ベンヤミンの迷宮都市―都市のモダニティと陶酔経験

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著者 : 近森高明
  • 世界思想社 (2007年3月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (275ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784790712503

ベンヤミンの迷宮都市―都市のモダニティと陶酔経験の感想・レビュー・書評

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  • ※以下は近森氏による「都市の無意識を歩く方法」ーアレゴリーの力 の感想。


    〇以下引用

    遊歩者の「陶酔」

    都市の記憶の深層に触れる行為としての陶酔的遊歩

    街路に残され、かつての出来事や生の営みを沈黙のうちに暗示する、痕跡としての断片的細部

    ベンヤミンの遊歩もまた、街路上に残された痕跡をひとつひとつ蒐集し、その痕跡に封印された意義を判読するなかで、表面的なアプローチでは到達しえない都市の深層に触れようとする

    ベンヤミンを魅了したのは、いまや時流から取り残された絶滅寸前のパサージュのなかでの遊歩くをめぐる夢幻的かつ神話的なイメージであった。人々に見捨てられ、忘れ去られいまや衰滅の間際にあるパサージュこそが、痕跡を求める遊歩者の特権的な舞台背景になる。廃物としてのパサージュには、革命的なエネルギーは含まれている

    鉄による最初の構成物、最初の工場、最初期の写真、すたれはじめた事物、サロンの両開きの扉、5年前の吹く。流行から取り残されはじめている優雅な会合用の店などのうちにあらわれる(古びたもののうちに現われる革命的エネルギーが)

    革命的エネルギー=過去と現在を短絡させ、衝突させることで、忘却の淵にある過去ー主流をなす大文字の歴史に押しつぶされ、抑圧された過去ーについての新たな認識を可能にし、同時に現在の覚醒をうながすような起爆力

    長い時間あてどもなく街をさまよった者はある陶酔感に襲われる

    遊歩者が街路を彷徨するなかで出会う謎のイメージは、都市の忘却された記憶が、歪曲されたかたちで露呈している痕跡という理論的位置を担う。痕跡の歪みのうちに封じ込められた「過去についての未だ意識化されていない知」を現在において読み時、目覚めさせ、解き放つことにより、現在そのものの覚醒をうながすこと

    受動的で、無防備で、容易に翻弄されるような状態にあって、対象との距離をなかば喪失し、存在の輪郭が緩んだ危うい瞬間にこそ、瞬くような都市の相貌をつかみとろうとすること。

    言語のこつ透明な記号的側面に抑圧され、隠蔽されている、文字の物質性の次元にこそ、忘却された原初の直接性の残滓が認められる

    文字像をながいあいだ凝視していると、しだいに意味の裏付けが失われ、その文字の図僧としての側面が遊離し、独立した実質をそなえて浮き上がってくるように、言葉から充実した意味が排出されたところに謎めいた暗号を発するイメージが出現してくる

    とするなら、ベンヤミンの遊歩者にとって、都市を読むことは、たんに都市を書物のように読解するという態度を意味するのではないだろう

    意味を排出したあとの言葉の亡骸、残り、抜け殻でありながら、しかもなお何ごとかを意味する謎のイメージとして作用するものである、それゆえイメージというごく単純そうに見える概念は、言語の物質性という問題系列に並ぶ、痕跡や象形文字、判じ絵と同等の、独特の位置価をもつ概念として受け取る

    ベンヤミンの遊歩者が、街路に痕跡を求めているのだとするとき、そこで実現されている「読むこと」とは、どのような事態なのだろうか。そこにはある特異な次元に属する読み方が発動している。つまりベンヤミンが言語哲学の文脈で検討していた、太古の人間や子供に特有のミメーシス能力にかかわる読み方である。

    ミメーシス能力は、衰退したようにみえながら、じつは変容をこうむっただけであり、現在でもある特定の領域で保存されている。その領域は、言語と文字

    ベンヤミンによれば、舞踏や星座、内臓から「まったく書かれなかったものを読む」というのが言語以前の読み方であり、このように舞踏や星座、内臓から、ミメーシス的に読み取られる類似性、即ち感性的な把握を超えた「非感性的類似」の次元でこそ、太古のミメーシス能力は、言語や文字の領域に受け継がれている。

    ここでいわれる非感性的類似とは、言葉から意味が抜き取られたあとの物質的な残骸が、なおも暗号めいた意味を発する時、そこに一瞬だけ瞬く類似性にほかならない

    通常では言語の記号的側面に抑圧されているミメーシス的な側面が、ふとした瞬間に前面に迫り出してくるとき、非感性的類似の次元が立ち現れる。ちょうど占星術師が星の配置という感覚的なものから、将来の運命という非感性的なものを読み取るように、意味を欠いた物象としての言葉、あるいは痕跡や象形文字、判じ絵、痕跡、夢の形象から何ごとかの意義がミメーシス的に読み取られるとき、そこには非感性的類似の次元が開いている。それはかつて人間と自然tのあいだにいきいきと実現されていた魔術的交感の名残なのである

