- Amazon.co.jp ・本 (223ページ)
- / ISBN・EAN: 9784796698979
感想・レビュー・書評
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黒川さんの視点「語感とは、発音の体感によって生じる、脳のイメージのことだ。」+「声帯振動音」から与える印象について書かれています。
語感をより詳しく知りたい方は「言葉のトリセツ」もおすすめです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
言葉の語感に敏感にならねばと思い直した。
「ふ」は、時間を止める音。想念の世界に誘う音。
「ふ」は、心を解く。
「やれやれ」負の目を勝ち目に変える魔法のセリフ。代わりのいない、大事な仕事を抱えるオトナの男たちの必需品である。
「寄り添う」
「ありがとう」
「うれしい」
「おはよう」「おかえり」 -
エッセイの連載で読むのが良いボリュームかも。初めて読んだが筆者はオープンな人ですね。
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面白かった。
自分の名前も好きになれそうです。 -
素敵な単語をたくさん覚えました。
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日本語の「かな」が音としてどのような効果を持つのかを知ることができる1冊。「語感」については、以前から興味があり、相手にとって常にベストフィットする言葉を選んで遣える人間になりたいと思っていた。音それぞれに魅力や影響がある。科学的というより、感覚的な説明。それでも、文字の力を言葉で表すのは難しいのに、とてもわかりやすい説明で、自分が持つ感覚と近くて「なるほど」と思うことが多かった。本書では、著者の嗜好?か、恋愛系の引用が多かったが、文字ひとつひとつが持つ特徴を理解しておけば、どんな場でも「ベストな言葉選び・言葉遣い」ができるはず。文字だけでなく、それを組み合わせた言葉にも相乗して様々な効果を持たせられることも興味深い。著者の「市場の気分」にも興味がある。語感については、もっと勉強を深めたい。
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podcastで知ったことがきっかけで読んだ本です。
コトバのもつ感覚について解説をしている本です。
正直言って、一般的な解説の部分はちょっと退屈。
一方「美人のくちびる」という単なる解説ではないコラムのようなものは楽しく読めました。 -
言葉の音が表すイメージのようなものは、あまり同感だと思うことはなかった。
途中途中で挟まれるコラムのようなものは、作家さんならではのロマンチックな切り口が新鮮で興味深く読めた。 -
たとえば、「ブ」や「バ」といったB音は「むくむくと膨れ上がるイメージ」を持ち、「累々と重なる感じも彷彿とさせます」と黒川さんは述べている。そのために「薔薇は、あのふっくらと重たげな花弁が累々と重なるイメージにぴったりの語感」であり、「豚バラも、肉屋のトレイに並ぶ姿のイメージとぴったり」だという。そして、英語のバブル(泡)やダブル(重複)、バイ(乗除)にも「ふっくらと、累々と」を示すB音が使われている!
このような黒川さんの考えは言語学的には音象徴論などと言われ、「ナンセンス」――黒川さんはこの「ナンセンス」という評価を誤解しているきらいもあるけれど――だと評される。日本語学史的にも、江戸時代の国学者による「音義派」というほぼ同じ考えが存在しているが、やはり否定されている。しかし、黒川さんはそれを認めない。この音象徴論を「ナンセンス」と評されたことを恨み(?)、「音象徴にまっこうから挑」む。それが本書にある背景である。
そのような野心が本書には見えるわけだが、残念なことに、音象徴論の限界を示すのもまた本書である。それを示すために、やや恣意的に、本書の記述を拾ってみたい。
黒川さんは「は」という音韻を「速くて儚い息の音」だと定義し、「『はつこい(初恋)』は、だから、切ないのかもしれませんね」という。しかし、「初恋」が「切ない」のは、「は」という音韻を用いているからなのか。疑問が残る。「初恋」は「初恋」だから切ないのであって、決してそれは「は」の力によるものではないのではないか。では「初挑戦」は「切ない」のか。「初商い」は「切ない」のか。
黒川さんは「ひ」を「怖い音」だと言う。その「ひ」を冠する「ヒッチコック」は、「怖さを名前(ブランド)に持ってい」て、「まさに神が与えし名前だったに違いありません」。仮にここまでは許容しよう。だが、続いてこう述べる。「同じように、『ディズニーの』がつけば、どんなタイトルもファンタジーになってしまうし、『シャネルの』がつけば、どんなタイトルもオシャレになってしまいます」。ここがわからない。確かに「ディズニーの」が付いていれば、「ファンタジー」を感じるかもしれない。しかし、それは音韻の力によるものではなく、ディズニー社の企業努力による成果であろう。
はたまた、黒川さんはこうも述べる。「名前を名乗るとき、『千恵といいます』より『千恵です』というこの方が、甘やかな印象を残します」。僕個人としては、「千恵といいます」の方が「甘やか」に感じるし、ここまでくると、ある種の禅問答のように感じてしまう。
いくら本書を精読しても、どうしても納得のいかない箇所が現れる。どうにも科学的ではないのだ。これは音象徴論の限界を示していることに他ならない。
なるほど、音象徴論の有用性を認めたい気持ちはわかる。たとえば、「ぬ」という音韻を使った語句を考えてみよう。「沼」、「ヌメヌメ」、「ヌルヌル」……。さらに拡大解釈し、ナ行音について見てみる。「糊」、「ナメクジ」、「ナメコ」、「ネトネト」……。見渡してみると、いずれもが何か粘性を持った語であることに気付かされる(なんと、「粘性」も「ネんせい」なのだ!)。とはいえ、ナ行音が粘性を表すのかといえば、必ずしもそうではなく、「成る」「夏」「猫」などなど、粘性を持たないナ行音の語句など山ほどある。どうしたって音象徴論だけでは説明がつかない(過激論者になれば、無理にでも「『成る』は変化を表し、変化には粘性を伴う!」とか「夏は汗をかいて、体に粘りが現れる!」とか「猫は体が柔らかく、粘性めいたものを感じる!」とかとでも言うのであろうが)。
日本人の認知構造の中に、音象徴論的な要素が全く孕まれていないとは言わないが、それを言語学の一部として認めるのはまだまだ難しい。一種の自己啓発モノとして音象徴論を扱うというのであれば、それはどうぞご勝手に、といったところだろうが。
【目次】
序章 ことばの本当の力
第1章 情を伝える、息の音たち
第2章 心を惑わす、ゆらぎのことばたち
第3章 親密感を作り出す、撫でることばたち
第4章 オトナの余裕を作り出す、停滞の音たち
第5章 執着をかわす、風の音たち
第6章 素直さを伝える、母音たち
終章 言葉は媚薬となりうるか -
ほー、とは思うんだけど、なかなか頭に入ってこないから実際の会話で何も活かせない…。自分の言葉遣いが良くないからしっくりこないのか。明らかに世代が違う文章にまだ対応できるほど大人じゃないのか。