- Amazon.co.jp ・本 (214ページ)
- / ISBN・EAN: 9784787231994
作品紹介・あらすじ
マンザイブーム以降のテレビ的笑いの変遷をたどり、条件反射のように笑いを発しながらも、同時に冷静に評価するという両面性をもったボケとツッコミの応酬状況を考察し、独白であると同時に会話でもある擬似的なコミュニケーションが成立する社会性をさぐる。
感想・レビュー・書評
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漫才の歴史の中で一つの大きな区切りは関東大震災。関西から巡業で東京に出ていた漫才コンビが関西に戻り、それぞれ震災体験を語った。漫才が謂わば報道の役割を果たしなのだが、ここで重要なのは演じ手が脚本に則った「ネタ」だけではなく、そこに個人の顔を覗かせる「私」を前面に出ていると言うことである。(P.27)
例えばやすきよの漫才には私生活のトラブルや外国人妻であることがオチとして用いられる。これは漫才本来の筋からいえば「正統」ではない。だが、掛け合いという基本に忠実で、ギリギリ定型に踏みとどまろうとしながらもそこからはみ出てしまうやすきよの漫才は強い印象を起こし、直後のマンザイブームを牽引した。(P.40)
落語のオチとは噺というファンタジーから現実へ観客を「オト」す作業だった。それに対してテレビの笑いは仲間意識を強調した。
日本のバラエティ(テレビでのお笑い)MVPは明石家さんまに(ほぼ)決定だが、これはさんまが素の自分をキャラクター化することに特化していたからだろう。
芸のテレビ化(上岡龍太郎の言うところの素人芸)を決定的にしたのは萩本欽一。萩本の「笑い」は最終的に素人を服従させる(若しくはさせうる)コトを基本としている。
それに対して1980年代以降の日本の「笑い」は「視聴者」という「素人」が前面に出てくるのが特徴である。(P.32)
上岡龍太郎が指摘したように、テレビの笑いは大衆的であり、刹那的であって、その場だけの楽しさを求め、ニュアンス深さを欠いたものになっていった。それは「笑い」がより身体的、反射神経的になったということでもある。近年の雛壇芸人などはその顕著な例なのではないか。
[private]紳助・竜介は「私」をさらして笑いを取るという方法論を徹底させた。不良であるという実生活をそのままネタにして、衣装もつなぎにリーゼントという姿で、観客の大多数となかまであるという姿勢をしめした。
ひとりひとりの演じてが観客と直接向き合うと言う状況がはっきりしてきた。そしてそのような関係性の変容を。ボケとツッコミのパターンの変容としていっそう明確にしたのがビートたけしである。
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文章に使われる(笑)と言う記号は、その場の穏やかな雰囲気を伝えたり、本気の発言ではないですよという風に使われる。つまり、相手の笑いを先取りしたり促すものではなく、自分に対するツッコミなのである。
[private]<blockquote>頑張るとはもともと、我意を固執して譲らないことである。(中略)共同体の成員の中で、風変わりな自己を主張することであり、共同体のまとまりのため、具合の悪いことなのであった(多田道太郎『しぐさの日本文化』1978年)
</blockquote>[/private]詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
[ 内容 ]
テレビにみられる「ボケ」と「ツッコミ」と「フリ」をキーワードにさまざまな笑いの形態を詳細に考察し、主観と客観を巧みに交差させながら笑いに対する介入と放置を繰り返す送り手と受け手の意識構造を浮き彫りにして、「なんでもあり」の感覚を共有することで成立している、笑いを媒介にしたコミュニケーションの社会性を分析する。
[ 目次 ]
序章 「観客」と「視聴者」
第1章 マンザイ的「笑い」の誕生―マンザイブームをめぐって
第2章 「仲間」空間と「笑い」
第3章 「笑い」が「感動」に変わるとき
第4章 現代日本社会と「笑い」
終章 「笑う社会」の行方
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