少女たちの戦歴: リボンの騎士から少女革命ウテナまで (ポップ・カルチャー・クリティーク 2)

著者 :
  • 青弓社
3.00
  • (1)
  • (0)
  • (5)
  • (2)
  • (0)
本棚登録 : 39
感想 : 4
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (174ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784787270924

作品紹介・あらすじ

なぜ少女たちは戦うのか? アニメ・マンガ・ゲーム界を席巻する「戦う少女」のイメージ。いまや日本独自の文化ともいえる少女たちの戦いの理由を問い、その魅力を考察する。そのほか「仮面ライダーがエントツの上に立った日」など。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 少女革命ウテナ評論目的
    アライ=ヒロユキ『なぜ「少女」「革命」なのか』
    村瀬ひろみ『性の寓話としての『少女革命ウテナ』』
    貴地久好『『サクラ大戦』から『サクラ大戦2』へ』

  • 『リボンの騎士』から『少女革命ウテナ』まで

    青弓社(1998/5/30第一刷発行)


    戦闘美少女たちの系譜・・・斉藤環
    なぜ「少女」「革命」なのか・・・アライ=ヒロユキ
    『少女革命ウテナ』は月組である・・・荷宮和子
    少女がたたかう−母性からの解放・・・織原ジン
    性の寓話としての『少女革命ウテナ』・・・村瀬ひろみ
    『サクラ大戦』から『サクラ大戦2』へ・・・貴地久好
    魔法少女『サミー』と変身少女『りりか』−二つの終着点・・・黒田一茂
    少女という名の黒魔術・・・八本正幸
    戦う少女の原像 『リボンの騎士』論・・・村上和彦

    ぼくたちの『エヴァ』体験・続・・・同人誌サークル座談会
    それはきっとすてきな呪い・・・近藤恵
    寓話の彼岸・・・保本登
    マンガ表現の解体学 視点と〈語り手〉・・・竹内オサム
    仮面ライダーがエントツの上に立った日・・・奥中惇夫

  • いやー、なんていうか、スゴいねー。こういう手の本は、増えてる感じだね。宝島なんか、かなりアホな本出してるし、多い。でも、この手の本も物に寄るし、意外と内容がしっかりしているものとか勉強になるものとかあるので、たまに読むようにしている。というよりも、基本的に好きなんでしょう、サブカル本、ウンチク本、中途半端な評論本。

    タイトル通り、『少女』について、いろんなジャンルのライターさん達の評論。評論なんて言うほどのものではないような、内容もあるけれど、でもどれも面白かったし。ライターさんは女性が少し、ほとんど男性で取り上げられるアニメ(アニメの中の少女の話なので)も、大体決まっている。
    主にすべての文章に使われていアニメは『美少女戦士セーラームーン』の一連のシリーズだ。確かにこの作品で、少女の少女による少女のための勧善懲悪というスタイルが、間違いなく確立され、そしてそれはお茶の間に違和感なく存在した。つい先日、アニメ主題歌ベスト50とかいうのがやっていたが、案の定上位に食い込んでおり、サザエさん、ドラえもんに並ぶ人気であることが確認できる。しかもしれは、アニメファン、マニアにとどまらず、少年少女にしっかり浸透したのだから、これは十分アニメ界への重要な功績であるといえよう。と、いうことをどの方も書いており、そしてそこからの展開が個人個人で違っており、それが読み応えありだった。

    コレに関しては読んだ感想と言うよりも、内容のまとめ的な描き方になってしまう。なぜなら、この『少女』問題というのは私的にもとても関心の高い分野であるし、この著書で書かれていた内容に対して少しばかり意見をしたいと思う。

    まず『美少女戦士セーラームーン』について。これまで、この作品が出来るまで、アニメの中で少女という生き物の存在というのは、あくまで物語の「華」であり、守られる「お姫様」であり、もしくは物語の合間に入れる「お色気」であり、また戦闘物というジャンルに於いてはハッキリ言って「お荷物」的存在であった。つまり、ただの飾り物、としてしか存在していなかったのだ。ただし、少女が主人公で活躍するというアニメは、もちろんこれより以前にもちゃんと存在しており、人気も博している。例えば『リボンの騎士』『ベルサイユのバラ』『エースをねらえ』『アタックナンバーワン』などの、戦い(スポーツもあり)もので、少女達が果敢に戦い合う姿を描く。また『キューティーハニー』などの、ちょっぴりお色気のヒロインから、魔法少女シリーズとして人気だった『美少女仮面ボワトリン』『ミンキーモモ』『クリーミーマミ』『ペルシャ』『マジカルエミ』などなど、沢山存在する。

