ヴィゴツキー 教育心理学講義

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制作 : 柴田 義松  宮坂 〓@59D0@子 
  • 新読書社 (2005年8月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (341ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784788041189

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ヴィゴツキー 教育心理学講義の感想・レビュー・書評

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  • ・「心理学は科学であり、教授は技術である。科学は決して技術を直接に生み出すことはない。論理学は、正しく考えることをいまだかつてだれにも教えたことはない。まったく同じように、科学的倫理学はだれをも正しく行動するようにさせたことはない。教育学と心理学は並んで進むもので、教育学は決して心理学から導き出されるものではない。両者は同価値のものであって、一方が他方に従属したことはない。まさにこのようにして教授と心理学は常におたがいが合意するべきである。しかし、そのことは、何らかの教授方法が唯一のもので、そのように合意されるということを意味するものではない。なぜなら、多くの方法が心理学の法則と合致することがあり得るからである。それゆえ、だれかが心理学を知っているとしても、彼が優れた教師でもあるにちがいないということには決してならない」―ジェームズ・W
    >>/> 技巧について本で知識を得られるけれど、実践とは少し乖離する。するのだが、そうか、生のartの良否を知りたくて本を読むのかな、きっと。

    ・アメリカの心理学教科書の一つに、一人の女教師の意味深長な話が引用されています。国民学校で地理を教えようとして、彼女は子どもたちにわかり易く、身近な、彼らの周囲にある畑、丘、川、平野についての知識を与えることから始めようとしました。しかし、それは子どもたちには退屈で、どのような興味も彼らに呼び起こしませんでした。問題は、前の女教師が、子どもたちに間欠泉の説明に興味をもたせるために、水のいっぱい入ったゴム製の穴のある球を持ってきて、それを砂山の中にわざと隠し、足で必用な場所を押して、水流が砂を通って吹き出し、子どもたちを狂喜させていたのです。彼女は、火山を説明する時には、噴火口に似せた砂の丘の中で硫黄に浸した綿に点火するということをしていました。
    この例で一つの興味を他の興味で代える間違ったやり方を見るのは容易です。最初の女教師は、疑いもなく子どもたちに生き生きとした興味を呼び起こすことに成功しました。しかし、それは手品、花火や浣腸器への興味であって、火山や間欠泉への興味ではありませんでした。
    …それゆえ、活動に対する子どもの注意や興味が、もし罰のおそれとか褒美への期待がその刺激となっているのなら、何の価値もありません。子どもが刺繍とか計算を熱心にしていても、私たちが子どもに発達させているのは、刺繍や算数への興味ではなく、子どもが褒美にもらう菓子への興味とか、罰として甘い菓子をもらえないことへの不安だと確信してもよいでしょう。本当の興味を見出したり、いつも興味が脇にそれず、何か他のものにすりかわることのないようにすることは、きわめて複雑な心理学的課題なのです。
    …興味形成の一般的心理学的原則は、つぎのようになるでしょう。対象が私たちに興味を起こさせるためには、それが私たちの興味をひく何か、私たちがすでに知っている何かと関連のあるものでなければなりません。それとともに、それは常にいくらかの新しい活動形式を内に含むものでなければなりません。そうでないと、無駄なものとなります。まったく新しいものは、まったく古いものと同様、私たちの興味をひかず、どんな対象や現象への興味も呼び起こしません。したがって、その対象や現象と生徒との私的な関係を打ち立てるためには、その学習を生徒自身の仕事とする必要があります。その時、私たちは成功を確信できるでしょう。子供の興味を通して新しい子供の興味へ―これが原則です。
    >>/> 難しくて、奥が深い。学校教育でこれが果たして可能なのか。九九を小学校低学年で習うけれど、子どもに既にある数と足し算の知識から九九への興味を引き出すとか。そもそも学習に興味を持っていなかったらどうしようもないし。

    ・ある心理学者は言っています。「二人の少女のうちどちらがより良い母親になるかを知ろうと思ったら、どちらが自分の人形とよりよく、より多く遊ぶかを見ればよい」。これによって彼は、母親的本能にとって人形遊びがもつ教育的意義を指摘しようとしたのです。人形遊びをするなかで少女が、死んだねずみと遊ぶなかで生きたねずみの追跡を学ぶ仔猫の場合と同じような意味で母親となることを学ぶと考えるのは正しくないでしょう。
    …人形と遊ぶなかで少女は、生きた子どもにすることではなく、自分を母親と感じることを学ぶのです。
    >>/> ああ、子どもの遊びのこの機能の違いは考えた事が無かった。

    ・従来の心理学と常識的な考えでは、感情における三つの契機を区別しています。第一の契機は、何らかの対象や事象の知覚、あるいはそれについての表象(強盗との鉢合わせ、愛する人の死についての思い出など)で、これをAとします。それによって引き起こされる感情(恐怖、悲しみ)をB、そしてこの感情の身体表現(震え、涙)をCとします。情動の経過の全過程は、A→B→Cであると推察されていました。
    …ジェームズは、感情についての通常の図式が、A→B→Cという順次性、すなわち、知覚、感情、顔の表情という順次性を規定しているのに対して、真の事態は、ジェームズが考えるには、別の定式、A→C→B、すなわち、知覚→顔の表情→感情、により一層当てはまります。
    …普通は、こういわれます。泣くのは、悲しんでいるからであり、殴るのは、いらいらするからであり、震えるのは、驚いたからであると。こう言った方がもっと正しいでしょう。悲しんでいるのは、泣いているからであり、いらいらするのは、殴るからであり、驚いたのは、震えるからであると。
    >>/> 著者はあるアメリカ人心理学の言葉も引いていて、面白い。握りしめた拳をむりやり開くと(パーにする)怒っていることができない、と。

    ・ギリシャ人は、哲学が驚きから始まると語りました。そして心理学的にも、このことは、あらゆる知識にある程度の知識欲の感情が先行しなければならないという意味において、すべての知識に関して正しいのです。興奮、無関心ではいられない契機は、どうしてもあらゆる教育活動の出発点とならなければなりません。
    >>/> 何故?→探究→エウレカ!

