フレーム憑き―視ることと症候

  • 50人登録
  • 3.32評価
    • (3)
    • (3)
    • (18)
    • (1)
    • (0)
  • 7レビュー
著者 : 斎藤環
  • 青土社 (2004年6月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (318ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784791761180

フレーム憑き―視ることと症候の感想・レビュー・書評

並び替え:

表示形式:

表示件数:

  • 斎藤環先生が、臨床医だから読めます。

  • サイコパソロジー(精神病理学)的思考から映画や漫画を論じた一冊。球体間接人形のあたり共感。
    著者は基本的に映画にしろ漫画にしろ、その作品を褒めることしか言っていないのが気になる点。

  • 読み終わりました。映画とマンガの評論みたいなの。
    映画と漫画の奥深さを改めて感じました。マンガと映画見続けて精神分析ちょっと齧ればこのくらいの文章かけるようになるかしら。偽装インテリ。
    以下目に止まったフレーズ

    「身体は常に、局所的にしか、あるいはその不在を通じてしか、その存在を意識することができないのだ。身体論がこれほど困難に見えるのは、身体を全体として理解するフレームが存在しないためでおある。」

    →だからこそ身障者に目がいってしまうのかも?健常者とは違って可愛そうとかそーゆー哀れみとか同情の意思ではなく、無意識に身体論を考えているのかもしれません。

    「何もかもが視覚的に表現されうる時代にあって、逆に心や表現からは奥行きや深みなんかが失われてしまうんじゃないか。だからこそ、深みや個性の源として『トラウマ』がもてはやされるのかもね。」

    →ふーんって思ったんです。著者の斉藤氏はトラウマって言葉を良く使うから自分でもトラウマって何かナーと思っててこのフレーズがなんとなくしっくり来た。

    「ひとが物語なしに生きることはむずかしい。とりわけ大切な人を亡くして、しかし確実ななにかにすがることもできない時、ひとは物語にすがりつかずにはいられない。そうすることで、喪失感からくる麻痺やショックを逃れようとするのだ。うまく物語に組み込まれなかった喪失感は、亡霊のようなトラウマとなって、いつまでもひとの心に取り憑くだろう。だから、例えばお葬式は、一般的には遺されたものたちを物語によって癒そうとするセレモニー兼セラピーにほかならない。」

    →私事ですが立て続けに葬式に立ち会う機会があって、どうして葬式なんてするんだろうって真剣に考えてた時期にちょうどこのフレーズを見つけてすっきり、すっきりって感じでした。
    何事も多分物語として完結させることで断ち切るんでしょうか。

  • 映画の見方が変わる

  • 身体・フレーム・リアリティ 押井守イノセンス

    主語の器官
     顔、手 …主体の定位を教えずにはいない
     述語の器官

    人間には全体としての身体を認識できない、と押井を理解する斎藤
     身体は常にその局所的にしか、あるいは欠如を通してしかその存在を意識することができない。

    球体間接人形展

    ここで参照されるのはラカンの鏡像段階論である。
     鏡を見る体験は乳幼児に革命的なイメージを与える

    人間はみずからの身体を媒介として、あらゆるイメージに同一化することができる(擬態)
     イメージは常に身体的(イメージは常に物理的 か? 物体に還元できない夢に登場するイメージもある)
     だから人は人の形にこだわるのだ
     人形こそは、想像力に対してリアリティの審級をもたらす最大の要素

    押井とシュールレアリスト、ベルメールの人形との出会い
     New Yorkの写真美術館で感動の再会をなさしめたと
      ベルメールの意識に、人形をしたいとして眺めていた感覚があったのでは
     「実は精神分析的に驚くべき正確さで」と斎藤は押井を賛美。
       球体間接人形の本質を明かすものである
     シュールレアリズム運動はフロイトの精神分析と深い関係にあった
      点から考えても、言語と密接に結びついた表現運動であると
      表現を構成するエレメントは、ことごとく言語的な分節に従っており(言語以外の分節とは?)
       試みられるのはその意表を衝いた組み合わせなのだ「ミシンとコウモリ傘」
      言い換えるなら、言語分節に依存せざるをえなかった点にこそ、この運動の限界もまた潜在していたのである、と斎藤
     ベルメールがしたことは、人間の身体に言語的な分節を強制し、それをアナグラム的に組み替える試みではなかったか
      「アナグラム」は日本のシュールレアリズム評論家、瀧口修造によるものであると

    フィギュアなどの非可動式の人形と対比して、球体関節人形の関節がもたらす効果は「去勢」ではないか
     多様な運動性と力の潜在を表現することができる
      動的瞬間の凍結=可動式の欠如こそが生命力の有効な表現足りうるという逆説
     しかし関節を与えられた人形は、まさに関節の可動性ゆえに、脱力するよりほかにない
      死体に見えるのはそのためだ

