ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて)

  • 世界思想社
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  • Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784790715719

作品紹介・あらすじ

失われたモラトリアムを求めて。ひきこもり、ニート、腐女子…現在を生きる若者たちに何が起こっているのか?いまや忘れられたモラトリアムという概念に新たな光をあて、若者たちの心理と彼らを取り巻く社会の両面から迫ることで、ポスト近代の青年期のリアルなあり方を探る。

感想・レビュー・書評

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  • 【要約】
    第一章
    フォーディズムからポストフォーディズムへの移行(少品種大量生産から多品種少量生産への生産体制の移行だけでなく、雇用の不安定化や労働量の増加なども指しているのだろう)に伴い、かつて若者のモラトリアムと呼ばれた人間形成の時期がもはや社会的に認められなくなっていく過程を明らかにした。
    そして現在の若者たちが学生時代からすでに市場経済的価値観に飲み込まれていたことに加え、自己確立の場が社会的領域から心理的領域へと移行し、次第に目に見えないものになっていく状況を示した。

    第二章
    モラトリアム消失の背景として、1980年代以降の産業構造の変化と自由主義政策の中から「排除型社会」が浮かび上がり、その背景にある「リスク管理」への志向と相まって若者のメンタリティに大きな影響を与えていることを考察した。

    第三章
    ひきこもりの若者たちの事例を通じて、彼らが社会に包摂されることを願えば願うほど社会から排除されていくというジレンマがあり、そこには「スティグマ化」と「トラウマ化」という心理的プロセスが認められることを明らかにした。

    第四章
    「若者ミーティング」を事例として、ひきこもりの若者たちが直面している問題が、モラトリアムのための時間と空間の消失であること、その回復の道が具体的な人間関係における「承認」のうちに求められていることを考察した。

    第五章
    「腐女子」の事例を通じて、彼女たちのメンタリティの根底に少子社会における現実の脱構築の志向とともに、排除を恐れる若者たちの同質的集団への希求があることを示した。

    第六章
    戦後の若者たちのモラトリアムの変容(古典的モラトリアム→消費社会型モラトリアム→ポストモラトリアム)について、若者の内面、とりわけ彼らの主観性を規定している時間と空間のあり方に着目し、その歴史的変化を考察した。
    そこで浮かび上がってきたのは、古典的モラトリアムにおいて求められた自己アイディンティティの核心である「自己の物語」とそれを物語る「自己」が今や不可能になったことである。さらに、かつての「成長」が「ペルソナの交換」へ、「人間形成」が「人材開発」へと意味が変化したことを示した。
    「自己の物語」の喪失は、近代社会の「大きな物語」の喪失と深い部分で結びついている。

  • 「引きこもり」「腐女子」…殊更異端視されやすい若者の性質は、実は古典的モラトリアムが(主に経済・教育)制度的に押しつぶされ、高度成長期以来の消費社会型モラトリアムがいまだに苦しみを生み出している、現代という時代の移し鏡である。そしてまた、そこには「ポストモラトリアム」の中で世界と入れ子になった自己を描いていく、現代ならではの青年期の姿の萌芽を見てとることが出来る。

     上掲のような若者の臨床記録として興味深く読めるだけでなく、モラトリアムという概念が戦後日本の中でいかなる意味を表象していたかを丹念に追いかけているところにこそ、本著の面白みはあると感じた。登場する各理論の奥まりを犠牲にしているかわりに、ひとつの概念「モラトリアム」をめぐる議論の丁寧さとアプローチの多様さは出色。徹底的な思考と実践によりこれだけの考察が展開出来ることを、力強く示していると思う。


     ところで全然本筋とは関係なく、本著の価値を貶めるものでもないのだけれども、「『大きな物語の終わり』という大きな物語」を誰か早いところ解体して欲しいという思いは、どうしても消えない。

  • 激ヤバ鬼マスト!名著です。

    人は何故「ニート・ひきこもり・ぼっち・精神障害(当てはまるものをどれか選択・複数選択可)」になるのか、学術的考察だけにとどまらず常に現実の青年たちを「救助」し続けた彼らが結果的に得た副産物としての学術的結論は、ポスト・モダンと「大きな物語」の問題の解決策だった。答えは「地図」にある。

    副産物としての地図は確かに非常に重要な結論だが、何と言ってもこの弱者的若者達の思考チャート・考察は凄まじい説得力があり、実際に選択肢のうちの「ぼっち」を経験している私にも「これは私だ」と言える点が大量に思い当たり、実学として人々を援助し続けた彼らの実績の重みには深く尊敬の念を覚えた。

    ■『さらにそれらの問題が起こっている領域から考えると、地域や学校外から考えると、地域や学校外から学校間、学校内、教室内、家庭内…というように、一定の方向に向かっていることに気付く。つまり問題が出現する場所が、しだいに狭い領域、限られた領域へと向かっている。』

