テロリストの軌跡: モハメド・アタを追う

  • 草思社
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感想 : 7
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  • Amazon.co.jp ・本 (270ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794211378

作品紹介・あらすじ

9・11同時多発テロ。実行犯の中心人物アタの実像に迫った驚嘆すべき報告。

感想・レビュー・書評

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  • 本書を読むことで、昨今話題となっている原理主義者についての理解が深まった。

    原理主義によるテロには2つの共通点がある。

    (前提として、彼らは、本書で描かれているモハメド・アタを含め、留学や移住など様々な形で海外に根を下ろした経験がある場合が多い。)

    ひとつは、海外で差別の対象となったこと。アウェイな環境下に置かれ、その中で居場所を見つけられなかった時… 唯一の救いは宗教である。また精神的に安定しない彼らは、洗脳されやすい。

    もうひとつは、自国と比較する材料が生まれることで、いかに自国の政治が悲惨なものであるかということに気づいてしまうこと。本書であれば、モハメド・アタはエジプト出身であり、エジプトではコネがないと職に就けない。また、政府は国民が国民が援助を必要としている時も、助けるどころか喰いものにしてしまう。そんな政府に対して失望する。

    この2つを受け、彼らはアイデンティティを喪失し、原理主義に居場所を求めてしまう。
    彼らは本来はセンシティブで心の優しい人々だったのだが、その気弱さに漬け込んで、原理主義のターゲットとなってしまうのだ。

  • 9.11の主犯格であった、モハメド・アタは元々敬虔なイスラム教徒ではなかったとされている。その中で原理主義的なイスラム教徒に変わってしまった過程が描かれている。
    イスラム社会の中で育った者がヨーロッパの世俗主義社会で生きる苦しさが読み取れた。本の中には、カイロ出身のアラブ人でベルリン自由大学研究員のアムル・ハムザウィ氏の言葉がある。「アタも過激なイスラム教徒として、ドイツに来たわけではないと思う。異質な世界での孤独感や不安感から、母国語を話す人たちによりどころを求めた。」
    9.11の後、イスラム過激派によるテロを「グローバル化による貧困」と結びつける論調が多く見られたが、それはほとんどの場合間違いであった。なぜなら、9.11の実行犯たちの多くはサウジアラビア出身であり、モハメド・アタに限らずアラブ世界の貧困者とはほど遠かったからだ。   

  • (2005.08.25読了)(2005.07.27購入)
    副題「モハメド・アタを追う」
    2001年9月11日午前8時45分、世界貿易センタービル北塔に旅客機が突っ込んだ。事故ではなく、旅客機による自爆テロだった。一機目の旅客機が飛び込んだことを報じるテレビ映像に二機目の旅客機が世界貿易センタービル南塔に飛び込む様子が映し出された。
    1993年2月26日、世界貿易センタービル地下駐車場に仕掛けられた車爆弾が爆発し、死者6人、負傷者千人以上を出す惨事があったので、またしてもイスラム原理主義者に違いないと思いながら見ているうちにペンタゴンもやられたとか、大変なことになってしまい、10時ごろには、世界貿易センタービルが崩れ落ちてしまった。
    この事件の主犯格の男の名前は、モハメド・アタ。「優秀で、礼儀正しく、政治や宗教には無関心な青年だった。故郷エジプトのカイロを離れ、ドイツのハンブルクに渡った彼が、世界中を恐怖に陥れるテロリストに変身した。その男が信じたものはいったい何だったのか。」この本は、このモハメド・アタを追いかけて新聞に連載したものを本にまとめたものです。