    しかし去勢はまた人間の言語獲得を可能にする(言語を獲得したから去勢されたんではなかったっけ?)
     母子ワンセットで万能感にひたっている幼児
      父親による去勢という経験を経て、ペニス=万能性を断念
       象徴としてのファルスに変換することで、言葉を語る存在になる
     ひとは去勢されてはじめて、言語を獲得するのである
    ならば人形もまた去勢されることによって、よりリアルな身体性を獲得するとはいえないか、と
     リアルな新体制とは言葉にほかならないというここでの真実が明らかになる、と


    ベルメールが身体を扱うときのアナグラム的な手続き
    身体の各パーツが単語的に分節をこうむっている
    身体の言語性は、隠喩的な関係性において各部分がつながっている
    アナグラム的な欲望のもとで、身体の言語性はいっそう露わになり、身体のエロスが可能になる
    小調査用の及ばない場所にいかなるエロスもありえないことは言うまでもない
     寸題された身体とは去勢=象徴されない身体の である

    去勢=象徴化というパラドックスとして理解することができる
     象徴化は切断作用であり
      そのおおもとは死の欲動に基づいている
     言語となった身体はエロスを獲得することになる
     そこではタナトスこそがエロスをもたらす最大の契機
     欠如あるいは部分において、身体がリアリティを帯びることもこの連続に基づいている

    押井は決して進退それ自体がエロティックであるとは行っていない
     身体を見る主体の側において、事後的な象徴化をこうむることで、はじめてエロスを獲得する(女性は自身のエロスを男性の視点によって認識する)
    対象となる身体の主体は、むしろ象徴化とは無関係であったほうが良いのだ、と

    人間は醜く、それ以外のものが全て美しいとまで押井は極言する
     自意識の醜さと関連付けられる認識
     よって男よりはより無意識的な存在である女性のほうがいくぶんか美しく、
     人間以外の生物はすべて美しく、また人間の作り出した戦車や機関銃なども、自意識とは無関係の機能美ゆえに美しいのだ『創作ノート』p.21
    言葉という回路を経由して分節化し、象徴化した挙句に行き着いた果てが現代の身体を喪失した  文化である
     その所有者によって象徴化されることの問題

    問題は、他者の身体の象徴化
     内省的主体は身体的エロスを持つことができず、身体的エロスの所有者は内省することができないという一般的な図式

    人間の顔が現実界と想像界の界面にあると言いうる

    設定ではゴーストは劣化コピーしか生じない
     原像の転送は不可能である
    ゴーストハックされるゴーストは情報の塊か
     いや、ゴーストから、電脳へと繋がる接点でハッキングをかけるから、ゴースト自体にハッキングするわけではない
     ゴーストを包む情報信号を外から制御してしまうことがゴーストハッキングの実態だ
    斎藤はこの種の心身二元論をとらないため、コピーの可能性とともにゴーストの存在に懐疑的であると

    唯一絶対の現実がどこかにある、といった発想の危険性を、2人は警戒している

    押井「われわれに必要なのは実在するそれに等しい(あるいは必要十分な)情報量を持ちつつ、
    しかも映画の内部以外に何の根拠も持たぬ非在の登場人物である。」
    (情報量、が擬似信号であり、帰納が拠り所にするものである) 
     スタニスラフスキー・システム の端的な否定につながる

    視覚は主体と対象とのそれぞれを二重化するということである
     われわれは視覚によって世界と関わり、その結果として、世界は見えるものと見えないもので出来ているという二元論に至る
      最も一般的な例が心身二元論だ
       見える進退と見えない心(霊魂)
       この単純な認知形式から逃れなれない
        ちなみに聴覚は聞こえるものは実在する、という一元論で成立している
      逆に、視覚が機能しなければ心身二元論はきわめて困難になるだろう
     但し、この種の二元論も時代とともに変質する
      視覚メディアの登場で直接に見ることの優位性は失われた
       すべては間接的にモニターを介す
      

  • 精神医学的観点から映画評論

全7件中 1 - 7件を表示

フレーム憑き―視ることと症候を本棚に「読みたい」で登録しているひと

フレーム憑き―視ることと症候を本棚に「読み終わった」で登録しているひと

フレーム憑き―視ることと症候の作品紹介

映像の"真実"はどこへ行ったか。"リアル"はフレームに宿る。映画・アニメ・漫画などの視覚表現に現れた隠喩構造の変容を精神分析理論と臨床経験を武器に読み解き、解離・ひきこもり時代の症候をあぶりだす。

フレーム憑き―視ることと症候はこんな本です

ツイートする