    ■『社会的問題から心理的問題へ』

    ■『サポステに漂着する若者はいわゆる「ニート」とよばれる人々であり、その多くは「ひきこもり」を経験している。また現在ひきこもっている若者の両親が相談に来る場合もある。これらの若者たちは、そこにたどり着くまでに様々な傷つきを体験しており、心身ともにボロボロになっている。疲弊するまで相談機関を訪れないのは、彼らの多くが自分で問題を解決しようとして、いたずらに時間を過ごしてしまうからである。また、彼らは働いていないことについて過剰な罪悪感を抱いており、相談機関を訪れると自立していないことを責めれてさらに傷つくのではないかと恐れるからであり、あるいは他者に援助を求めることを自己管理の破綻と考えるためである。ある意味では「ひきこもる」という行為は過剰に自己責任にとらわれた結果であるといってよい。それは誰にも頼らないで態勢を立て直そうとする試みであり、それ異常自尊心を失わないために自己管理に専念した結果であるといえる。しかしこの戦略をとった場合、社会とつながるための選択肢は徐々に失われていき、やがて身動きの取れない状態に陥らざるをえないのである。』

    ■『ひきこもりを体験した若者たちと接していて驚くのは、異口同音に自分のことを「ふつうではない」と述べ、過剰に否定的な自己像にとらわれているということである。(略)今風の若者であるにもかかわらず、彼らは自分のことをふつうに見えないと確信しているのである。(略)彼らはみずからを「宇宙人」「変人」「外国人」などと表現することがあることから、彼らが自らを異質であると感じる感覚の深刻さが伺われる。ある女性は、カウンセラーである筆者たちのひとりが彼女を安心させるために微笑んだのを嘲笑して受け取り、「やっぱり私はおかしいですか?」という疑念にとらわれていたことがあった。また、みずからのことを異質な存在であると認識している若者たちには、「キモイ」という言葉によって傷つけられた経験を語る人が多い。「人を捨てるような言葉」と評した男性もいたように、この「キモイ」という言葉は合理的な理由なく存在価値を否定するものであり、異性からこの言葉を浴びせられる体験はつらいものであることは想像に難くない。中学校時代に女子生徒から「キモイ」と陰口をささやかれていたという男性は、現在でもその年代の少女が苦手であり、彼女らのまなざしをいしきすると全くの自己喪失の状態に陥ってしまう。』

    ■『しかし、実際のところ彼らの多くは、外部と接触スキルを有しているし、知識の面では並々ならぬ情報量をもっている人も稀ではない。にもかかわらず、彼らは知識を蓄積していることに対して「ひきもっているからあたりまえ」と卑下したり、人によっては情報収集癖こそ恥ずべき思考であると思っていることさえある。彼らにとっては自己が否定されることこそが自明の理になっているのである。』

    ■『もちろん、彼らの反復する外傷体験は現実に根拠があるものであるが、彼らが語る体験の全てが現実に起こったものであるかどうかは慎重に検討する必要がある。(略)というように後から外傷体験を発見する場合も少なくない。そして過去における外傷体験と現在自分が追い込まれている状況とが追い込まれている状況とが関連付けられ、「外傷体験のせいで現在の状況に追い込まれた」という語りの枠組みにとらわれていってしまう。(略)時とともに解消されていくのではなく、修正不能のものとして再構成され続けていく。彼らは、いわば再帰的に「外傷体験」を構成し続け、非現実化された「過去の亡霊」に呪縛されていき、「あのとき」に排除された「異物」としての自己蔵にとらわれていくのである。』

    ■『彼らが外傷体験の語りに固執してしまうのは、それによって自尊心が保証されるという側面があるからであると思われる。』

    ■『「外傷体験さえなければ、本当はうまくいっていたはずである」という考え方によって「異物」としての自己像を払拭し、条件付きではあるが「完全な自己像」をつくりだすことができるのである。

    ■『一方では外傷体験そのものを忘却したいと願っているが、他方では空想の中で外傷体験を克服することに没頭し、結果的に外傷体験に過剰に意識的になっていくという悪循環が生じる。』

    ■『P80図6トラウマ化のプロセス』
    この図があまりにも見事

    ■『近年の社会的排除には、みずからの安全を確保するうえでリスクになりそうな人々を関係のなかに入れないこと、いわば「放置する」「無視する」という本質的な特徴がある。(略)脅かされるというよりも、無視され、放置されている。このような現代的ないじめでは目に見えない力で孤立させられていき、やがて「存在しないほうがよいもの」という自己認識にいたるのである。』

    ■『否定され無視されるという経験にさらされ自己信頼を大きく損なってしまった若者たちが、「どんな話であっても否定されることなく、自分の話を聞いてもらえる」という経験、すなわち理由の如何を問わず自分自身の存在それ自体が承認されるという経験をすることを可能にしている。』

    好きな事が好きな様につぶやけるはずのツイッターでさえ、自分のバカッターを発揮するのではないかと思い恐ろしく好きなことが言えない。本当に好きなことをやっていたはずの同人業界の互いの空気の読み合いも凄い。