    「アタは1968年、エジプトのナイル・デルタの農村地帯カフルシェイクの村で生まれた。村には母の実家があった。一家はアタが生まれる前からカイロに出てきており、里帰り出産と見られる。彼は小学校時代を、ナイル川沿いに当たるアルマニアル地区で過ごした。1978年、アタが中学に上がるとき、一家は市中心部の下町、アブディーン地区のアパートに移る。」父は弁護士で、アタには、二人の姉がいる。「中学時代アタは他の生徒より年齢が一つ下だった。小学生時代から優秀で、一年飛び級したためだと聞いた。」
    「1985年、アタは、カイロ大学の工学部に進む。アタは工学部で建築学を専攻していた。」
    「アタは1990年、21歳でカイロ大学工学部を卒業する。それからハンブルクに留学する1992年まで、2年間、二ヵ所の地元企業で働いた。」「カイロ大学を卒業しても、就職できない人は3割近くに上るという。彼らはパートタイムの仕事を探すしかない。」
    「人気の高い大企業や外国資本の企業ほど、力のある親や親戚の紹介がものを言います。優秀であってもコネがなければ、自分のやりたい仕事につく事はできない。」
    「1992年、彼は父親の説得でドイツに留学することになった。博士号などの、より有利なキャリアを手に入れるためだった。大学時代の努力で、既に英語とドイツ語は流暢に話せるようになっていた。」
    「イスラム圏から来た学生は、数年たつと二つのタイプに分かれる。一方は、西欧社会を受け入れて溶け込もうとするタイプ。他方は西欧を拒否し、仲間だけの世界を強く固めようとするタイプ。アタは後者だった。」(ハンブルク工科大学でアタの指導教授だったディトマー・マフーレの話)
    「ハンブルク工科大学に入った1992年秋から1997年7月まで、アタはハンブルクの都市計画研究所「プランコントル」で製図工のアルバイトをした。」「仕事を始めて数週間たった頃、「事務所でお祈りをさせてもらってかまわないでしょうか」と遠慮がちに尋ねた。許可がでると、アタは事務所の隅にじゅうたんを敷いて祈り始めた。」
    「エジプトの学生時代のアタは勉強一筋で、宗教や政治に全く関心を示さなかったとの証言がある。それが、ハンブルクに留学した1992年には既に、熱心なイスラム教徒になっていた。」
    「ハンブルク工科大学で都市計画学を専攻したアタは、卒論のテーマにシリアのアレッポを選んだ。1994年に二回アレッポを訪れ、計5週間を過ごしている。」「アタが愛したのは、典型的な中世のアラブ様式の家だったという。」
    「1995年、アタはサウジアラビアを訪れ、メッカ巡礼を果たした。その秋、エジプト・カイロで三ヶ月間、都市計画の研修をする。」
    研修のテーマは「カイロ旧市街における都市及び交通計画」。アタの提案したテーマで、二人のドイツ人学生と一緒の研修だった。
    研修で一緒だった学生との会話の中で、以下のようなことを言っている。
    「西欧とイスラム社会は対等な関係じゃない。われわれは犠牲者だ。」「われわれイスラム教徒は抑圧された被害者だ。欧米の陰謀に対して自らを守り続けなければならない。」
    研修から戻ったアタがプランコントルの事務所で以下のことを話した。
    「高層建築や広い道路といった米国的な都市計画は、アラブのアイデンティティーを壊す。」「エジプトは無批判に西欧型の都市計画を取り入れ、古都を壊している。」「自分は将来、絶対にエジプトに戻りたい。伝統的な価値を尊重し、古都に相応しい都市計画をしたいから。」
    1996年4月11日、アタは遺書を書いている。遺書は、葬儀のやり方などについて18項目にわたる希望を書き連ねている。
    「遺書的な文章を作成する儀式は宗教団体に限らず秘密結社にしばしば見られます。でも、通常それは入会の際なのです。」「アタがアルカイダのメンバーとなった日と推定されます。只、それは仮説に過ぎません。」
    アタたちテロリストは、イスラム教徒なのか?
    「例えば地下鉄サリン事件を見て「だから仏教徒は危険だ」なんていえますか。同時多発テロの犯人をイスラム教と結びつけるのは、それと同じ発想です。イスラム教は彼らにとって仮面に過ぎない。」
    「1996年から1998年ごろまで2年間、アタはアフガニスタンにいた。ドイツからではなく、カイロから向かった。」
    1999年1月9日、アタはハンブルク工科大学の学生代表会議を訪れ、イスラム学生のための「祈りの部屋」を要求し、許可された。
    200年3月、アタはオクラホマ州ノーマンの「エアマン航空学校」にEメールを送り、学校の設備や教育課程について尋ねている。
    「2000年6月3日、アタは米国に渡った。」
    2000年7月3日、フロリダ州ベニスにある「ホフマン航空学校」に入学を申請して最初の授業料を払い込む。世界貿易センタービル突入の二機目を操縦したとされるマルワン・アルシェヒと一緒だった。
    免許を取る目的を尋ねられると「サウジアラビアの出身。免許が取れたら国に帰って航空会社のパイロットになりたい」と語っている。
    2000年12月28日二人は免許を取得し、学校を卒業した。
    2001年2月、フロリダ州ベルグレードの町外れにある農薬散布用の小型機の飛行場をアタたちが訪れた。病原菌や化学物質を都市部でまくつもりだったのか。
    2001年5月、アメリカン航空機、ユナイテッド航空機など同時多発テロに加わった4機の各操縦者ら主要メンバー5人が、時期をずらして「下見飛行」を始める。実際の乗っ取り機のルートに合わせ、米東海岸から西海岸に向かった。
    アタは2001年9月11日、ボストンから直接ハイジャック機に搭乗したのではない。メーン州ポートランド発の便から乗り継いでいる。
    「同時多発テロ後、米国では急速に反イスラム感情が広がり、暴力や嫌がらせが続出した。米イスラム関係評議会によると、テロから2002年1月下旬までに、無関係な10人が殺された。他に284人が襲撃され、311人に脅迫状が送られた。」