    遊歩者が街路上で痕跡に出会い、その謎めいた意義を判読しようとするとき、そこには非感性的類似をミメーシス的に読み取る、太古の人間の読み方が回帰している。言い換えるなら、痕跡を判読しつつ陶酔する遊歩者のもとには、「まったく書かれなかったものを読む」という「最古の読み方」が回帰している

    街路上に残された痕跡をもとに、忘却された過去を想起する行為としての遊歩

    街路は、この遊歩者を遥か遠くに消え去った時間へと連れてゆく。それが彼自身の個人的なそれでないだけにいっそう魅惑的なものとなるはずだ。にもかかわらず、この過去は、つねにある幼年時代の時間のままである

    これらの断片的イメージが、ある有機的な全体連関から脱落した、謎のイメージとして立ち現れている。つまり、それらは充実した意味が抜き取られた痕跡や象形文字と同様、ミメーシス的な判読を誘いかける歪みを含んだイメージとして現出している

    個人の記憶と集合的記憶とは、経験の深い層で結び合う地点で、互いを媒介するイメージをつかまえることが肝要

    過去の喚起は、しいてこれを求めようと求めようとするのも無駄であり。理智のあらゆる努力も無益である、過去は理知の外、その力の届かないところで、何か思いがけぬ物質的な対象の中に隠されている

    無意識的記憶の構成要素になりうるのは、はっきりと意識をもって「体験された」のではないもの、主体に体験として起こったものではないものである

    過去を現在に侵入させ、閉塞した自我を賦活しようとする現前化の方法

    意識を弛緩させたなかば夢遊状態=太古の人間や子供に特有のミメーシス能力が活性化する領域

    その痕跡の歪みに含まれる謎をミメーシス的に読み取る陶酔状態のなかで、忘れられた都市の記憶の深層に触れようとすること

    森のなかでまよう者は、ある些細な物音やふとした光や影の移ろいがことごとく何ごとかの兆候であるように感じられる。周囲のあらゆる事物から、暗号めいた、秘密のシグナルが贈られているように知覚される。そのように徴候がささやき声を交し合う森へとありふれた日常を街路空間に変貌させることが、ベンヤミンの称揚する迷うことの技術

    都市は、遊歩者のもとに、謎めいた迷宮としての相貌を垣間見せる

    痕跡のミメーシス的判読にあっては、その痕跡が含む歪みを解読することにより、痕跡を生み出した当のもの、痕跡の背後にあるオリジナルへと到達することが目指されているわけではない、

    痕跡の判読に置いては、むしろ歪みへと自らを同一化し、身をまかせるなかで、その歪みに織り込まれた過去の厚みをまるごとなぞるような態度が必要となる。ちょうど判じ絵を相手にするときには、隠された図形を読み取ろうと意識を集中させるのではなく、むしろ意識をなかば拡散させた状態で眺めることにより、急に図と地が反転し、思いがけない図柄が畫年二あらわれてくるように

    ありえたはずの過去、ありえたかもしれない過去、可能なる過去の数々を想起する

    迷宮は逡巡する者の故郷である。目的地に着くことを恐れる人のたどる道は、容易に迷宮を描くだろう

    街路に痕跡を収集し。その謎を判読する中で、可能なる過去の数々を想起する

  • 私にしては珍しく新刊で購入した本。近森氏は最近『自動車と移動の社会学』の訳者として知ったくらいで,以前から着目していた研究者だというわけではなく,かといってベンヤミンものは読むようにしているというわけでもない。前から宣伝していて一向に書き上がらないオースター『ガラスの街』論に対して重要なヒントを与えてくれると期待して購入したのだ。
    確かに私もベンヤミンには興味がある。といっても,晶文社の『ベンヤミン著作集』を12巻までと,『教育としての遊び』くらいしか持っていない。ベンヤミン本も,アドルノの『ヴァルター・ベンヤミン』と好村冨士彦『遊歩者の視線』くらいしか読んでいない。後は『ユリイカ』と『現代思想』のベンヤミン特集を持っているくらいか。地理学者にしては『パサージュ論』すら持っていない。『10+1』に書いた泉 麻人論では偉そうにベンヤミンを冒頭に使ってみたが,その理解は本書の著者の足元にも及ばないと思う。というのも,翻訳されたベンヤミンの文章は,部分的に面白いと思うことはあっても,その多くは苦痛にすぎないからである。難解といってもデリダのようなわけがわからなくても面白いとか,もうちょっと知識が増えれば理解できるといった感触があまりなく,単に活字を追っているだけということも少なくないのだ。でも,一つだけいえることは,ベンヤミンのいうところの「遊歩=フラヌール」という概念が重要だということがわかるのだが,それがどう重要なのかは,好村氏の著作を読んでもはっきりとはしなかった。そういう意味では,従来のベンヤミン研究における遊歩者論に違和感と不満を持っていたという著者の出発点の一部は共有していたといえようか。といっても,ベンヤミンを原語のドイツ語で読み,ベンヤミンの英文研究書も読みこなしている著者とはその問題関心は雲泥の差であるわけだが。また,「遊歩者」は近代特有の主体像の一つだというのが定説なのだが,ベンヤミンはその近代理解も複雑にした一人だと思うので,近代特有のといってもイマイチピンとしないのもベンヤミンを読みにくくしている原因の一つだと思う。一昔前のポストモダン論は,その批判対象としてのモダン=近代を仮想的として分かりやすく理解させようとしていたし,ギデンズが『近代とはいかなる時代か?』で前近代と対比させて説明する近代もとても分かりやすい。しかし,「古典主義時代」という時代区分を持ち出すフーコー『言葉と物』などとともに,ベンヤミンなどを読むと,近代とはいったいなんなのか,明確ではなくなっていく。
    まあ,ともかくこれだけ徹底したベンヤミン研究はなかなかないと思う。とても理解し易く読み応えのある本だった。本書は彼が京都大学に提出した博士論文をもとにしたもので,初めての単著だという。徹底したベンヤミン研究と書いたが,それは網羅的なものではなく,都市研究に関連する論稿だけに限定して,深く解読したものである。以下のような構成で論は展開する。