    ■『(腐女子について)しかしこの種の仲間関係には、趣味が共通することで簡単につながれる一方で、趣味が違ってしまえばそれまでという側面がある。グループの熱狂の対象が移り変わるに従って話題も移ろっていき、話題に共通する部分がなくなるに従ってその仲間とは疎遠になっていくのである。つまり、彼女たちの仲間関係には、話題を共有できる相手に対しては過剰に受容的である一方、話題が合わない人々に対しては過剰に排他的であるという両極が存在する。(略)この種の共同性は、刹那的で流動的であるという特徴をもつ。』

    腐女子のカップリング決裂は確かに象徴的ながら、これは男オタク・音楽コミュニティにもとてもあてはまるとがあると感じます。

    ■『(腐女子について)ここで重要なことは、彼女たちが恋愛に対して幻滅しているのではなく、むしろ過剰な理想を抱いているという点である。』

    ■『「ポストモラトリアム」になると、若者たちは海外に旅行する必要を感じなくなっていく。その過程で、青年期の「放浪」が意味を次第に失っていった』

    ■『P182 図11 ポストモラトリアムの「空間なき空間」』

    ■『全体社会を維持する一個の歯車でいるよりも、市場という弱肉強食の自然状態の中で個人的能力を存分に発揮することが礼賛されはじめた時代でもある。さらに時代が進み現在にいたると、もはや社会は各人の自己保存を保証しなくなったことが明白になる、社会に対して自己保存にかかわる要求をすることは「甘え」として切り捨てられるようになった。』

    ■『そこでは近代の「我思う」存在としての「自己」さえ、もはや最初から存在する絶対的なものではなく、たんにそのような存在として特定の状況なかで構成されたものでしかない。それよりも、自己の経験を通じて世界を構成し、あるいは世界に経験されるものとして自己を構成することをつうじて、つねに新たな自己を産出するために、「地図」を描くことが重要なのである。』

    ■『他者たちとの親密な関係を構築することを通じて、自分自身の「地図作成」を試みつことによって、既存の社会に自己を埋め込むのではなく、自己の「地図」を中心とする新たな社会を構成しようとしている。そこで作られつつある空間の「地図」は、かつての古典的モラトリアムにおいて追い求められ、消費社会型モラトリアムにおいて商品化され、ポストモラトリアムにおいて失われた「物語」に代わるものである。』

  • 以下のエントリーを興味深く読んだので、こちらに記録しておくものである。
    http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20130601/1370136347

    上記エントリー内で、読む気を喚起された部分を引用しておく。
     ”そこから導き出される結論は「再帰性の内面化」である。再帰性とはすなわち「自分はどうか?」という問いかけが自分に飛び掛ってくる頻度のことで、たとえば教室で誰かが人をバカにしたとき、笑いながらも自分はどうか?彼にバカにされる領域にいないか、自問自答する経験は誰しもがあるだろう。

     メディアなど種類や語り口が変わることで自問自答の頻度、すなわち再帰性は格段に高まった。”

    わたしは若者期を終えてしまい、その頃の苦しみに拘泥することもなくなって、とまどいを肯定する生き方を選んでいる。それがどうして若者論を読みたいと感じるのかと言えば、結局これもまた、弱さへの同情なのだろうか。それとも、珍しい生き物についての洗練された図鑑を眺めたい気持ちの延長なのだろうか。

    いずれにしても、ちょっとした好奇心でミイラ取りがミイラになるような真似は避けたいものだ。

  • 新着図書コーナー展示は、2週間です。通常の配架場所は、3階開架 請求記号:371.47//Mu56

  • 就職のためには資格取得、資格取得のためには単位の取得、単位の取得には真面目な勉強――だってこの世はリスク社会だもの。

    読みやすく、また丁寧な説明・考察の一冊。

    第一部では青春もののドラマの変遷を通じて時代ごとの若者のありようの変遷を追い、現在若者が置かれている状況について考察。フォードシステムからパイプラインシステム(それなりの学校を出ればそれなりの人生、学校教育制度における人間の選別)、肥大化した消費者の自己と矮小化する労働者の自己に引き裂かれて行く変遷を追い(一章)、ハイモダニティ化した(特に若者を取り巻く)現代社会の有り様を描く。

    第二部では「スティグマ化」と「トラウマ化」という視点を通じて、引きこもり・腐女子という、どちらかといえば日の当たらない場所にいる若者に焦点をあてる。また、「スティグマ化」「トラウマ化」して傷を負った自己信頼の回復の場の例として若者ミーティングを取り上げる。

    第三部では若者と社会とのかかわり方の変遷を「旅」の例えを通じて追う。バックパッカー型の旅行(彷徨? 成長型)が容認されていた社会から、パック旅行型(の中でも団体旅行→個人旅行へ。スマートだけどミスが許されない。ペルソナ交換型)へと社会が変化し、それに合わせて若者のありようも変化しているのではないかと論。第二章で扱われている若者とは対照的な(故に主流と感じられる)若者に焦点。

    終章でルソーの社会契約論が語られていたのが興味深かった。

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著者プロフィール

1970年生まれ。臨床心理士。現在、札幌学院大学人文学部教授。共著『ポストモラトリアム時代の若者たち 』

「2018年 『中井久夫との対話 生命、こころ、世界』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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