    ●エピローグ
    1992年、エジプト地震が起きた。
    「全国で140のアパートが倒壊し、死者は520人を超した。数千人が家を失った。しかし政府の対応は鈍かった。不明者の捜索に軍が出動したのは地震の数日後で、ヨーロッパ各国からの救援隊の活動のほうが早かった。食料や医療の救援も大きく遅れた。大統領は「犠牲者の遺族には5千エジプトポンドの見舞金を出す」「被災者は公営住宅の空き室に優先入居させる」と表明した。しかし、知り合いの遺族が手にした見舞金は500エジプトポンドだけだった。途中で大部分が役人のポケットに入ってしまったらしい。また公営住宅の空き室に入居したのは、被災者でもない役人の親戚だった。」
    被災者たちに援助の手を差し伸べたのは、イスラム原理主義団体「ムスリム同胞団」の人々だった。
    ビンラディンは、貧困や不公平などの社会悪が生まれるのは米国のせいだ、中東の腐敗政府を操り、世界支配をたくらむ米国に打撃を与えなければならない。一人でも多くのアメリカ人を殺せ。といってあおる。

    (「MARC」データベースより)amazon
    2001年9月11日、ニューヨークで起きた同時多発テロの実行犯の中心人物モハメド・アタ。生い立ちからテロに至るまでの足どりを辿ることで、彼の実像に迫る。朝日新聞外報部スタッフによる迫真のノンフィクション。

  • 米同時多発テロのことを知っておきながら、そのテロの中心人物である「モハメド・アタ」の名前を全く知らなかった自分にひどく失望した。いや、おそらく日本のほとんどの人が知らないんじゃないかと思う。これからは世界事情にもっと注視しなければいけないなと内省しました。
    この本を読んである程度「モハメド・アタ」がどういう人物だったのかは理解した。礼儀正しくて内気、やさしいし頭がいい。まさに優等生だったらしいのだ。それがなぜテロリストなんかに…?って最初は思っていた。彼が変わり始めたのはドイツのハンブルグ工科大学進学後であるからそこできっとヨーロッパでの「アラブ人への偏見」を経験し母国エジプトへの不満も募りアルカイダの「一本釣り」に引っかかったんだと思う。純粋な性格ゆえどっぷりイスラム原理主義になり、なおかつ過激派にまでなってしまったのだろうか。
    またテロに着目したときに強く感じたのは「悲しみの連鎖」だ。テロ後にどれだけイスラム教の人々が厳しい扱いを受けてたか死んでしまったアタにはわからないだろう。イスラム教の人々のためにとした行動がかえって彼らを苦しめることになってしまったっていうのに。この一連のテロ行動は日本の真珠湾攻撃を思い出してしまう。差別と偏見から憎しみが生れ、その憎しみがアルカイダという組織によって行動力を伴い、そこからまた憎しみが生まれている。この連鎖を解決する方法を僕らは見つけなくてはならない。そうしなければ戦争のない未来は単なる希望的なものに終わってしまう。ちなみに取材班の方々は「将来に希望のある人はテロなどに加わらない。21世紀を『テロの世紀』にしないために生きる張り合いのある社会を世界中に作っていくことが大切だ。国際化の中で一国だけがテロから無縁でいられるような状況はないのだから。若者が希望を持てる社会づくりに向けて努力していくしかない」と述べてりる。事実アタも差別・偏見により絶望した心の隙間から過激派的思考に取り込まれている。これからイスラム社会、アメリカ・ヨーロッパ社会の動きに注目ですなぁ。

    っていうのがこの同時多発テロとアタとを結んで考えてた個人的な考え。それとは別に現代のメディアの行動力or調査力には感嘆した。「何よりも雄弁なファクトだけを使い、モザイク画を丹念に描き出してゆこう」というのが取材班の基本方針らしいのだがここまで詳しく緻密にまとめられたものを目の当たりにすると読みながらこの情報を集めた彼らの熱意も伝わってきたからだ。メディア凄し!!!この本だけは誰にもかさねぇ…。

  • ★日本人が書く意味は★人と時間の割き方に朝日新聞の懐の深さを感じる。全体像をつかむのに分かりやすく、ところどころのエピソードもそこそこ興味深い。生真面目な若者が留学で孤独と差別に直面し、イスラムの反動的な思想に走ったとみる。そうした分析は一面では当たっているかもしれないが、どこでも起きうる話だ。その先は何なのだろうか。現地の報道を基に取材を上積みしたのは分かるが、内容を考えれば現地の優れた報告を翻訳したものでも十分ではないか。あえて情報に乏しい日本の新聞社が取材し報道する意義はどこに見い出せばいいのか。埋もれた事実を掘り起こすか、第三者の視点から新たな分析を加えるしかないのだろう。

  • 最後の方の20ページだけでいい。ドキュメンタリーにしては取材が不十分な気がした

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