解明される意識

  • 青土社
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  • Amazon.co.jp ・本 (638ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784791755967

作品紹介・あらすじ

デカルトにはじまる物心二元論の時代は終った。意識の説明は、進化論とコンピュータ・サイエンスのドッキングを通じて、ここに一新する。先端諸科学の成果を背景に、ヘテロ現象学、意識の多元的草稿論、自己および世界についてのヴァーチャル・リアリティー論など、新しい哲学的見取図を提示し、意識の生成・進化・展開の解釈に画期的地平を拓く。認知科学の最新の成果を結集。

感想・レビュー・書評

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  •  著者は人間の脳を並列処理型コンピューターに例えているが、今ならインターネットに例えるのではないかと思われる。脳内には数多くの小人(インターネットならスマホをいじっている人)が住んでいて、意識の断片としての候補になりうる主張をうるさくしているのだが、そういった断片の中でも最終的に意識を構成することになるのはごくわずかである。こういった意識の断片が意識を構成するプロセスは私にはよく理解できなかったが、ある種の脳内ソフトウェアがこのような機能を担っているのだろう。このような脳内ソフトウェア(ヴァーチャルマシン)はミームを通じて急速な進歩を遂げた。インターネットはまだ意識を備えてはいないが、このような意識を形成するソフトウェアが進化によってもたらされたことを考えると、そう遠くない将来意識を持つようになるのではないかとも思える。実際人類が意識を獲得したのもつい最近のことなのだから。著者は意識を解明することがパンドラの箱を開けることにはならないと強く主張しているが、インターネットこそパンドラの箱だったのかもしれないと思った。

     後半は意識に関する哲学の有名な問題(哲学的ゾンビ、中国語部屋、コウモリの意識)について多元的草稿理論である種の回答を与えている。中国語部屋の実験背景が分かりづらく、ウィキペディアに教えていただいた。
     

  • 「心の哲学」界隈でもっとも顔の広い哲学者デネットが、当時の脳科学、進化生物学、認知科学、哲学などなどを彼自身が提唱する「多元的草稿モデル」にのっとるかのように多元的、学際的に取りこんで書いた初期の意欲作が本書だ。

    ハードカバーの上下段印刷で550ページほどの本書の見てくれはなかなかいかつい。
    だが外ヅラに比して中身のほうはというと、市井の人からアカデミックな人まで両者を結びつける交差点となるような平易な文体を心掛けて書かれており、哲学的エッセイとでも言えそうな思いの外マイルドな作品に仕上がっている。
    軽妙なユーモアと知的なおしゃべりにつられ、どんどこページを繰ることになるのだが、その書きっぷりの意図は多くの人々の抱く「意識」や「心」に対しての共通イメージの哲学的問い直しにある。

    デネットが相手どろうとするデフォルトイメージは「カルテジアン劇場」。
    カルテジアンという言葉は近代哲学の父デカルトのラテン名「レナトゥス・カルテシウス」からきており、デカルト主義者のことを指す。デカルトが先鞭をつけたコギト(理性、思惟、意識)の哲学、精神と物質の二元論に連なる者たちのことだ。
    しかし実のところカルテジアンに限らずとも近代以降の多くの人々の底流には、カルテジアン的心身二元論のフレームワークが稼働しているとデネットは述べる。
    物質としての身体が外界の刺激をインプットし、それら「現象」を眺める中央機関としての「意識」が脳の中にある。それはさながら次から次へと舞台上に現れる像を観劇しているかのように展開する。
    観客は?物質ではない何か、心?魂?意識する私?歴史上様々に言われてきたが、ともかくそれら脳の中の中央集権的ホムンクルスの存在を暗に仮定するイメージ群を総称して、デネットは「カルテジアン劇場」と呼ぶ。

    「カルテジアン劇場」が一個の支配的イメージであるように、これを批判するにあたって彼が用いる武器も概念というよりいくつかのイメージである。
    そのうちの一つが「多元的草稿モデル」だ。
    これは情報が一か所に流れ込み処理されるCPUのような「意識」モデルに代わり、身体の様々な器官(もちろん脳も含む)が処理する情報の解析結果=草稿が百鬼夜行のように織りなされるというモデルである。
    そんな百鬼夜行の並列的プロセスから生まれる自己意識はデネットに言わせると「物語的重力の中心」とされる。
    覚めた意識としての私(ホムンクルス)が物語を生み出すのではなく、それぞれの重みをもった物語の所産ー多様な器官による情報処理のフィードバックーが意識としての私という重力の中心を生み出すのであって、決してこの逆ではないと考えるわけだ。

    このような意識は決して連続的ではありえない、複数の断片が空間的にも時間的にも交互に織りなされ、ある時は重力の中心となったとしても、次の瞬間には別の断片が中心となっているかもしれない。ある本を読む前の「私」と読んだ後の「私」は果たして同じなのだろうか?目の前のバナナを食べる前と後とでは?

    フィードバック、これがミソだ。つまり世界と自己との関係から得られる行動結果が物語としての私を新たに紡いでいく。
    考えてみれば固定的な自己を維持し続けるよりも、柔軟性と多元性をもって世界との関係を更新し続けられる個体のほうが生存には有利だろう。人間はその極地にいると言ってもいい。
    金曜日、8時間もの間デスクワークをしていた同じ個体が次の日には、1日中フットサルに勤しむことだって出来る。ここまで行動を柔軟に変えることの出来る生物は他にいないだろう。あろうことか場合によっては巧妙に嘘をつきフットサルをドタキャンした挙句、それでいて罪悪感をちゃんと感じながら家に引きこもりNetflixで海外ドラマをいっき見することだってできるのだから。

    デネットは人間の脳という並列処理のハードウェアの上に直列処理のソフトウェア=意識が乗っかっていると考える。この見立ては一見、かなり不合理に思える。超高性能のマシンを使って旧時代のソフトウェアを走らせているようなアナクロニズムの感が拭えないからだ。
    しかしよくよく考えてみると、並列的に情報を処理できる優れた器官が複数あったとしても、最終的に意思決定を行い、行動を起こすことができるのは一つの身体である。
    そのため個体は意思決定のための何かしらまっとうで筋の通った物語を一本に撚り上げることが必要となる。これが「物語的重力の中心」としての私だ。
    ここで生成される物語は何よりも生存ー行動するためのものである。もちろん行動の意図を問われれば答えを返すことはできる。しかしそこで語られる物語は本来的には誰かに語るために生成されたものではない。ましてや自己意識を規定するために練られたものなんかでもない。
    デスクワークの慣性も、フットサルの合理性も、ドタキャンの正当性さえも多元的な可能性として含みながら、意思決定の代謝とでも言えそうな生存ー行動に紐づいた物語で、私は今もまさに生成され続けている。語られ続けている。

  • 分厚い本なので,ピークがどこにあるか分かりにくいんだよな.

  • 969夜

  • 知の多元的草稿モデル @千夜千冊 by 松岡 正剛

  • デネット……好き!

  • 図書館で借りた。

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