    では、この『セーラームーン』以前、以後というのは、どういう変化が生じたのだというのだろう。コレについては、本書の中にも詳しく書かれていて、それに関してはあたしもなるほどな、と、感心している。今までのこの、戦う少女達、変身する少女達、というのは、実はコレといって目的をもって戦っていないのだ。よく分からない敵を前にして、何故自分が戦わなければならないのか、何故自分なのか、そういった事を追求せず、ただ流されるままに、戦う。つまり、ハッキリ言って、内容がない。もちろん、登場人物達の友情だったり愛情だったりする物語が描かれることは多くあるが、それはあくまで従来の少女漫画の流れに過ぎない。そしてそういうアニメを支持する層というのは、純粋なアニメオタクか、幼い少女達だけで、それ以外の所にいる人にとっては、単なる「オモチャ」でしかなかった。

    それが、『セーラームーン』の登場により、少女の存在そのものに、変化が生まれた。先ほども書いたが、今まで、アニメの中の少女というのは添え物にしかならなかった。華になれば良かった。可愛らしければそれで良かった。強いということは、求められていなかった。女は男に守って貰っていれば、それで良かった。それをぶちこわしにかかったのが、『セーラームーン』だったのだ。もちろん、当初そこまで意識していたとは思えないし、原作などは少女漫画の域を外れていない。しかし、このアニメに関しては、アニメ少女のあり方を根本的にひっくり返したきっかけとなった。少女だけの戦隊が組まれ、それぞれが個性を持ちそれぞれの魅力を最大限に表現した。
    その結果、何人もいる少女キャラクターに、それぞれファンが着き、今までのステレオタイプな少女だけではなく、沢山居るキャラクターの中それぞれに感情移入するファンが出来たのだと思う。それが、『セーラームーン』における最大の功績であると思う。

    さて、『セーラームーン』と同様にその圧倒的な世界観で、少女物に変化をもたらしたとされているのが『革命少女ウテナ』だった。これは『セーラームーン』とは趣向が異なり、自分の事を「ボク」と呼び、男さながらの運動神経と、そしてそのスタイルは女性でありながら、制服は男子用の物を着用する、という画期的な姿だった。いままでにも、男装の女性というキャラクターは、何度も作られてはいたが、それはあくまで脇を固めるキャラクターでしかなかった。ここでウテナが、スゴい台詞を言う。
    「ボクは守られるお姫様より、かっちょいい王子様になりたいの!」
    本書でも、この台詞についてはものすごい食いついていて、笑えるほどだ。サラッと聞き流してしまっても良いのではないかと思える一言だが、しかし、これにはどうやら深ーい意味が込められていると、感じ取ってしまったらしい。

    この本を読んで、ついつい原作を読みに漫画喫茶に飛び込んでしまったあたしであった。彼女の一人称は「ボク」、運動神経は抜群、セーラー服は着用せず上は学生服、下はスパッツという個性的なスタイルで、周囲からも性別を越えて好かれている。それでいて、幼い頃自分を救ってくれた男性を「王子様」と、慕っている。ここまでで分かることは、外観や性格では、まるで女性であることを否定しているかのように見えるのだが、その一方でしっかり女の子としての心を持ち合わせている、ということだ。そして、この物語でもう1人重要なキャラクターとして位置するのが、姫宮アンシーという、褐色の肌に眼鏡をした、可憐な少女だ。彼女は、ウテナとは全く正反対の所におり、逆らわず大人しく従順で美しい少女だ。それは、彼女の立場が男達の「商品」として常に、誰かの元に置かれるということからも典型的な「お姫様」として描かれる。そして、アンシーの行動の全ては、兄である暁生に支配されており、またアンシーは兄に対して、心から尽くすことに疑問を持たない。つまり、姫宮アンシーという存在は、今までの漫画やアニメ、ひいては現実の世界でも暗黙の内に続いていた、「女性のあり方」であった。
    ウテナは、そんなアンシーの存在に疑問を持ち、そんな風にしか生きられないアンシーを救い出したいと思う。アンシーを救う、それはつまり、ウテナが王子様となって、アンシー姫を救いたい、という思いだった。ウテナはアンシーを救うために、暁生と対決をすることになる。そこで、暁生にはウテナに常にこういう言葉を突きつける。「女の子は王子様にはなれない」。。。

