加が必要だという。
    しかし、著者は学校での学習問題を回避し、理論応用への議論を行っていない。これでは、著者自身が学校化された知識しか持たないのではないかと疑問を持つ。
    なぜなら、状況主義とは応用力を養うことだと考えるからである。

  • 個人が集団に参加していく過程そのものを学習と捉え直しており、従来の学習と参加の関係の捉え方に一石を投じている。

  • 今のところバイブルと化しています・・。

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状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加の作品紹介

本書は、学習についての考え方に根源的でしかも重要な再考と再定式化をせまっている。人間の全体性に重きをおき、行為者、活動、さらに世界が相互構成的であるとみなすことによって、学習を事実についての知識や情報の受容とする支配的な仮説から逃れる機会を与えてくれる。

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