    ・ごく簡単な観察でも明らかになることは、何らかの強化された身体的活動を、複雑な知的操作と両立させることは困難だというこです。たとえば、部屋じゅうを速い速度で走り回りながら、複雑な課題を解決することは不可能です。また、何かの思考に集中しながら、同時にその間、力いっぱい薪を割るということはできません。どんな思考も、あたかも身がすくんで虚脱状態のようなものを呼び起こし、それ自体の性質から運動を麻痺させ、一時中止させます。だから、人は深く考え込んでいるときには常に立ち止まった状態になります。また私たちは何かに強く感動すると、必ず動きを止めるでしょう。このように、思考は運動であるとはいえ、それはどんなに奇妙であろうとも、同じ程度に運動の停止でもあるということ、すなわち、運動形態は、反応中枢のモメントの複雑化があらゆる外的発現を弱めて、ゼロにしてしまうような傾向の運動形態であることが確かめられています。
    >>/> 本当だ。感動を覚えながら、くらいなら歩く事は出来るけれど、その感動の内側に何があるか考えようと思うと、もう立ち止まらないとまとまらないかも。

    ・人間のする建設が、ミツバチの場合と異なる点は、人間は二回、建築するように見えることだけです。すなわち、はじめは思考において、そして次には実際に建築するのです。
    >>/> 人は二度死ぬ、という格言を思い出した。ということは、三度建築するのだ。自分の中で、実際に、そして誰かの中に。→これを思いついたのは、読んでいる時ではなくこの感想を書いている時。この文に目を惹かれて付箋を付けたのは、建築とその前の思考を二段階で考えた事が無かったからだ。思考と建築は不可分に感じる、今考えると。

    ・「教師は、多数の源泉から知識を引き出さねばならない。教師は、自分の求めることに合致し、生徒が知るべきことを知っているだけでは足りないし、夕方にそそくさと翌朝に生徒から出されるかもしれない質問への回答を準備するだけでは足りない。教師が与えねばならない知識の百倍も多くのことを与え得るものだけが、その知識を興味深い形式で伝えることができる。
    教師が何かの簡単な詩を説明するとき、彼がその文学をどれだけ知っているかによって、大きな差が生じる。理科の授業で教えることは、ちょっとした基礎知識に過ぎないかもしれない。それでもやはり、それらの知識は教師の眼前に現代科学の広大な展望が開かれていることを要求する」―ミュンスターベルグ
    このことは、歩行の過程と比較することができるでしょう。私たちは、ごく間近の数歩先だけでなく、数千歩先が見通せる時にのみ、自信をもって歩くことができます。
    >>/> 自分の知識に限界はあれども、出来うる本気でそのことに向きあって考えた、という確信から生まれる説得力はある。考え抜いて削って残った、残ったものに宿る力も。

    ・語られた思想、描かれた後継、記譜されたソナタは、それらの作者の不快な状態から生まれるものであり、再教育によってもっとも快適な方向にそれらを変えようとするものです。不快さの緊張がより高く、それと同時に人の精神的メカニズムがより複雑であればあるほど、彼の教育的高揚はより当然の打ち勝ちがたいものとなり、大きなエネルギーでもって前進することになるでしょう。
    …だれにも明らかなことは、精神活動に最初の動機を与える困難がより強ければ強いほど、その活動、教育、創造もより強くなるというのは悲劇的なことです。なにしろ常に「困難」やもめごと、不調和から出発するというのですから。生物学は目的論を知りません。世界の発展は不合理です。児童期は最大の悲劇、人間と環境の不調和、不一致の時期であるからこそ、児童期は教育の行われる当然の時期なのです。教育の音楽は、教育が解決しようとする不協和音から生まれます。私たちが年を取り、自分が生活によりよく適応し、より快適であると感じはじめるときほど、私たちに残る創造的精神はより少なくなり、教育がより難しくなるのです。
    「平穏な黄金の児童期」に砂糖をまぶし、ばら色の水で教育課程を甘くする教育学は、すべて私たちのものではありません。教育の最大の原動力は、飢えや乾きが生存闘争の激励者であるのと同じように、児童期の暗黒面であることを私たちは知っています。それゆえ、教育は、本当に「困難な」児童期の厳しい特徴をぼかしたり、ごまかしたりしないで、子どもがそのような困難とできるかぎり激しく、何度も立ち向かい、それに打ち勝つようにするべきです。
    人生は、創造、絶えざる緊張とその克服、行動の新しい諸形態の絶えざる結合と創造のシステムです。生活は、それをゆがめ、醜くする社会的携帯から決定的に解放されるときにのみ創造的となります。教育問題は、生活の問題が解決されるときに解決されるのです。
    …教育者には、無限に多様な創造的生活の無限な可能性が開かれます。教育者は、個人的事業、個人的生活の狭い範囲の中ではなく、未来の真の創造者となるでしょう。その時、教育学は生活を創造するものとしてもっとも重要な地位を占めることになり、新しい世代の精神生理学的形成という広い意味での教育学は、技術と並んで社会思想の王者となるでしょう。
    >>/> 科学的に正確ではないと思うけれど、美しい教育への賛歌。

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