    ここまで書けばハッキリと、この世界の言いたいことが伝わってくると思う。これまで何度も繰り返し読み継がれ、小さい内から聞かされてきた物語、それは「お姫様は王子様と出会って幸せに暮しました」という物語だ。シンデレラでも白雪姫でも眠り姫でも同じ事、そこにあるのは、王子様に助けて貰うお姫様の姿だ。それは、確かにいつの時代も女性にとって永遠の憧れであり願望である、がそこには欠けているものがあった。
    それが、ウテナが何度も口にしている言葉、「ボクは守られるお姫様より、かっちょいい王子様になりたいの!」である。いつまでも、受け身のお姫様役ではいられない、そこにいれば間違いなく幸せな結末待っており、その幸せは常に約束されていた。だから女の子は、王子様に抱かれるために、美しく従順な女性であるべく、努力してきた。
    しかし、それだけでは人間としての願望が満たされないということに、実はもう気付きだしていた。それは「自立と自己実現」だ。自分の力で、生きていくこと、自分の力で手に入れること、欲すること。それがいままでの女性には暗黙の内に、認められることがなかった。

    男生徒同様に、自分の生き方を選びことを貫くと言うことをするためには、女の姿を捨てるしかなかった。「ベルサイユのばら」のオスカルのように、最後の最後まで、男性として社会を生き、愛する者にだけ本性を晒す。しかし、ウテナはオスカルとは違った。男装といっても、女性だと分かる体型を隠すことなく、むしろ堂々とそのグラマラスな肢体を晒しており、髪も綺麗に伸ばしす。また、所々で出てくる何気ないしぐさは女らしく、従来の男性嫌悪を示すような女性の行動は見られない。そして何より、ウテナはちゃんんと、はっきりと男性に恋をし、彼に求められ、また求める気持ちもしっかりと持っており、それを隠すこともない。

    物語の最後の章になると、ウテナは王子としてアンシーを救い、ウテナに救われたアンシーは姫から王子に変わりウテナを救いに行く。しかし、それは単純に王子と姫の役割の交換ではない。王子=男、姫=女という図式から真っ向に対立した彼女たちの起こした行動は、「女の子は王子様になれない」といった暁生の言葉に対する反逆であり、「女の子は姫にしかなれない」と信じ切っていたアンシーの心を動かし、それによって人間としての役割というのは無限にあるという真実に近づく。

    以上がこの漫画から得たあたしの感想であるが、そういった内容も含めて考えるとさらにこの著書は面白くなる。まさに「少女革命」を起こしたアニメ、『少女革命ウテナ』。これが、現代に不満を感じてきた女性達の心に響いたのも、それは仕様がないことだと言える。『セーラームーン』で、自分たちの意志で戦うことが可能になることに気付いた少女は、さらに『ウテナ』で自分たちが戦うべき対象を見つけだし、自分たちにはそれを選ぶ権利があるのだと知ったのだ。

    本書でもう一つ挙げておきたい部分がある。「女は男にとって母か娼婦でしかない」という箇所だ。それは、もう、大変寂しい話だが、これほど適した表現はないと、ちょっと感動した。またこんな書き方をすると、反感を買うだろうが、あたしは現実は現実だと認めたいと思うし、この言葉はそれだけ説得力と現実感があるのだと思う。これはエヴァとガンダムを例に挙げて書かれていた文章にあったのだが、女が女として男に必要とされるには、母親になるか娼婦になるかを選ぶしかなくなる、追いつめられるのだと書かれている。
    しかしまぁ、そこまで劣等感を持ってしまうのもどーなのだろうと思うのだが、しかし、こういった認識を持っていると言うことが今後の発展につながるのではと、あたしは思っているし、特に男性陣にはこういうことに対して自覚して行動して頂かないと、迷惑である。
    あんまり読書感想になっていないな。

全4件中 1 - 4件を表示

著者プロフィール

斎藤環(さいとう・たまき) 精神科医。筑波大学医学医療系社会精神保健学・教授。オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(ODNJP)共同代表。著書に『社会的ひきこもり』『生き延びるためのラカン』『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』『コロナ・アンビバレンスの憂鬱』ほか多数。

「2023年 『みんなの宗教2世問題』 で使われていた紹介文から引用しています。」

斎藤環の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×