    序章 観察者から陶酔者へ――遊歩者と都市のモダニティ
    I 都市・テクスト・迷宮――ベンヤミンの都市論テクスト
    II 陶酔・夢・無意識――フロイトとベンヤミンをつなぐ継承線
    III 街路名の理論のために――ベンヤミンにおける言語・記憶・都市
    IV 〈ガス灯〉の神話学――過渡期の技術をめぐるアウラとノスタルジー
    V 人形の街――商品フェティシズムとフロイト的読解
    VI 〈迷宮〉の解読――痕跡・古代神話・致死的反復
    付論

    全体的な印象は,自らが本書を「理論的考察」と呼ぶように,非常に緻密で,気になったところは徹底的に突き詰めるという非常にストイックなもの。それが本書の最大の魅力であるが,ちょっとした難点であるともいえる。そもそも,私がベンヤミンにどっぷり浸かれないのは,彼の関心が多岐にわたるのと同時に,自身の思想・主張・文体にそれほど一貫性を追及していないからではないかと勝手に想像している。だからこそ,ベンヤミンへの関心は現時点でも長い間継続的に行われ,各研究者が独自のやりかたでベンヤミン論を展開しているのだと思う。そもそもにして,未完の『パサージュ論』は断片たる文章の寄せ集めだというし。本人が自らに一貫した人物像を与えられることには抵抗するのではないかと。でも,本書ではそのベンヤミンの文章を,フロイトの学説と関連付け,もちろんそのなかで無意識にも言及するわけだから,本書の著者が無意識によって人間主体は一貫性を保つと仮定してるのかもしれない。
    まぁ,私がそんな指摘をしてみたところで,本書の魅力は一向に失われないし,むしろまだ本を一冊も出していない私の負け惜しみにすぎない。本書はベンヤミンの遊歩論がこれまで観察者としての側面ばかりが強調されるのに対し,章の表題にあるように「陶酔者」としての側面からアプローチしようという試みである。観察者というのはある意味典型的な近代的主体で,男性の有閑階級という特権的な立場を強調するものであった。それに対し,陶酔者というのは近代的な理性とは程遠い,歩くという行為に陶酔し,それは同時によく知った都市のなかで迷子になるような経験(迷宮としての都市)をも,遊歩者というベンヤミン的概念には含まれると著者はいう。まあ,ベンヤミンの日本語訳には『陶酔論』(晶文社)という論集もあるくらいだから,陶酔という概念でベンヤミンを捉えるのは決して突飛なことではない。しかし,再三書いてきたように,著者はそうした発想を単なる思い付きとして終わらすのではなく,そこにフロイトの議論を挟み込むことによってベンヤミンの記述の断片を一つの一貫した論理によって結びつける。しかも,フロイトの議論は単なる精神分析的なものでなく,フロイト自身が様々なものに関心を持っていたように,考古学的な古代への関心へと結びつけ,古代の迷宮神話へと議論は展開する。
    こうした本書の全体的な論の展開の見事さに加え,私のオースター研究にも関係するヒントがいくつもあった。街路名の話や,デリダ的概念だと思っていた「痕跡」のフロイト的意味合いなど。ついでに,さきほど挙げた好村氏のベンヤミン本のなかにも使えそうな箇所を発見する。ということで,かなり収穫のある読書だった。
    ちなみに,付論は本書で論じたベンヤミンの都市論を概観する前半と,都市研究で参照されることの多いド・セルトーとルフェーヴルの議論と関連付けようというものだが,本論に比べあまりにも著者のメモ的書き方だし,言い訳がましいところがあるので,いらなかったかもしれない。

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ベンヤミンの迷宮都市―都市のモダニティと陶酔経験の作品紹介

遊歩者が、街路に迷い、陶酔するとき、ガス灯の光や、娼婦のイメージに誘われるように、抑圧された都市が、無気味な"迷宮"として、回帰する。ベンヤミンのテクストの再解釈をつうじて、「観察者」と「陶酔者」のはざまに、精神分析と都市論の理論的接合を試みる。新進気鋭の社会学者による意欲作。

ベンヤミンの迷宮都市―都市のモダニティと陶酔経験はこんな本です

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