- Amazon.co.jp ・本 (203ページ)
- / ISBN・EAN: 9784782800843
感想・レビュー・書評
-
【学習とは実践共同体への参加である】
状況的学習論の古典。
「頭の中」に学習があるという見方を批判し,
学習は状況と不可分であることを指摘。
知識偏重時代において改めて考えさせられる一冊。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
LPPと言えばこの本。<br>
仕立て屋なんかの例が載っている<br>
学部時代図書館で一度読んだ。時間が経って、本屋で見つけて、パラパラとめくっていて、解説を読んで「買うしかない!」と思った。あとがきを読んで・・・強く共感した。<br>
私としては本編よりも、解説&あとがきのほうが刺激的で、印象的だ。<br>
ちょっと長いけど引用。<hr>
<解説><br>
p140 当然のことながら、我々は他者の心的構造などを直接観察する事はできないから、その構造の探求に関しては、結局我々に与えられているのは、研究対象の活動様式及びその活動の結果生産されたものの全体でしかない。<br>
この際に、どういう手続きをもって、ある複雑なデータが比較的単純な構造的関係に還元されるかは、言わば研究者の直感に任せられる事になる。<br>
しかしそうだとすると・・・研究者がそれ自体無秩序の対象から無理やりつくりだした幻想に過ぎず・・・我々が秩序とするものは全て我々の認識が作り出した幻想であり、現に存在するのは混沌に過ぎないという事になる。<hr>
p142 だが・・・すべては分析者が作り上げた幻影に過ぎないとする事ではなく、寧ろある対象の構造的把握が可能となるとすれば、それは一体どういう条件下でなのか、という点を明確にする事なのである。<hr>
当時、自分が一番気になっていたこと。認知科学は自己破壊的だということ。つまり、どんな記述も(所詮)観察者の主観的認識でしかない以上、真理なんてありえないじゃないか、ということに対して、ここでひとつの答えを提示してくれている(と感じた)。<hr>
<あとがき><br>
p183 従来・・・学習と呼んできたことは、ごく当然のこととして、特定の「与えられた」教科内容を、特定の子どもがいかにして理解に達するかということに焦点が置かれたものであった。<br>
しょせん、理解に至るまでのプロセスの最適化が問題となるということは、「それ以外に考えようのないほど」自明のこととされてきた。<br>
しかし、教育の問題を本気で考えるとすると、コトはもっと複雑で深刻である。端的に言えば、子どもにとって、「わかること」や「できること」の意義が見えなくなってきている、ということである。「わかって、何になる」、「できたからといって、それがどうした」ということである、こういう「わかって、何になる」式の不安と「先の見えない」閉塞感が、教室全体にかぶさり、教師も子どもも、それに圧し潰されていることがありありと観察できる。そこで子どもはやる気を失うか、受験という目の前の目標に自らを縛り付けて、「それ以外は考えないことにする」ということで当座を切り抜けようとしている。教師も同じであって、教材をどういじっても、教授技術をどう工夫しても、「先がない」状態での一時しのぎをしているのではないかという疑問と不安をぬぐい去ることはできない。そこでともかく日々、カリキュラムにしたがって、「これを教えるのだ」と自ら限定してカラ元気で動き回り、気をまぎらせているのが現状である。そういう状況に加えて教育問題を外側から眺める人びとから・・・注文ばかりどんどんつきつけられて、現場は混乱に陥っている。<br> 「考える糸口」がつかめない、というのがこれまでの現状である。本書がまさしくその「考える糸口」を提供しているように思われる。<hr>
この後、LPPと従来の学習観の違いがいくつかのポイントでまとめられている。このような考え方はドーナツ論にもつながるものである。
-
(エンゲストロームの言葉を借りるならば)ヴィゴツキアン第三世代の仕事のひとつ。正統的周辺参加の理論をある程度体系立てて説明してくれている。
いくつか理解の難しい概念があるものの,大枠は理解できる内容になっている。時々訳語として不正確な箇所があるので,原著と合わせて読んだ方がよいかもしれない。 -
学習の形はたくさんあるんだなということを改めてしることができた。難解な言葉もあったけどある程度は読めたと思う。